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2009年2月

2009年2月28日 (土)

大といふ字を百あまり

     

     大といふ字を百あまり

     砂に書き

     死ぬことをやめて帰り来れり

<ルビ> 帰り来れり=かへりきたれり

<評釈> 大きな人間になる、という少年時代からの大志を思い起こして、無量の砂の上に、大という字を百あまり書いてゆくと、いつのまにか自殺衝動が消えてしまった。そして家に帰ってきたのだった。  

前回の「しつとりと」の歌に自殺への衝動が隠されていることに気付いた人は、管見のかぎりでは、いません。

前回のような解釈をしないと、「ドラマ」の最後になって「死ぬことをやめて」の句が唐突に出てくることになります。

7、8日間泣こうと思って家を出、流木に話しかけたり、初恋のいたみを思い出したり、指の間から落ちる砂に時間の経過を感じたりしていますが、「死のうか」などと思う歌はまったくありませんでした。

ところがすぐ前にある「しつとりと」の歌を前回のように解釈すると、この歌と完全にリンクします。「自殺まで考えたわたしだったが」、「死ぬことをやめて帰」って来た、とつながるわけです。

こうして、7ページの2つの歌がリンクすると、「ドラマ仕立て」の歌の流れが、内容上も無理なく、見開き左側ページ2首目で、ピタリと決まることになります。(ちなみに本というのは左側のページが必ず奇数ページです。)

最後になぜ「大といふ字」だったのか、にふれます。啄木満15歳盛岡中学校5年生の時、こんな言葉を記しています。世界の大詩人になるために退学して上京しようという1902年(明35)10月17日、細越毅夫という親友に宛てた手紙の1節です。

高き、強き、大なる、この三つの語に対する時我はひざまづきて讃ず

砂山にいる啄木はこの3つの語のうち、「大なる」を想起したものと思われます。大空の下、大海を前に横たわる巨大な砂山・無量の砂、その中にいて啄木は自らの小ささを思い知らされると同時に、大自然の大きさに励ましと慰藉とを得たのだと思われます。そして少年の日からの大志を思い起こして「大」の字を砂に書き始めたのでしょう。まるでおまじないのように。

おまじないが効いて生きる元気が湧きだして、ようし家に帰るか、となったのです。「死ぬことをやめて帰り来れり」

さて、ページをめくると8ページ。そこにはどんな歌が用意されているのでしょう。めくってみてください。

2009年2月26日 (木)

しつとりと

    

     しつとりと

     なみだを吸へる砂の玉

     なみだは重きものにしあるかな

<語意> 「重きものにし」の「し」=上の語(ここでは「重きものに」)を強調する意を表す副助詞。

<評釈> 生きて行くことの苦しさに自殺まで考えたわたし。そのわたしの涙をしっとりと吸ってできた砂の玉。熱くしたたり落ちた涙が突然重さのあるものに変わったのだ。この玉がわたしの苦しみ・悲しみの全重量を表していると思うと、涙はなんと重いものであることよ。

この解釈の根拠は2つあります。

1つは、啄木の未完の小説「漂泊」の1場面。本州の田舎で代用教員をやっていたが、生徒を扇動してストライキをやり、首になって函館に流れてきた石川啄木さながらの「後藤肇」が主人公。

函館の砂山で肇は友人の「楠野」に函館に来る前夜のこと打ち明ける。肇は翌朝の出帆を待って青森港の船の上で一夜を明かしたが、そこに至る人生を考えると涙が止まらず、ついに自殺衝動に駆られ海をのぞき込んだ、と。そして肇は言う。

『海の水は黒かツた。』

『黒かツたか。ああ。黒かツたか。』と謂つて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それやいかん。止せ。後藤君。自殺は弱い奴等のするこつた。・・・・・死ぬまでやれ。いや、殺されるまでだ。・・・・・』

『だから僕は生きてるぢやないか。』

『ああ。』

『死ぬのはいかんが、泣くだけならいいだらう。』

以上の場面が啄木内面のドラマの小説化と考えられること、啄木が北海道時代の歌を作るときこの小説草稿も読み直していると推定されること、を踏まえると上の評釈が成り立ちます。

根拠の2つ目は7ページ左の歌との関連にあります。「しつとりと」の歌は7ページ右にあり、左に「大といふ字を百あまり」の歌が置かれています。この歌によって、4ページ右の「家を出て海に行った」に始まる「ドラマ仕立て」の歌群がしめくくられます。

