2020年7月 4日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その169

 たとえば岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』(筑摩書房、1985
年)の「歌集解題」を引いてみよう。岩城はこの「見本刷」
を校正刷りと解している。
 歌集『一握の砂』の校正刷が出始めたのは、それよりま
もない十月二十九日の夜のことであったが、この日は生後
わずか二十四日でこの世を去った長男真一の葬儀の日であ
った。啄木はこの夭折した愛児の死を悼んで、挽歌八首を
追加して五百五十一首とした。
 こうしてこれまでだれもが29日に校正が始まりその時に
挽歌8首が追加されたと思いこんできた。しかし手紙の文
脈をあらためてたどると「見本組」は歌集本文ページにお
ける歌の組み方見本の意味である。この歌集は従来の歌集
とはおもむきを異にし、詩集に近い。啄木は書簡のここでは
前述のごとく、ページの紙の質から表紙の紙質・色、製本上
の注意、表紙絵、カバーにいたるまで詳細に指示を出して
いる。わけても神経をつかったのが一ページ二首の組み方
であろう。どの大きさのページのどの位置に1首目を組み、
2首目はどこに組むか、活字の大きさ・書体はなにがいい
か。字間・行間はどの組み方がベストか。こうしたことは
この歌集編集上の眼目の内である。そしてこれらについて
はすでに具体的に指定してあったことも文中にうかがいう
る。ところが西村はこの組み方をしながらも、四六判とは
ちがう判型を提案してきたらしい。啄木はそれにたいし、
やはり「四六版ニテ竪五分許り短カキ」にすると言い、
その判型にすれば歌の組み方はこの見本どおりでよい、
としている。

2020年7月 3日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その168

 表紙画同封いたし候、これは木版でも石版でもよろしく、
色の校正刷は必ず一応名取氏(南品川海妟寺前)へお廻し
被下度候
 背は貼りつけるよりも表紙の紙へ黒で印刷した方よから
んとの名取氏の意見に候、
 二号ゴシック一握の砂 4号石川啄木著
と下の方をあけて印刷させ被下度候 
 それから序文及び本文終りの方再校至急送る様活版所へ
電話おかけ被下度、その校正と共に順序送るべく候、                                 
                  石川啄木
   西村兄 侍史

 尚薮野椋十氏の序文は変更又は除くかも知れず、今夜逢
ふ筈になり居り候
 文中に「序文及び本文終りの方再校至急送る様」云々と
ある。したがってこの手紙の時点は「序文及び本文終りの
」の原稿ができて、初校ゲラが出て、その初校の校正は
終わっているが、まだ再校ゲラは出ていない段階というこ
とになる。以下に10月29日付書簡からこの書簡までの間に
何があり得たかその経緯をさぐってみよう。まず29日の書
簡から見てゆく。
 従来の研究ではこの書簡中の「見本組」は校正刷り(初校)
と理解されてきた。それは郁雨あて書簡の先のくだり、そし
て『一握の砂』の献辞のつぎのようなくだりなどとも関係
している。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書
肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料
は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲し
たるは汝の火葬の夜なりき。」ここにはたしかに「見本刷」
とある。

2020年7月 2日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その167

 しかし実際には29日になって「見本組」が届いた。この
日づけの西村辰五郎あて書簡がある。冒頭は28日午前0時
すぎに死んだ長男真一への西村の弔辞にたいする謝辞、火
葬の報告などが記される。以下はそのつづきである。
 お送り下され候ふ見本組、矢張四六版に願ひたく、体裁
の儀は朱書いたし置候、仰せの如く序文は書きかへねば都
合をかしく候に付、あの一枚だけ一寸お送り戻し下され度
願上候、それからこの組方は土岐氏の“NAKIWARAI”と同じ
大いさ(四六版ニテ竪五分許り短カキ)でなければ少々変
なるべしと存候に付、……それから表紙に貼りつける絵は
名取氏の方にて出来次第お送り致すべく、……
 この書簡以後12月1日(『一握の砂』刊行の日付)まで
の約1カ月間について立ち入った分析を加えたものはいな
かった。2003年になって大室精一がはじめてこの問題に踏
み込み精力的に論考を発表した。以下の考察はそれらの論
考から刺激と示唆とを受けてなったことをまず記しておき
たい。
 この10月29日付書簡はつぎの日付不明の書簡と照合しつ
つ読むことでこれまで闇の底に沈んでいた過程の一部に光
をあてることが可能となる。 

