2020年4月 7日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その89

 ここにも秋水の影を見ることができる。たとえば「B――
の家から破門された時が一番得意な時代だつた」は「万朝
報」社を出て平民社の旗揚げをしたときが一番得意な時代
だつたと、「其の夢が段々毀れて来たんで、止せば可いの
に第二の夢を見始めた」は社会主義の夢がこわれて来たん
で無政府主義の夢を見始めたと、「日本画から出て油画に
行つた」は自由民権運動から出て社会主義・無政府主義に
行ったと、という具合に読替えが可能である。
 つづく「」=亀山の感懐がきわめて重要である。
 聞きながら私は妙な気持に捉はれてゐた。眼はひたと対
手の顔に注ぎながら、心では、健康な高橋と死にかゝつて
ゐる肺病患者の話してゐる様を思つてゐた。額に脂汗を浸
ませて、咳入る度に頬を紅くしながら、激した調子で話し
てゐる病人の衰へた顔が、まざまざと見える様だつた。そ
して、それをじろじろ眺めながらふんふんと言つて臥転
(ねころ)でゐる高橋が、何がなしに残酷な男のやうに思
れた。ここの高橋に「私」は何を見ているのか。悪戦苦闘
する 人間に対して理解者を装う傍観者とその残酷さ、を見
ているのである。三章で高橋は「野心」実現のために「
分で機会を作り出して、其の機会を極力利用」しようとす
る社会革命家を持ち出し、自分には「従頭(てんで)そんな気
は起こらないと言う。そのくせかれらのやることに「時代の
推移を」見、かれらの起こした事件に対しては傍観を以てし
さうして毎日、自分の結論の間違ひで無い証拠を得ては、
独りで安心して」いるのであった。そのときの「」は「高橋
の見てゐる世の中の広さと深さに」ある種の敬意を抱いて
いたのである。ところが四章のここでは高橋の傍観は残酷
な傍観だという。傍観の対象の相違をとりあえず措くと、
高橋の傍観に一種の敬意を表していた「」は傍観の批判
者に転じているのである。
 つづきを見よう。

2020年4月 6日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その88

 つづき。「今はもう断念したんか?」と亀山が問うのに
彦太郎は答える。「断念した――と言つて可いか、しない
と言つて可いか。――断念しようにも断念のしようが無い
といふのが、松永君の今の心ぢやないだらうか?」すでに
捕らえられ、死刑が待っている秋水には運動から手を引く
ことはもうできない。もはや手の引きようがないというの
が秋水の「今の心ぢやないだらうか」と読めるであろう。
 本文2行飛ばしてのつづき。
 「此の間ね。」高橋は言ひ続いだ。何とかした拍子に
先生莫迦(ばか)に昂奮しちやつてね、今の其の話を始めた
んだ。話だけなら可いが、結末(しまひ)には男泣きに泣くん
だ。天分のある者は誰しもさうだが、松永君も自分の技術
に就いての修養の足らんことは苦にしなかつたと見えるん
だね、さうして大きい夢を見てゐたんさ。B――の家から破
門された時が一番得意な時代だつたつて言つたよ。それか
ら其の夢が段々毀(こは)れて来たんで、止(よ)せば可いのに第
二の夢を見始めたんだね。作家になる代りに批評家になる
積りだつたさうだ、――それ、社でよく松永君に展覧会の
批評なんか書かしたね。あんなことが何(いづ)れ動機だら
うと思ふがね。――ところが松永君は、いくら考へても自
分には、将来の日本画といふものは何んなもんだか、まる
で見当が附かんと言ふんだ。さう言つて泣くんだ。つまり
批評家に成るにも批評の根底が見附からないと言ふんだね。
焦心(あせ)つちや可かんて僕は言つたんだが、松永君は、
焦心らずにゐられると思ふかなんて無理を言ふんだよ。
それもさうだろうね。――松永君は日本画から出て油画に
行つた人だけに、つまり日本画と油画の中間に彷徨してゐ
るんだね。尤もこれは松永君ばかりぢやない、明治の文明
は皆それなんだが。――」