次回ではその関連も含めてしめくくりの歌を読みます。

2009年2月23日 (月)

いのちなき砂のかなしさよ その3

     

     いのちなき砂のかなしさよ

     さらさらと

     握れば指のあひだより落つ

この歌は読者の人生経験や現在おかれている立場に応じて、特にいろいろな読まれ方がされています。

1949年湯川秀樹博士は日本最初のノーベル賞を受賞しました(物理学賞)。博士の素粒子研究における盟友に坂田昌一博士がいますが、その坂田さんのお弟子さんが最近ノーベル物理学賞を受賞した小林誠・益川敏英両氏です。

さて湯川博士は啄木の大のファンでした。『天才の世界』(正・続・続々)という3冊の本で弘法大師、ニュートン、アインシュタインといったたくさんの大天才を論じますが、2番目にもってきて論じたのが石川啄木でした。

『一握の砂』は551首全部が好きで全部がうまいといいます。その中で一番好きなのが掲出歌だといい、つぎのような読み方を披露します。

「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと、握れば指のあひだより落つ」という感じが、ひじょうに実感に近いわけやね。とくに物理学のような学問をやっておりまして、そういう自然法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、探求しておりますと、そういうものはつかもうと思ってもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することですね。そういういろいろのことが実にみごとに集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、わたしはこの歌がとくに好きですね。

なんと深い美しい独創的な読み方でしょう。

埼玉県に住む知人からもらった今年の年賀状にこんなことが書かれていて胸をうたれました。派遣の労働者が職を得たと思ったのも束の間、ふたたび職を失う記事を読んで、はからずもこの歌を思い出したと。

1700万非正規労働者の大多数は正規の職、正規の賃金、健康保険・年金・退職金のある生活を望んでいることでしょう。しかしそれが得られない仕組みを小泉純一郎ら自民党政府が作り出し、今の派遣地獄とでもいうべき事態が始まりました。よりよい生活を痛切に望んでいるのに、将来が見えないまま、安定した生活が得られないまま、人生の刻一刻が過ぎて行く。その切なさをこの歌に重ねる人もきっと多いことでしょう。それはこの歌の解説その1で記した<評釈>と全く重なります。

2009年2月22日 (日)

いのちなき砂のかなしさよ その2

     

     いのちなき砂のかなしさよ

     さらさらと

     握れば指のあひだより落つ

この歌の底に流れているのは虚無感ではなく「推移の感覚」です。中国文学者吉川幸次郎は杜甫(712~770)の「絶句二首」中のつぎの一首を引いて「推移の感覚」をこう説明しています。

江は碧(みどり)にして鳥はいよいよ白く

山は青くして花は然(も)えんと欲す

(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ

何の年か是れ帰る年ぞ

「このみじかい詩の底には、中国の詩に常に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、さっきのべた推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻刻に推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の刻刻を、充実した重量のある時間とすることである。」(『新唐詩選』岩波新書)

啄木にはこの推移の感覚がみなぎっています。父一禎が道元の教えを説いて聞かせたことと深く関係しているようです。啄木は少年時代から時を惜しみ時の充実を精力的に追求する人でした。

啄木は漢詩が大好きでしたが、李白と杜甫、とりわけ杜甫が好きでした。

推移の感覚の好例としてペルシア(今のイラン)の詩人オマル・ハイヤーム(1048~1122)の四行詩を1編引いておきましょう。

東の空の白むとき何故鶏が

声をあげて騒ぐかを知っているか?

朝の鏡に夜の命のうしろ姿が

映っても知らない君に告げようとさ。

オマル・ハイヤームは数学者・天文学者・医学者・語学者・歴史学者・哲学者・そして詩人。まるでレオナルド・ダヴィンチのような天才です。その詩は推移の感覚に満ちていますが、杜甫よりは李白の詩に近いと思われます。上の詩はオマル・ハイヤーム作、小川亮作訳『ルバイヤート』(岩波文庫)から引きました。この文庫版は訳もみごと、解説もみごとです。啄木の掲出歌が好きな方にお勧めです。ちなみに小川亮作は啄木の大ファンでした。

次回は「その3」として掲出歌の読者読みを紹介します。

2009年2月21日 (土)

いのちなき砂のかなしさよ その1

     

