2020年9月26日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その241

 さて、1910年(明34)末に至るまでの7年間すなわち社
会主義との思想的格闘の7年間をここで、概括しておこう。
 一、啄木が「社会主義」に関心を示した兆候は「戦雲余
録(二)」(岩手日報 1904年〈明37〉3月)に表れる。
 今の世には社会主義者などゝ云ふ、非戦論客があつて、
戦争が罪悪だなどゝ真面目な顔をして説いて居る者がある。
 03年11月15日非戦論・社会主義を掲げ、平民社の旗揚げ
をした幸徳秋水と堺利彦を批難したのである。このときの
啄木は幸德・堺の思想も闘いもまったく知らない。日露戦
争が始まったばかりで異様に興奮した日本人の一人として
両者に違和感を抱いたのである。そしてこう結ぶ。
 彼等の、蝉の羽の如く小さい旗幟(きし)は元より吾等の注
目に値するものではないが、余り憐然(あはれ)でならぬから、
お慈悲を以てこゝに一言した。
と。両者になんの同情も示してないが、関心は抱いたのである。

2020年9月25日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その240

 丸山真男は「野間君のことなど」においてこう論じた。
 一人の人間の生活過程が同時に思想史としての意味をも
つための条件は色々あろう。第一にいうところの『思想』が
その人間にとって単に帽子のように頭に載っかっているの
ではなくて、いわば性欲のように彼の肉体そのものを内側
から衝き動かすだけの力をもっていなければならない。さ
らに彼の思想の発展の仕方が、ただ読書や観念的反省によ
るのではなしに、どこまでも彼の経験をくぐり、彼の行動
によって験証されながら進んで行くような性質のものであ
ることを要する。そうであってはじめて、彼の思想的変化
や発展も一つの内在的な必然性に貫かれるわけである。外
面的な足跡にはどんな大きな転向や飛躍があっても、その精
神的発展において抜きさしならぬ法則性といったものが支
配しているのが、およそ古来思想家と呼ばれるに値する人々
の通例である。……河上肇や啄木などはそういう意味でど
こから見てもほんものの思想家だった……
 1901年(明34)1月高山樗牛「文明批評家としての文学者」
に呼応して以来、この日まですでに10年。この間の啄木を
知るわれわれは、丸山真男の評言がいかに思想家啄木の正 
鵠を得ているかを、理会できよう。丸山がこの一文を書いた 
のは1953年である。

2020年9月24日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その239

 「鎖鑰(さやく)」とは「錠前と鍵」の意。自分の「性格、
趣味、傾向」を統一できないでいた(錠前が掛かっていた)
状態が「鎖」で、右のような複雑でやっかいな「性格、趣味、
傾向」の間に内的関連をつけ、内的に統一できるものが「
と解釈して良かろう。
 ついに発見したその「一鎖鑰」とは「社会主義問題」で
あると言う。 
 「問題」とは「注目し、分析・批評・研究などを必要とする
事柄(新潮現代国語辞典)。 
 したがって「社会主義問題」とは、「社会主義という分析・
批評・研究すべき事柄(=思想と運動)」を意味する。これ
が明治43年において、自分が発見した「一鎖鑰」だ。
 だから「この年に於て」「特にこの問題について思考し、読
書し、談話すること」が多かった。談話の相手はだれであろ
う。杉村楚人冠、弓削田精一、内田魯庵、平出修、丸谷喜市、
並木武雄らがまず思い浮かぶが、朝日新聞社内にはほかに少
なからず議論相手がいたのではなかろうか。「たゞ為政者の
抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり」。
発表できなかったものこそ「所謂今度の事」「時代閉塞の
現状」等であろう。

2020年9月23日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その238

 こうした「性行」は丸山真男が「啄木などは……どこから
見てもほんものの思想家だった」と評した時に観ていたもの
であろう(後述)。
 「趣味」(=B)は「好み」とか「興味」に近い意と解すると、
 B1、理想や夢を追い求めずにいられない(つまり浪漫
的な)精神。
 B2、自己一身の生活のみならず国民生活に寄せる鮮烈
な関心。
 B3、世界の出来事への巨大な興味。
 B4、弱い者たち・虐げられた者たちへの熱い同情。
 B5、圧政と闘う人々への共感と敬意(それは国境を越える)。
など。
 「傾向」(=C)は、1911年2月6日大島経男宛書簡から
啄木自身が言う2つの「傾向」を取り出してみよう。
 C1、(1910年2月ころから)「一人で知らず知らずの間に
Social Revolutionist(社会革命家)となり、色々の事に対
してひそかにSocialistic(社会主義的な)な考へ方をする
やうになつてゐ」たこと。この自分をこうした「傾向にあつ
た私」と言う。
 C2、また「(わか)い時から革命とか暴動とか反抗とかいふ
ことに一種の憧憬を持つてゐた」ことも同様に自分の「傾向」だ
としている。
 これらの「性格、趣味、傾向」を統一できる「一鎖鑰(さやく)
を発見したり。社会主義問題これなり」という。