2020年7月 1日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その166

 また16日以後まもなく最初の歌論「一利己主義者と友人
との対話」を執筆・寄稿していることもわかる。啄木は9月
朝日歌壇を設けるに先立ち歌論を書こうと試みた。が短歌
に関する自身の見解を整理できぬままに中断した。
『一握の砂』の完成原稿を仕上げた今かれの短歌観は熟成
していた。「創作」10月号に載った尾上柴舟の「短歌滅亡
論」という執筆上の足がかりもあった。啄木調と三行書き
の天機が記されることとなった。これも牧水の「創作」と
いう媒体の賜である。
 「一利己主義者」とは一人の自分がかわいくてならぬ男、
つまり「我を愛する歌」の作者石川啄木、「友人」は並木
武雄。函館時代の親友達(岩崎正・宮崎郁雨・吉野省三)
は『一握の砂』で各三首の歌によって記念しているが、
並木武雄には最初の歌論に相棒役として登場させ、記念す
る。啄木の友情はいつも篤い。
 16日~25日にはさらに「スバル」11月号に110首、
「文章世界」11月号に16首、「ムラサキ」11月号に詩一編
を寄せたとみられる。そのあとに「田園」一巻一号にエッセ
イ「田園の思慕」 を、「曠野」9号に歌16首を寄稿した
のであろう。
 吉野章三に書いたとおなじ22日啄木は郁雨あてにも手紙
を書いている。そこで「もう二三日にて歌集の校正」がは
じまると言っている。

2020年6月29日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その165

 この記憶を参考にすると、東雲堂に「一握の砂」の完成
原稿を届けたのは16日(日)の午前または昼ということに
なる。東雲堂は東京朝日新聞社に近い。通勤途中において
行ける。啄木は13日夜に作った歌20首を『一握の砂』の3
つの章に編み込んでいる。13日夜はまだ清書の段階ではな
いであろう。「原稿の控へ」の作成と原稿の清書に14日、15
日の2日は当然要るであろう。どんなにはやく想定しても
15日である。15日ないし16日の線は別の根拠による藤沢全
の推定とも一致する 。わたくしは丸谷の言があるのでまた
13日夜以後に要するであろう時間のことも勘案して、16日
をその日と推定する。
 この時の原稿の内容は吉野章三あて書簡(10月22日)に
よってわかる。
 『一握の砂』と題して来月上旬東雲堂より発刊致すべく、
一首を三行に書くといふ小生一流のやり方にて(現在の歌
の調子を破るため)歌数五百四十三首(三分の二は今年に
入りての作)頁数は二百八十六頁にて恰も『あこがれ』と
同じになり候も一奇と申さば申すべきか……
   ……目次は次の如し
    我を愛する歌
    煙(一及二)(これは故郷と少年時代の回顧)
    秋風の心よさに(一昨年の秋の紀念)
    忘れがたき人々(一は函館より釧路まで、
              二は智恵子を思ふ歌)
     手套を脱ぐ時(これは右以外のうた)
……新詩社趣味の歌は一切捨てゝしまひ候、呵呵、
猶来月の雑誌『創作』に「一利己主義者と友人との対話」 
といふ奇妙なものを書き……  
歌集の内容は、真一挽歌追加関連の件を捨象すると基本的に完成している、ととらえてよいだろう。