     いのちなき砂のかなしさよ

     さらさらと

     握れば指のあひだより落つ

この名歌にはふたつのキーワードがあります。「かなしさ」と「砂」です。

歌の調べがあまりに美しいので、「かなしさ」が何を意味するのかなど考えないで愛唱してしまうのが普通です。「かなしさ」はここの場合「努力してもどうにもならない、本質的なことによる限界を感じる悲しみ」(『日本国語大辞典』小学館)です。

啄木は砂には心がなく、自分の気持ちや悩みと全く無縁であることにかなしさを感じているのです。

つぎは指の間からこぼれ落ちる「砂」です。啄木が評価し愛読した土岐哀果の歌集『NAKIWARAI』につぎの歌があります(原歌はローマ字書き)。

わがいのち砂の時計のさらさらのおとのまにまに神にかへるか

時間の経過と共にわがいのちが死にむかっているのか、と哀果は嘆いているわけです。啄木はこの歌から「砂時計」と「さらさら」を借ります。「さらさらと/握れば指のあひだより落」ちる砂は砂時計の暗喩なのです。

土岐哀果とちがい啄木はすぎゆく時間に死を見て嘆いたりはしません。かけがえのないわが生命の一瞬一瞬が無為のうちに過ぎて行く、もったいないと嘆くのです。

この歌を作ったのは1910年(明43)10月ですが、この年5月末に幸徳秋水らの明治天皇暗殺計画の発覚(大逆事件)がありました。国家権力はこれを利用して無理無体に社会主義運動を弾圧します。啄木は評論「時代閉塞の現状」を書いて、大逆事件を引き起こした真の「犯人」は被告達ではなく、逆に国家権力(強権)の方だ、と告発します。そしてこの時代は青年達にとってなんと不幸な時代であることかと説き、闘いに立ち上がるよう訴えます。

時代をもっとも鋭くもっとも深くもっとも勇敢に批判した文章でした。発表の場はありません。

うれしい長男の誕生、しかし病弱(生後24日で死亡)。妻も病気がち。啄木自身過労の日々。はたらけど楽にならない家計。

すべては「現在の家族制度、階級制度、知識売買制度」からくるものだ。そう分かってはいるけれど、これと有効に闘うこともできず無為のままに過ぎゆく日々、いや刻一刻、刹那刹那。なんとかしたい!いや、しなければ!

これが啄木の嘆きの本体です。

<評釈> 私の内部に渦巻き私を揺り動かす思いや望みは、実現からはほど遠い。ただ時間だけが過ぎ去ってゆく。砂を握ると、砂はいのちなきものゆえに、私のそんな思いにとんじゃくすることなく、砂時計となって、さらさらと、指の間よりすべり落ちてゆく。私の人生が意に満たぬままに刻一刻と過ぎてゆくことを無情にも知らせながら。

2009年2月19日 (木)

砂山の裾によこたはる流木に

     

     砂山の裾によこたはる流木に

     あたり見まはし

     物言ひてみる

<ルビ> 裾=すそ。

6ページを開くと出て来たのがこの歌です。

「明星」1908年(明41)8月号に啄木の詩「流木」が載っています。この詩が歌の背景となっていると思われます。

第3連を引いておきましょう。詩中の「渚」は函館大森浜の渚。「七尺」には「ななさか」の、「海鳥」には「かいてう」のルビがあります。

あはれ、その渚の上に

横たはる大き流木、

さしわたし七尺ばかり、

砂山に根をうち上げて、

枝もなき長き幹をば

その半ば海に入れたり。

海鳥は時にかがなき、

その上に翼やすめぬ。

掲出歌の「流木」は直径7尺(約2m)の上記の巨木をイメージしていいようです。

「あたり見まはし」は流木に話しかけるという異常なあるいは滑稽な振る舞いを、他人に見られはしまいかと思っての仕草でしょう。啄木は非常に茶目っ気のある人でした。

「物言ひてみる」 何を言ったのかは分かりませんが、直径2メートルの巨木がどこでどんな風にして育ったのか。その数百年間に何を見、何を聞いたのか。それがどうして切り倒され、枝も払われたのに、材木にならずに海に流れ出、ここに流れ着いたのか。こんな事を聞いてみたかったのではないかと想像されます。なぜなら、啄木自身、岩手県日戸村に生まれ、渋民村に育ち、盛岡に遊学し、東京に出、渋民に戻り、また上京し、盛岡に戻り、渋民に再移住し、ついに函館に流れてきた、という経歴の持ち主だからです。つまりかれは流木に自分を見たのでしょう。

