2021年4月21日 (水)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その126

はてしなき議論の後の
疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひよろろろと、
また、ひよろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。
                (一九一一・六・一七)
 「同志の中の誰彼の心弱さ」を憎んでいるのではない、自身の「心弱さ」を憎んでいるのだ。だからゆくりなくも「かの呼子の笛が思ひ出され」たのだ、「ひよろろろと、/また、ひよろろろと」。
 そのことは最後の3行に痛ましくも露出している。ライバル白秋の『思ひ出』という豊かな達成にくらべて、自分はどうしてこうも満たされない(餓えて空しい)のだ。3年前は小説に賭けて失敗した。先日は「樹木と果実」が誕生を前に挫折した。牧水が置いていった「創作」5月号の誌友会記事「電気人形」によると、白秋はパンの会の連中と饗宴乱舞の世界を謳歌している。自分はすでに5ヶ月近く病床にある。健康も無ければ金も無い。「わが心の餓ゑて空しきこと、/今も猶昔のごとし
それでもこの詩に日付けを入れる、「一九一一・六・一七」。

2021年4月20日 (火)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その125

     八
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
」から「」まではモチーフはつかめないまでも、クロポトキン自伝の世界や幸德事件の関係者らしき人物が詩の底に潜んでいることは感得された。しかしこの詩はどうだ、「げに(ほんとうに)かの場末の縁日の夜の……呼子の笛はかなしかりしかな」。「」は白秋詩を直接継いで書き起こされている。「」から「」までの世界とは何の関係もない。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事をか語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは三年も前の記憶なり。
 悲しい日々が悲しい詩句となって流れている。
 この日は「はてしなき議論の後」の終章(に相当する章)を書き上げて長詩を完成する予定だったのだが。序章「」とは無縁の詩が終章たりうるはずがない。
 しかし啄木はうわごとようにつづける。

 

2021年4月19日 (月)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その124

 「断章」三十五、三十六に差しかかった時、啄木はその2編から前に進めなくなったらしい。
   三十五
縁日(えんにち)の見世ものの、臭き瓦斯にも面(おもて)うつし、
怪しげの幕のひまより活動写真(くわつどう)の色は透かせど、
かくもまた廉白粉(やすおしろひ)の、人込のなかもありけど、
さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなさ、涙ながるる。

  三十六
(ひな)びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
いそがしき活動写真(くわつどうしやしん)煤びたる布に映すと、
かりそめの場末の小屋に瓦斯の火の消え落つるとき、
鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
 
 この2編が悲しい日々を思い起こさせた。その日々は1908年(明41)11月1日にはじまった。はじめて小説(「鳥影」)の仕事が舞いこんだ。自信の無いまま驚喜して引き受けた。ますますの自信喪失とはじめて手にする原稿料収入とが、浅草・塔下苑へいざなった。それは地獄の日々のはじまりだった。やがてローマ字日記の煉獄を経て悲しみの日々から抜け出したのだった(09年6月)。白秋の「断章」二編は悲しい日々を鮮烈に思い出させた。悲しい詩興が生じた。「はてしなき議論の後」のノ-トを取り出し「」と銘打って、ぶっつけに書き出す。(「」~「」までは原稿紙に書いてから清書していたのに。)

2021年4月18日 (日)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その123

    
 あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、
 ほのかにも見いでつる、青き果のうれひよ。
 あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。
 ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる
 あはれその青き果のうれひよ。
 啄木はこの一編から3年前の9月1日の夜「木の果は色づきぬ」を作ったのだった。
 09年(明42)12月には「屋上庭園」創刊号巻頭の白秋詩「雑草園」に触発されて、口語自由詩の傑作「夏の街の恐怖」を生み出したのだった。
 このような啄木の創作上の契機は白秋の場合に限らない。去年(明43)3月、前田夕暮の自然主義短歌に触発されて、啄木調を創始したのだった。今年に入ってからは川路柳虹『路傍の花』によって「詩六章」を作った。
 詩人啄木は白秋の傑作に触発されて創作しただけではない、創作上の軌道がかわったこともあった。これもすでに見たことであるが、09年(明42)4月3日白秋から『邪宗門』が届いたとき、かれは日記をローマ字で書き始めた。『邪宗門』は当時の啄木の敗残の現実を否応なく映し出す鏡であった。こうして啄木日記の大傑作「ローマ字日記」は事実上その時にはじまったのだった。
 啄木は3年前の08年(明41)9月の段階で『邪宗門』にまとめられてゆく官能的耽美派的傾向の詩を批判し拒否していた。それなのにこれだけの衝撃を受けたのである。当時から最高の讃辞を送っていた他面の白秋詩が凝縮した『思ひ出』から衝撃を受けないはずが無い。