2020年6月27日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その164

 私はどんなに驚きの眼を瞠(みは)りながらこれらの歌を聞
いたことか。啄木も読んで行くうちにだんだん興に乗つた
のであらう、たうとう『一握の砂』の殆んど全部を朗読して
しまつた。
 啄木の朗読は何らの節もつけぬ、淡々たるもので、もと
より謂ゆる『朗詠』ではない。だが爽かな声、明晰な発音(僅
かに東北の色調を帯びてゐる)適度の――必要にして十分な
だけの――抑揚ある読み方は全く彼の歌と其の内容とにふ
さはしいものであつた。それでよい、いや其れがよいのだと、
私は今でも思つてゐる。 
 丸谷の約45年後の記憶である。当然記憶ちがいがある。
たとえば丸谷がはじめて弓町の啄木宅を訪ねたのは1910年
4月12日であって、「十月初旬」ではない。今回の訪問も
十月初旬」ではなく10月「十六日晩」である。このよ
うな脈絡での時間に関する記憶は変容しやすい。その他の
点でも細部にはいろいろ記憶ちがいがあろう。しかしその
日が「ちやうど啄木が『一握の砂』の原稿を東雲堂に渡し
たといふ日であ」ったこと、それゆえ啄木が「別に原稿の
控へをもつてゐた」こと、「其の原稿は」これこれの特徴を
もっていたこと、それを啄木がこれこれのようすで朗読し
たこと、という記憶は記憶内容が相互に補強しあう関係に
あるのでかなり正確に事実を伝えていると思われる。

2020年6月26日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その163

 編集・清書が完了したのは15日か16日午前である。
そして東雲堂にその「一握の砂」完成原稿が手渡されたの
は16日の午前または昼であろう。根拠は以下のとおり。
丸谷喜市に「回想の啄木―著者みづからの『一握の砂』の
朗読―」という文章がある 。
 啄木といへば、東京、本郷弓町の喜之床の二階を思ひ出
す。殊に彼が居間、兼書斎、兼応接間として用ひてゐた八
畳の間を思ひ出す。……
 私が同郷の友人の並木君に案内されて初対面ではない
が初めてそこを訪ねたのは、明治四十三年十月初旬、ちや
うど啄木が『一握の砂』の原稿を東雲堂に渡したといふ日
であつた。啄木は別に原稿の控へをもつてゐた。並木君が
手に取らうとすると、『おつと其れは僕でなければ読めない、
かう云ふ歌だ』と言つて啄木が読み始める。と云ふのは、
其の原稿は、『東海の』とか、『頬につたふ』とか、『ふる
さとのそら遠みかも』とか言つたふうに、一首一首の歌の、
はじめの五字ないし、五、七字を走り書きしたメモに外な
らなかつたからである。
 ほかげなき室に我あり父と母かべのなかより杖つきて出づ
 たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
 よる寝ても口笛ふきぬ口笛は十五の我の歌にしありけり
 はな散れば先づ人さきに白の服着ていへ出づる我にてありしか
 盛岡の中学校のバルコンのてすりにも一度われを倚らしめ
 そのむかし小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかにかなりけむ
 石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
 やはらかに柳あをめる北上の岸べ目に見ゆ泣けとごとくに

2020年6月25日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その162

 こうして「煙」という章は「忘れがたき人人」のあとに
構想され、その歌々もあとに作られたという事情が見えて
くる。この時にも日記が創作の源泉となったであろう。日
記文学の傑作として名高いかれの日記は『一握の砂』の源
泉の一つとしてあらためて考量されるべきであろう。
 さて「煙」の構想がふくらみそれを実現しているうちに
別系統の歌々も大量に湧いてきたらしい。11日の休日は
約束の清書の日ではなく創作と再再編集の日になっていった
のだと思われる。そうして10月10日~13日夜の間に五章
仕立ては確定し、「我を愛する歌」に55首を「秋風のここ
ろよさに」に2首を「手套を脱ぐ時」に20首(10月4日~
13日 夜の作)を創作しかつ編集・割付した。「忘れがた
き人人」の橘智恵子相聞歌をその「二」として独立させる
ことを構想したのもこの時である。11首を作り22首とした。
「忘れがたき人人」はあわせて133首であるから、約30首
が補充され そして編集されたことになる。