<評釈> 砂山の裾に根もとを打ち上げて、長い幹の半分までを海中に入れたまま、横たわる巨大な流木をみたわたしは、自分の漂泊の半生を重ねてしまい、親しみを感じて話しかけたくなった。人に見られたらヘンに見られるだろうとあたりを見回したがさいわい誰もいない。そこで話しかけてみた。

人はなにか願望や鬱屈があると、独り言の代わりに、人間以外の物や生き物に話しかけたくなる時があるものです。たとえば家人の留守に猫に話しかけるとか、青空を流れる白雲に話しかけるとか。初詣などで神仏に願い事をするのも同じことでしょう。

次回6ページ左の歌は「砂山の砂に腹這ひ」と並ぶ名歌です。

2009年2月18日 (水)

砂山の砂に腹這ひ-その2

     

     砂山の砂に腹這ひ

     初恋の

     いたみを遠くおもひ出づる日

ふたりが結ばれて間もなく啄木は中学校を退学し(1902年<明35>10月末)、世界的大詩人になるという野望を抱いて上京します。節子は別れのつらさに1週間寝込みます。それ以後「おもひ出づる日」まで5年間の、挫折と再起をくり返す啄木の波瀾万丈の生活、それに寄り添いつつも振りまわされる節子の苦労、それは尋常一様のものではありません。

「初恋のいたみ」には啄木のその全生活と節子のあらゆる苦労の、全時間が籠められています。(啄木の挫折と再起、それに伴う節子の苦労はこの歌の日=北海道函館時代のある日以後もつづいて行きます。)

<評釈> 函館の大森浜の砂丘に腹這って、青い海のかなたに目を放つと、青い空によって区切られるあたりに下北半島が見えている。あそこをずっと南下すると岩手県の盛岡や渋民だ。自ずと節子との初恋の日々に思いは至り、初恋にまつわるいたみを思い出す日よ。

詩人は高い砂山の上のほうにいるのだろう。20世紀初頭の海だから今とは比較にならないくらい美しく、青い。渚にくだける波もあざやかに白い。潮の香がさわやかに鼻をうつ。今とは比較にならないくらい青く、澄んだ空にはまっ白い雲が光っているだろう。下腹に伝わる快い砂のあたたかさは、微かにセンシャル(肉感的)な連想へと読み手をさそう。はたして2行目に「初恋」の2文字があらわれる。詩人の意識は空間を遠く移動し、時間をはるかにさかのぼる。そして「初恋のいたみ」をともなって今に帰ってくる。

わずか31文字の中になんと多くの複雑な時間とはるかな空間とが凝縮されていることでしょう。『一握の砂』中屈指の名歌です。

啄木は「おもひ出づる日」というフレーズが好きですが、手本は与謝野晶子の第5歌集『夢の華』(1906年<明39>9月)にあるつぎの歌と思われます。

相見ける後の五とせ見ざりける前の千とせを思ひ出づる日(六月十日旅にある人のもとに)

逸見久美氏の訳。「上京してともに住むようになって五年たった今日六月十日は、上京以前遠く離れていてひたすらあなたを思慕していた昔を思い出させる日でもある。」

初恋の甘美な思い出にいたみの思い出も伴うのはほぼ万人に共通でしょう。朗誦するごとに自分の「初恋のいたみ」を甘く切なく思い出させてくれる歌です。

この歌に曲をつけた越谷達之助の「初恋」はひろく愛唱されています。

これで5ページがおわりました。めくると啄木はどんな海辺の歌を用意しているのでしょう。

       

2009年2月16日 (月)

砂山の砂に腹這ひ-その1

     

     砂山の砂に腹這ひ

     初恋の

     いたみを遠くおもひ出づる日

<ルビ> 腹這ひ=はらばひ。

「砂山」という言葉が4ページ左の歌から出はじめ、5ページ左のこの歌までつづいて出て来ます。ここでその「砂山」を見ておきましょう。

20世紀初めの函館の大森浜には砂丘=砂山がありました。海沿いに約1500mにわたって起伏し、幅は最大約375m、高さは最高21~22m。鳥取砂丘の巨大さとは比較になりませんが、それでも歌の舞台にふさわしい大きな砂丘です。砂丘の前に広がる海の青が空の青によって限られるあたりに下北半島が見えます。