2021年4月17日 (土)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その122

 そしていよいよ「断章」の章がはじまる。 
 「断章」については3年前こう書いているのをわれわれはすでに見ている。
 此頃毎号心の花に出してゐる”断章”の短い叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。  
 心にくき許り気持のよい詩だ。(日記1908.9.1)
 この「明治四十一年日誌」九月一日の夜、啄木は「断章」に触発され、「青き家」「木の果は色づきぬ」など一二編もの抒情詩を作ったのだった。
 その「断章」61編が、今や『思ひ出』の詩風を代表するかのように、集中に収まっている。
    一
 今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、
 銀の小笛の音もほそく、ひとり幽かに、
 すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、
 薄き光に。
 
    七
  見るとなく涙ながれぬ。
  かの小鳥
  在ればまた来て、
  茨(いばら)のなかの紅き実を啄(ついば)み去るを。
  あはれまた、
  啄み去るを。
 三年前この詩と蕪村の句によって、自分も歌を作ったのだった。
  愁ひ来て
  丘にのぼれば
  名も知らぬ鳥啄めり赤き茨(ばら)の実
そして去年12月に出した『一握の砂』にも収めたのだった。

2021年4月15日 (木)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その121

 四六半截の表紙の平に骨牌のダイヤの女王が原色で刷られ、下にはローマ字で「OMOIDE」のタイトル。背には線書きのスペードがあしらわれ、裏表紙の中心には赤いダイヤのポイント。口絵は赤帽のピエロ。
 序文「わが生ひたち」。啄木は「明治四十一年日誌」の一二月一一日に
 (下宿に)帰つてくると、北原白秋君。――予は今日虚心坦懐で白秋君と過去と現在とを語つた。……北原君の幼時、その南国的な色彩豊かな故郷! そして君はその初め、予を天才を以て自任してる者と思ひ、競争するつもりだつたと!
 戦は境遇のために勝敗早くついた。予は負けた。
と記したのであった。その北原の「幼時、その南国的な色彩豊かな故郷!」が十全の(上田敏が涙を落としたという)名文で綴られる。啄木は「わが生ひたち」を読み終えたときすでに『思ひ出』の世界に耽溺していたにちがいない。  
 そしてそのまま本文・詩の世界に入っていった。
 序詩は
  思ひ出は首すじの赤い蛍の
  午後(ひるすぎ)のおぼつかない触覚(てざはり)のやうに、
  ふうわりと青みを帯びた
  光るとも見えぬ光?
と白秋独擅場の感覚で紡ぎだされてゆく。
 次いで「骨牌の女王 童謡」の章が展開する。
  金の入日に繻子(しゆす)の黒――
  黒い喪服を身につけて、
  いとつつましうひとはゆく。
  海のあなたの故郷(ふるさと)は今日も入日のさみしかろ。
  夏のゆく日の東京に
  茴香艸(うゐきやうさう)の花つけて淡い粉ふるこのごろを、
  ほんに品(しな)よきかの国のわかい王(キング)もさみしかろ。
  心ままなる歌ひ女(め)のエロル夫人もさみしかろ。
とつづく「金の入日に繻子の黒」。
 さてまた
  長崎の、長崎の
  人形つくりはおもしろや、
  色硝子………青い光線(ひすじ)の射(さ)すなかで
  白い埴(ねばつち)こねまわし、糊で溶かして、砥の粉(と)を交ぜて、
  ついととろりと轆轤(ろくろ)にかけて、
  伏せてかへせば頭(あたま)が出来る。
  ……
 白秋の言葉の魔術は百年後の今日でさえ、「人形つくり」の幻想的世界に引き込んでゆく。

 

2021年4月14日 (水)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その120

    九

 我が友は、今日もまた、
 マルクスの「資本論(キヤピタル)」の
 難解になやみつつあるならむ。

 わが身のまはりには、
 黄色なる小さき花片が、ほろほろと、
 何故とはなけれど、
 ほろほろと散るごときけはひあり。

 もう三十にもなるといふ、
 身の丈三尺ばかりなる女の、
 赤き扇をかざして踊るを、
 見せ物にて見たることあり。
 あれはいつのことなりけむ。

 それはさうと、あの女は――
 ただ一度我等の会合に出て、
 それきり来なくなりし――
 あの女は、
 今はどうしてゐるらむ。

 明るき午後のものとなき静心なさ。

 この長詩は格調高い一~七と格調を失った八・九とからなる。しかもは序章とみなされるが、対応する終章は無い。の末尾には日付けが無い。現存する原テキスト の末尾はノートの罫一行半ほどを残してはさみで切り取られているが、そこには日付けを入れるだけの余白はある。日付けを啄木が記入しなかったのは、ここで長詩制作を中断したことを示す。
 したがってこの長詩は未完であり龍頭蛇尾であり、長詩として読むことは不可能である。問題はなぜで、ついででも格調を失ったのか、である。
 答えは一つしか無い。六月一七日(おそらく午前中)に北原白秋から新刊の第二詩集『抒情小曲集 思ひ出』(東雲堂書店、明治四十四年六月五日刊)が届いたのである。