2020年4月 5日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その87

「……松永君は予想外に孤独な人だね。彼(あ)あまでとは思
はなかつたが、僕が斯(か)うして毎日のやうに行つてるのに、
君達の外には誰も見舞に来やしないよ。気の毒な位だ。画
の方の友達だつて一人や、二人有つても可(よ)さゝうなも
んだが、殆ど無いと言つても可い。……彼(あ)の子と彼(あ)
御母さんと――齢(とし)が三十も違つてゐてね。」こう彦太
郎は語る。楚人冠が「幸徳秋水を襲ふ」(東京朝日新聞
1909年6月8日)を書いた頃の秋水は孤立の極にあった(前述)。
 それも楚人冠から直接聞いていよう。前出東京朝日記事
無政府党の陰謀」も秋水の孤立ぶりを書きたてている。
しかも秋水とその母とは事実「齢が三十も違つてゐ」る。
 彦太郎はこうも言う。「随分苦しい夢を松永君も今まで
見てゐたんだね。さうして其の夢の覚め際に肺病に取つ附
かれたといふもんだらう。」彦太郎の言う「」=「野心
=「理想」の含意についてはすでに見た。幸徳秋水の「
はまさに無政府共産主義である。しかも「随分苦しい」夢
であるから「大逆」の「夢」さえ暗示しているのかも知れ
ない。「其の夢の覚め際」も意味がある。前出記事「無政
府党の陰謀」には「秋水変節の真相」「警視庁と秋水」の
見出し下に、秋水が運動から身を引こうとしていたという
ことも書いてある。また当時一般には「肺病」は死病とさ
れていた。それに「取つ附かれた」とは死に取り附かれた
の意味である。秋水の「死刑」は免れがたい、とは新聞人
の間では共通の判断だったであろう。

2020年4月 4日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その86

 四章に行こう。この章では「我等の一団」の一人・画工
「松永」が登場する。
 「松永」と「秋水」という漢字の近似性にまず注意を払われ
たい。
 松永は「常に抑へても抑へきれぬ不平を蔵してゐた」と
ある。秋水は当代にたいする最大の「不平」家といってよ
いであろう。松永は「肺病」であった。1911年2月20日安
藤正純宛て啄木書簡にこうある。「……さういふ事を考へ
ると幸徳と菅(ママ)野が肺病だつたといふ事をしみじみ感
じます」と。1909年6月に秋水宅を訪れ「幸徳秋水を襲ふ」
を書いた杉村楚人冠が職場にいるのだから、啄木がこれを
執筆していた10年(明43)当時すでに秋水の「肺病」を知って
いたであろう。
 松永は「市ヶ谷の奥」に住んでいる。秋水は「市ヶ谷の奥」
(東京監獄)に囚われている。1909年(明42)1月15日啄
木は大久保余丁町の荷風宅を訪れた。留守だった。荷風は同
年3月自宅を舞台にした「監獄署の裏」を「帝国文学」に
発表している。啄木が広い東京の数限りない地名の中から
「市ヶ谷の奥」を運んだのは偶然とは思えない。ちなみに
「松永」のモデルの一人とされる名取春仙の住まいは南品
川海晏寺前である。

2020年4月 3日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その85

 彦太郎の会話のつづきがさきの石川正雄の引用部分であ
る。「時代の推移といふものは君、存外急速なもんだよ。
色んな事件が、毎日毎日発生するね。」には、ミリュコーフ
や煙山の本のなかの事件はロシアのことであって、日本と
は無縁と思おうとしていた作者啄木の、今回の事件に対す
る感慨が映し出されている。これにつづく二つのセンテンス
には事件を引き起こす社会的諸条件の存在を認識しようと
する意識が表れている。さらにつぎのセンテンス「さうして
其の色んな事件が……」は啄木が(幸徳)事件に新しい社会
出現の遠い、遠い予兆を見ていることを示す。
 石川正雄の読みは時代を超える卓見だったのである。
 さて、幸徳事件が三章途中でこのようにくっきりと影を落と
しているとすれば、四章以後はどうであろう。啄木の事件への
関心は高まる一方なのだから、より濃厚な影響が見られるはず
であろう。