(1950年代以降かと思われますが、巨大な量の砂は削られ、運び出され消えてしまいます。おそらく舗装道路や高層建築等々に化けさせられたのでしょう。)

「初恋のいたみ」 日本語本来の「恋」の概念では異性を「好きだ」という気持ちとその肉体に対する欲求とが渾然一体となっています。セックス抜きの「恋」など日本人は夢想もしなかったのです。両者が分離されるのは明治になって西洋から入ってきたキリスト教的恋愛・性愛観の影響に因ります。

「初恋」の詩といえばなんと言っても島崎藤村の「初恋」ですが、その第3連を引いてみます。

  わがこころなきためいきの

  その髪の毛にかかるとき

  たのしき恋の盃を

  君が情に酌みしかな

この少年少女は抱き合っていますね。キリスト教的恋愛観に強く影響されている藤村ですが、その「初恋」には性愛の芽が動いています。

「初恋」の歌といえばなんと言っても石川啄木の掲出歌ですが、この「初恋」は藤村詩の「初恋」をはるかに超えています。

啄木が盛岡中学2年生のとき、近所に住む堀合節子(啄木と同年の生まれで8ヵ月年下)と恋仲になります。そして中学5年(満16歳)の夏ふたりの恋は性愛関係にまで進みます(「恋しき君と共にする三夜」と日記にあります)。

つづきは18日に書きます。

2009年2月15日 (日)

ひと夜さに嵐来りて築きたる

     

     ひと夜さに嵐来りて築きたる

     この砂山は

     何の墓ぞも

<ルビ> 来りて=きたりて。何の=なにの。

<語意> ひと夜さに=一夜のうちに。何の墓ぞも=何の墓なのかなあ。

分かりきっていたはずの歌意が突然分からなくなりました。嵐が来て砂丘のどこかに1つの新しい砂山のできることなどありえるのだろうか。ありえるならこの歌は実際に経験したことを基礎にうたっていることになるのだが。もしありえないなら、全くの空想歌ということになる。この点が確実に分からなければ、解釈はむずかしいぞ、ということになったのです。調査に入りました。

「嵐が来て砂山のどこかに1つの新しい砂山のできることなどありえる」のか、どうか。もしこのことについてお分かりの方はご一報ください。

吉井勇に

砂山は墓のごとくにきづかれぬ君の墓なりわれの墓なり

という歌があり、この歌との影響関係も調べています。

訳す段になってこれらに気付きました。調査に時間がかかりそうな気配なので、掲出歌の評釈を中断します。調査済み次第報告を兼ねてこのページにつづきを書きます。

直訳は簡単なので、書いておきます。

一夜のうちに、嵐が来て築いたこの砂山は、一体何の墓なのだ?

この歌も「泣きなむとすと家を」出て後の砂山での1場面、という趣向になっていることを確認して、とりあえずつぎの歌に進みます。

09年2月28日、上の「砂山」についての疑問は解けました。「明星」1908年(明41)8月号に啄木の詩「流木」が載っていますが、その第2連につぎの3行を見つけました。

時ありて嵐は来り、

渚辺のところどころに

砂山を築きてぞ去る。

これによると一夜にして出来た「砂山」は波打ち際にできたもの。巨大なものではありえません。おそらく啄木はそれらの砂山に土饅頭(土をまんじゅうのように盛り上げた墓)を連想したのでしょう。歌の意味はこうなりましょう。

<評釈> 一夜のうちに波打ち際のところどころに嵐が築いていったこれらの砂山は、まるでいくつもの土饅頭のようだ。土饅頭だと人の墓だが、これはいったい何の墓なんだ?