2021年4月13日 (火)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その119

 悲しい詩興が生じた。「はてしなき議論の後」のノ-トを取り出し「」と銘打って、ぶっつけに書き出す。(「」~「七」までは原稿紙に書いてから清書していたのに。)

     八
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
 「二」から「七」まではモチーフはつかめないまでも、クロポトキン自伝の世界や幸德事件の関係者らしき人物が詩の底に潜んでいることは感得された。しかしこの詩はどうだ、「げに(ほんとうに)かの場末の縁日の夜の……呼子の笛はかなしかりしかな」。「」は白秋詩を直接継いで書き起こされている。「」から「」までの世界とは何の関係もない。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事をか語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは三年も前の記憶なり。
 悲しい日々が悲しい詩句となって流れている。
この日は「はてしなき議論の後」の終章(八に相当する章)を書き上げて長詩を完成する予定だったのだが。序章「」とは無縁の詩が終章たりうるはずがない。
 しかし啄木はうわごとようにつづける。
はてしなき議論の後の
疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひよろろろと、
また、ひよろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。
                (一九一一・六・一七)

2021年4月12日 (月)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その118

 詩人啄木は白秋の傑作に触発されて創作しただけではない、創作上の軌道がかわったこともあった。これもすでに見たことであるが、09年(明42)4月3日白秋から『邪宗門』が届いたとき、かれは日記をローマ字で書き始めた。『邪宗門』は当時の啄木の敗残の現実を否応なく映し出す鏡であった。こうして啄木日記の大傑作「ローマ字日記」は事実上その時にはじまったのだった。
 啄木は3年前の08年(明41)9月の段階で『邪宗門』にまとめられてゆく官能的耽美派的傾向の詩を批判し拒否していた。それなのにこれだけの衝撃を受けたのである。当時から最高の讃辞を送っていた他面の白秋詩が凝縮した『思ひ出』から衝撃を受けないはずが無い。
 「断章三十五三十六に差しかかった時、啄木はその2編から前に進めなくなったらしい。
   三十五
縁日(えんにち)の見世ものの、臭(くさ)き瓦斯にも面うつし、
怪しげの幕のひまより活動写真(くわつどう)の色は透かせど、
かくもまた廉(やす)白粉(おしろひ)の、人込のなかもありけど、
さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなさ、涙ながるる。

  三十六
(ひな)びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
いそがしき活動(くわつどう)写真(しやしん)煤びたる布に映すと、
かりそめの場末の小屋に瓦斯の火の消え落つるとき、
鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
 
 この二編が悲しい日々を思い起こさせた。その日々は1908年(明41)11月1日にはじまった。はじめて小説(「鳥影」)の仕事が舞いこんだ。自信の無いまま驚喜して引き受けた。ますますの自信喪失とはじめて手にする原稿料収入とが、浅草・塔下苑へいざなった。それは地獄の日々のはじまりだった。やがてローマ字日記の煉獄を経て悲しみの日々から抜け出したのだった(09年6月)。白秋の「断章」2編は悲しい日々を鮮烈に思い出させた。

2021年4月11日 (日)

石川啄木伝東京編1911年(明治44)その117

 その「断章」六一編が、今や『思ひ出』の詩風を代表するかのように、集中に収まっている。
    一
  今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、
  銀の小笛の音もほそく、ひとり幽かに、
  すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、
  薄き光に。
 
    七
  見るとなく涙ながれぬ。
  かの小鳥
  在ればまた来て、
  茨(いばら)のなかの紅き実を啄(ついば)み去るを。
  あはれまた、
  啄み去るを。
 三年前この詩と蕪村の句によって、自分も歌を作ったのだった。
  愁ひ来て
  丘にのぼれば
  名も知らぬ鳥啄めり赤き茨(ばら)の実
 そして去年12月に出した『一握の砂』にも収めたのだった。

    十
  あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、
  ほのかにも見いでつる、青き果のうれひよ。
  あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。
  ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる
  あはれその青き果のうれひよ。
 啄木はこの1編から3年前の9月1日の夜「木の果は色づきぬ」を作ったのだった。
 09年(明42)12月には「屋上庭園」創刊号巻頭の白秋詩「雑草園」に触発されて、口語自由詩の傑作「夏の街の恐怖」を生み出したのだった。
 このような啄木の創作上の契機は白秋の場合に限らない。去年(明43)3月、前田夕暮の自然主義短歌に触発されて、啄木調を創始したのだった。今年に入ってからは川路柳虹『路傍の花』によって「詩六章」を作った。

 

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