2020年9月22日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その237

 こうして一九一〇年(明43)の大晦日を迎える。
  ぢりぢりと蠟燭の燃えつくるごとく
        夜となりたる大晦日かな
 おそらくこの大晦日のことであろう。啄木は博文館発行の
『明治四十四年當用日記』の巻末近くにある補遺のページ
を開いた。啄木はそこに「前年(四十三)中重要記事」と題
して明治四三年一年間の総括を書く。
 重要な記事に充ちているが、分けても重要なのがつぎの
くだりである。
 思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て
予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。
社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、
読書し、談話すること多かりき。たゞ為政者の抑圧非理を
極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり。
この年」つまり1910年(明43)に思想上の「重大なる
転機があったという。
 逐語訳的に読んで行こう。まず「予の性格、趣味、傾向
の「性格」(これを仮にAと表記する)とは。
 A1、思想と実行を統一せずにはいられない性行、がそれ
であろう。また、
 A2、「歌のいろいろ」の以下のくだりはすべてがそれであ
ろう。「(おのれ)の為(す)る事、言ふ事、考へる事に対して、
それを為(し)ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省
せずにゐられぬ心、何事にまれ正面(まとも)に其問題に立向
かつて底の底まで究めようとせずにゐられぬ心、日毎々々自
分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾とを発見して、
さうして其の発見によつて却(かへつ)て益(ますます)自分自身の
生活に不合理と矛盾とを深くして行く心」。

2020年9月21日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その236

 この年末の僕一家の支出予算総額百三十円(この内約三分
の二は、妻の約三ケ月の医薬料下宿屋その他に対する借金
也)であった、それに対する収入には二十五円の不足があつ
た、その二十五円は君の好意によつて補はれた、僕はそれで
可い筈だつた、
 医療費の過重負担は眼を覆うばかりである。この一家には
結核菌が蔓延しているらしいが、この菌の大敵は体外の日光
と体内の栄養だという。栄養が絶対的に必要なのに、この貧し
さでは菌の猛威を増大させるばかりである。真一が生後24
で死んだのも、節子の体調が悪いのも結核菌の仕業であるら
しい。敵はもっとほかにもいる。
 然し愈々時日が切迫してくると共に、僕の立てた予算は幾
多の欠点を暴露した、餅も搗かねばならなかつた、年始状も
出さねばならなかつた、質も出さねばならなかつた、質の利
子も払はねばならなかつた、火鉢の縁(フチ)がとれたり洋燈
がこはれたりした、子供の下駄も買はねばならなかつた、老
人達にも幾分の小遣を上げねばならなかつた、かくて原稿紙
に書いておいた予算案は赤く黒く幾度か修正された、さうし
てとうとうまた十五六円の不足が正確になつた、数ヶ月前か
ら妻と母とが口やかましく言つてゐた僕の衣服の問題は、か
くてべツソリ消えた、
 啄木は手紙の末尾で新年の生計の立て直し策を真剣に考え
ているが、もう遅い。先に見たように、啄木自身にも結核性腹
膜炎の兆候とみなすべきものが出ている。

2020年9月20日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その235

 啄木の家計を圧迫するものはまだある。
 文学士金田一君の収入は月四十円(講座に休み有れば更に
一日一円の割にて減ず)である、さうして月十円の家に住み、
これといふ不足なく夫婦楽しく暮してゐる、僕が秋以来の月
収は歌壇夜勤の手当共四十三円であつた、乃ち中学も卒業し
ない僕の方が三円から五円位迄多く取つてゐる、然し両家の
生活は全く比べ物にならぬ、これ何に原因するか、君、君は
僕の歌集の評の中に社会主義は夢だと書いてあつたが、少く
とも僕の社会主義は僕にとつて夢でない、必然の要求である、
金田一家と僕の一家との生活を比較しただけでも、養老年金
制度の必要が明白ではないか
 いわゆる核家族ならまだよい。老父母の扶養もある。一禎
は晩酌を毎晩もとめる。当時五〇歳前後の子持ちの新聞社校
正係が月に一度酒を飲むことがどんなに贅沢なことであった
か、正宗白鳥の短編小説「塵埃」に明らかである。一禎のよ
うな舅がいては啄木夫妻の苦労も加重する。また一禎が師僧
対月(野辺地の老僧)の葬儀に行ったときの「おくれ」が、
賞与を一瞬にして費消する要因の一になったことも先に見た。
イギリスのように「養老年金制度」があったならば!
 啄木夫婦の家計をもっとも脅かすのがもう一つある。