2020年4月 2日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その84

 高橋の言う「野心」は三章の別の箇所では「結論」のほか
理想」「」とも言い換えられているのだった。その「
」の内容は幸德事件発覚直後の執筆であるからすっかり
暈かされているが、会話から推定されるのは社会主義の実
現であろう。それはミリュコーフを読んで、いかに苦難を
ともなう事業であるかをロシアの例で痛感した作者の「
」なのであろう。だからそれは「僕等の孫の時代になつて、
それも大分年を取つた頃に初めて実現される奴な」のであ
る。したがっていまその運動を始めたところで自分「一個
人に取つては何の増減も無い」遠い将来のことなのである。
だから僕は僕の野心を実現する為めに何等の手段も方法
も採つたことはない」のである。こういう文脈で続けられ
るつぎの箇所はきわめて重要である。「今の話の体操教師
のやうに、自分で機会を作り出して、其の機会を極力利用
するなんてことは、僕にはとても出来ない」と言うのであ
る。「今の話の体操教師」とは剣持の郷里の中学校の体育
教師で、校長を失脚させ自分がそのポストにつこうと、生
徒を煽動してストライキをやらせ、くびになった男である。
この男は文脈中においては「野心」実現のために「自分で
機会を作り出して、其の機会を極力利用」しようとする社
会革命家のたとえである。六月上旬の啄木の理解にぴった
り当てはまるそのタイプの人間は今東京監獄で取り調べを
受けている幸徳秋水にほかならない。たとえば6月5日の東
京朝日新聞の(幸德)事件報道記事「無政府党の陰謀」に
つぎのような2箇所がある。「其犯罪は秋水幸徳伝二(ママ)郎、
宮下太吉、……の七名が爆裂弾を製造し過激なる行動を為
さんとせし計画発覚し遂に逮捕されたるものにして」云々。
また「階級打破財産平等を叫び動(やヽ)もすれば今回の如き
陰謀を企て常に其機の乗ずべきを窺ひ居たるなり」と。
こうして啄木はここに「体操教師」の姿をかりて幸徳秋水
の影を登場させたのである。

2020年4月 1日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その83

 つぎに五六、五七枚目から引こう。高橋がしゃべり、亀
山が合いの手をいれる。
 「僕には実際主義なんて名づくべきものは無い。昔は有つ
たかも知れ無い。これは事実だよ。尤も僕だつて或考へは
有つてるさ。僕はそれを先刻(さつき)結論といつたが、仮に
君の言ひ方に従つて野心と言つても可い。然し其の僕の野
心は、要するに野心といふに足らん野心なんだ。そんなに
金も欲しくないしね。地位や名誉だつてさうだ。そんな者
は有つても無くても同じ者だよ。」
 「世の中を救ふとでも言ふのか?」
 「救ふ? 僕は誇大妄想狂ぢや無いよ。――僕の野心は、
僕が死んで、僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代になつ
てそれも大分年を取つた頃に初めて実現される奴なんだよ。
いくら僕等が焦心(あせ)つたつてそれより早くはなりやしな
い。可いかね? そして仮令それが実現されたところで、
僕一個人に取つては何の増減も無いんだ。何の増減も無い!
僕はよくそれを知つてる。だから僕は僕の野心を実現する
為めに何等の手段も方法も採つたことはないんだ。今の話
の体操教師のやうに、自分で機会を作り出して、其の機会
を極力利用するなんてことは、僕にはとても出来ない。出
来るか、出来ないかは別として、従頭(てんで)そんな気も
起つて来ない。起らなくても亦可いんだよ。……」