2020年6月24日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その161

 この段階でこんどできる「一握の砂」は五(?)章仕立て、
歌数四百余首の内容であることが窺える。さらに「体裁は
四六版背角にて表紙の色及び紙質は土岐氏の“Nakiwarai”
と同じにしたし」と指定、さらに「表紙に赤及び黒二色刷
の画(書名入)を一枚貼りつけたく」その画家には名取春
仙(僊)がよい、とまで指定している。
 翌10日午前、啄木は郁雨あての手紙で「(この歌集を)
真一の生れた日(10月4日)二十円で東雲堂に売つた、今
原稿書替中、来月中頃までに出る」と報じている。さらに
北海回顧の歌(百余首)は『忘れがたき人々』といふ題
で一まとめにして入れる」という。
 ここは注目に値する。第三次「仕事の後」のなかにある
歌でのちに「忘れがたき人人」(一、二)に収められる歌
は計29首であるが、10月10日の段階ではそれが「百余首」に
なっている。 仮にこれを105首とすると、
105首-29首≒76首(七五首前後)で、この数字は「新たに
七八十首を加へ候」(前掲書簡)の「七八十首」にほぼ相
等しい。つまり10月の4日から10日までの間に創り出した
歌はほとんどすべてが「忘れがたき人人 一」に収められる
歌だったということになる 。しかも前述のごとく章立ての
なされている事も分かる。啄木はおそらく北海道時代の日
記などを繰りながら回想歌を作っていったのであるとおも
われる。とすれば、つぎにおのずから渋民村思郷・回想歌、
盛岡時代の回想歌を大補強しようと考えたにちがいない。
10月4日段階ではのちに「煙 一」に入ることになる歌はま
だ9首、「」のそれは13首しかない。あと79首が10日以後
に作られるであろう。「煙」の歌は計101首なのだから。
その過程で「煙」は一(盛岡中学校時代の回想歌群)と二
(渋民村懐郷・回想の歌群)の二節に分けられることになる。

2020年6月23日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その160

 「先日」は10月4日。原稿(第三次「仕事の後」 )を東雲
堂に持ち込んで契約が成立。20円で売り渡したのである。
その半金をうけとって来たことも分かる。売り渡した原稿
は改良するために持ち帰った。そして書名を「一握の砂」に
変更することにした。「目下原稿整理中」が問題である。
これをめぐる記述から持ち込んだ第三次「仕事の後」の大き
さなどが推定されうる。
 まず9日午前には形をなしたらしい新原稿(第一次「
握の砂」)を考えよう。「一首三行一頁二首」というから12月
刊の『一握の砂』と同じスタイルである。
 「頁数は二百二十頁位」というから2首×220(ページ)
=440首。すでに「百余首」からなる「忘れがたき人々」の
章ができているから(後述)、章立てがなされていること
はたしかである。ここでは五章仕立て、五章とも節はない
と仮定しよう。『一握の砂』では各章の扉に1ページ、そ
の裏に1ページあてている(すなわち白のまま)。同じス
タイルと考えると五章分で計10ページに歌は刷られていな
いことになる。また『一握の砂』では各章の最後のページ
は2首ではなく1首である。2首×5(章)×2(ページ)=
20首および1首×5(ページ)=5首の計25首を440首から
引いた数、約415首が第一次「一握の砂」の歌数となる。
 この数は「お目にかけし原稿より三四十首けづり新たに
七八十首を加へ」たものだった。ふえた分を約40首と考え
ると「お目にかけし原稿」のすなわち第三次「仕事の後」の
歌数は375首前後となる。あまりはずれていない数値であろう。

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