2020年9月19日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その234

 妻の家出以後のここ1年余の稼ぎぶりは立派であった。
既に健康の心配を惹起すほどの労役に服して」来た。
たしかに、
 僕の今迄毎月取つた金は、一家の生活費には不足な位
ではない、然しそれが前々からのおくれで甚だ不規則にな
つてゐるので、月の五日頃になるともう子供の小遣も僕の
電車賃も無くなるといふ状態だつたのだ、君、僅か十銭か
二十銭の金の出途に就いて一時間も二時間も苦い面をして
考へねばならぬとは、あまりに不愉快な生活ではあるまい
か、さういふ事が毎月何回となくあるのだ、それで、不時
の事がよしや無いにしても、月末に入る金は月末払ひの諸
費途とそれら小さいやりくりの尻ぬぐひ及び借金の月賦と
にフイになつて、その月もまた同じ事を繰返さねばならな
くなる、
 21日の手紙の借金地獄は、年末のこととして書かれてい
たが、それはここ1年余を通して「毎月」の事であったのだ。
啄木はこの地獄にあって、1910年(明43)を奇跡的豊穣の
1年間としたのだ。そして主婦の苦労も察するにあまりある。

2020年9月18日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その233

 20日の手紙に25円の不足を訴えていたので、この電報に応
じて送られてきたのはそれにちかい金額であろう。
 30日の手紙である。
 君、とうとう今度も亦君に迷惑をかけてしまつた、何時
でも今度ばかりと思ふのだが矢つぱり思ふやうに可かない、
それは僕にはイザといふ場合に頼む人が君の外に無いからで
もある、また誰に頭を下げるよりも君に下げるのが快いから
でもある、済まない事だとつくづく思ふ、意気地ない事だと
つくづく思ふ、金を握つた時でなければ頭の軽く明るくなる
ことのない生活については、君は幸ひにして知るまい、……
「自己を恃め」と君はいふかも知れない、僕も恃みたい、然し
その自己が、既に健康の心配を惹起すほどの労役に服してゐ
ながら、猶且少しでも僕の苦痛を減じさしてくれないのだか
ら仕方がない、
 啄木は甘えられる人が現れると、とことん甘える。幼少年
時父母にそうしたように。また最近では金田一に甘えたよう
に。今それにあたるのが郁雨である。父が財をなした人であ
るとはいえ、郁雨はその跡取りであるとはいえ、かんたんに
啄木の言うなりに工面できるわけではなかろう。釧路時代の
手紙や1909年(明42)7月9日の手紙に見たようないやらし
い借金と今とでは、啄木の借金の内容は異なる。しかし通底
する甘えは見える。工面してやる方もいい気のしない時はあ
ったであろう。しかし今回も送金してくれた。

 

2020年9月17日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その232

 啄木の言うところを聞いてみよう。20日に賞与が54円出た。
結構な額である。そして21日郁雨宛に手紙を書く。
 昨日社から賞与を五十四円貰つた、子供の葬式、野辺地の
老僧が死んで父が行つて来た時のおくれ、それから例の君も
知つてる筈の下宿屋ののこり、そんなのを払つたら今朝はも
うない、
 一銭の無駄遣いもない。大金が一日で消えた。「おくれ
とは後回しにした分、の意味であろう。借りるなり、遣って
はいけない金(それがあったとして)に手をつけるなりして、
先に遣った分の穴埋め、これが「おくれ」であろう。
下宿屋ののこり」は蓋平館の下宿代を払わずに、主に塔下
苑で費消した。蓋平館を出るとき残っていたのは「百円某」。
金田一京助が保証人になって「百円某」の借用証にしたのだ
った。これが利子つきで弓町・久堅町の啄木を追いかけてきた。
 二六日啄木は宮崎に電報を打つ。
  ヒ一ニチクルシクナリヌアタマイタシキミノタスケヲ
 マツミトナリヌ イシカワ

«石川啄木伝東京編1910年(明治43)その231

無料ブログはココログ

最近のトラックバック