2020年3月31日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その82

 啄木がこの本で学んだことを小説に用いたことを示す最
初の明らかな証拠部分である。
 舘石の再現原稿では右の箇所は50枚目から51枚目にかけ
て書かれている。啄木がこの小説を5月30日に起稿したと仮
定すると、6月13日までに「六十何校」(仮に66枚として
おく)書いたのだから、1日平均4.4枚の執筆速度である。
これを参考に割り出してみると右の箇所は6月9日頃の執筆
ということになる。その前の引用箇所(「社会主義者」「無
政府主義」云々の箇所は54、55枚目)の執筆はそのあとと
なる。こうして啄木は『無政府主義』を6月9日頃以前に読
み終えていることがわかる。つまり天皇暗殺計画(幸德事
件)の新聞人間での発覚(6月3日ころ)を知るやいなやか
れは俊敏にも事件の思想的背景の研究を始めたのである。
 手始めが『無政府主義』であった(ついで煙山専太郎編
著『近世無政府主義』の購入・再読、『麵麭の略取』の再読を
したと思われる)。その研究過程がさっそく執筆中の小説
に反映したのである。こうして「我等の一団と彼」は啄木に
おける幸德事件の影響の最初期を探る上での資料ともなる。

2020年3月30日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その81

 推定に疑義を残さないために右の会話部分の3ページほ
ど前のつぎの箇所を引く(『全集』③-389)。高橋彦太
郎がいう。
 「……今に女が、私共が夫の飯を食ふのはハウスキイピ
ングの労力に対する当然の報酬ですなんて言ふやうになつ
て見給へ。育児は社会全体の責任で、親の責任ぢや無いと
か、何とか、まだ、まだ色々言はせると言ひさうな事が有
るよ
 蕨村の『無政府主義』は89ページで無政府主義者のこん
な考え方を紹介している。
 何れの所にも中央集権なるものなく、又制度と謂ふもの
を要さぬ。唯各個人の共同団体があるのみである。そして
此共同団体の中に生れた子女は共同団体が養育する。随て
家族団体とも謂ふべきものはあるが、家族と謂ふものは要
さぬ。勿論己れの子女を己れ自から育てたい人は之を育つ
ることを許さぬではないけれども、之れは各人の自由に任
せて置く。育てたくない人は何人でも育てたい人に其養育
をやらせる。其費用は云ふまでもなく共同団体一般の負ふ
所である。
 啄木がこの本で学んだことを小説に用いたことを示す最
初の明らかな証拠部分である。

2020年3月29日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その80

 彼は事件の内容が極秘にされてゐたため幸德事件とは知
る由もなく、この陰鬱な時代に、社会主義者がひそかに活
動してゐたのだといふ事実を知つて、自分の考へてゐる社
会改造――かくならねばならんといふ夢も決して架空なも
のでなく、且急速な世の中の動きはどうやら誤らずその方
向を示してゐると、ひとり慰めてゐたのだつた。
 石川正雄が1936年(昭11)にこの読みを提示したのだが、
この卓見は本稿ではじめて引き継がれるのである。幸德事
件が「我等の一団と彼」に影を落とすのは四章からである、
と小川武敏は言った。石川正雄は三章の右の箇所であると
言う。しかし事件の影響が明確な証拠をともなって作品中に
現れるのは石川の指摘箇所よりももっと前である。
 三章の四分の三ほどのところで高橋彦太郎と「私」=亀山
との間にこんな会話が交わされる。
 「君は社会主義者ぢやないか?」
 「何故?」
 「剣持が此の間さう言つとつた。」
 高橋は昵と私を見つめた。
 「社会主義?」
 「でなければ無政府主義か。」
 作者は明らかに社会主義と無政府主義の区別を知っている。
啄木はこの区別に敏感で新聞人や司法関係者や議会議員の 
混乱をきびしく批判している(『全集』④-274、305、後出の
大島経男宛1911年2月6日書簡)。当時さっそく入手可能
な本でこの区別を明快かつ正確に説いているのは久津見蕨 
村の『無政府主義』だけである。したがって啄木は右の会話部
分を書いたときにはすでに『無政府主義』を読んでいたことになる。

«石川啄木伝東京編1910年(明治43)その79

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