吉井の歌についても見えてきています。

2009年2月13日 (金)

いたく錆びしピストル出でぬ

     

     いたく錆びしピストル出でぬ

     砂山の

     砂を指もて掘りてありしに

<ルビ> 錆びし=さびし。出で=いで。

<語意> いたく=ひどく。

「泣きなむとすと家を」出た彼は、砂山で砂を掘っていました。「小ドラマ」の始まりです。

「砂山」はかつて函館大森浜にあった大きな砂山です(5ページ左の歌のときにくわしく紹介します)。

まさか20世紀初めの、内国植民地北海道の、函館の砂山から「ピストル」が出てきたとは思えません。空想の歌です。この歌を作ったのは1909年(明42)4月の下旬、小説が書けなくて七転八倒していたときの作です。小説が書けなくてストレスが大きくなればなるほど、歌がわき出すという石川啄木の不思議がこの時も小規模に現れたわけです。

当時和歌の世界に外国語を効果的に取り入れることは冒険でしたが、啄木はその取り入れの名人でした。「ピストル」の外「インク」「ナイフ」「ノスタルジヤ」「イエス・クリスト」「ストライキ」などが実に巧みに取り入れられて行きます。「キス」の使い方は一番すぐれています。

<評釈> (直訳すれば)ひどく錆びたピストルが出て来た。砂山の砂を指で掘っていたら。(もう少しイメージ化してみると)海沿いに1500mもつづく砂山にすわって海を眺めているうちに、ふと目の前の砂を掘ってみたくなった。真っ赤に錆びた金属に指があたった。何だ? 掘りだしてみたらピストルだった!

護身用のピストルの広告が東京朝日新聞(1910年12月12日)に出ていて、6円50銭だったという(*木股知史)。今のお金にすると6、7万から10万円といったところ。結構高価なピストルが真っ赤に錆びて砂の中から出て来た。どんな人がどんな目的で入手し、どんな風にこのピストルとつき合い、どうしてこの砂山に来て埋めて、去ったのか。

31文字なのに、ある男の人生のドラマを想像させる力を持っています

作詞家萩原四朗はそうした想像をかき立てられた一人で「ピストル」を「ジャックナイフ」に置き換えて「錆びたナイフ」を作りました。

砂山の砂を/指で掘ってたら/まっかに錆びた/ジャックナイフが出て来たよ/どこのどいつがうずめたか/胸にじんとくる小島の秋だ

薄情な女を思い切ろうと/ここまで来たが/おとこ泣きしたマドロスが/恋のなきがらうずめたか/そんな気がする小島の磯だ

海鳴りはしてもなにも言わない/まっかに錆びた/ジャックナイフがいとしいよ/俺もここまで泣きに来た/おなじおもいの旅路の果てだ

この詞に上原賢六が曲をつけ、石原裕次郎がうたったところ(1957年)、184万枚のミリオンセラーとなりました。

50年前萩原はこんな想像を紡ぎ出しましたが、今の人はどんなドラマを紡ぐのでしょう。

 *木股知史「一握の砂」(『和歌文学大系 77 一握の砂・黄昏に・収穫』〈明治書院、2004年〉12ページ。)

2009年2月12日 (木)

大海にむかひて一人

     

     大海にむかひて一人

     七八日

     泣きなむとすと家を出でにき

<ルビ> 大海=だいかい。七八日=ななやうか。出で=いで。

<語意> 泣きなむとすと=(思いきり)泣いてやろうと思って。出でにき=出たのだった。 

テキストの3ページをめくると、4ページの右側にこの歌が出て来ます。ここから8首(つまり見開き2つ分)砂山関連の歌がつづきます。この歌では「家を出た」とうたい、8首目(7ページ左の歌)で「やっぱり家に帰ってきた」とうたいます。つまり2つの歌の間にはさまれた6首には、砂山に行っていたときの出来事や思いをうたったもの、という位置づけが与えられます。8首はドラマ仕立てになったわけです。

掲出歌は1908年(明41)6月23日の夜中、つまり24日の午前になって作った歌です。

啄木は24日午前0時頃から昼の11時頃まで、歌が湧きだして止まらなくなります。作っては書き作っては書き、明け方に散歩した時間以外、ひたすら作り続け113首も作ります。翌日25日も夜になると「頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ」(日記)という状態になり、26日の午前2時までに141首も作ります。合計254首! 

歌人石川啄木のビッグバンです。

啄木はこれ以後歌人としての自信を深め与謝野寛・晶子の文学結社・新詩社で歌人としても重きをなすようになります。

この08年(明41)の歌は空想的な、奇抜な、グロテスクな、あるいは浪漫的なものが多く、これもそうした1首ですから大袈裟です。「7日も8日も泣いてやろう」など、もちろん誇張です。ポイントは「家」に居たくない、「家」では泣くこともできない、人のいないところへ行って思いっきり泣きたい、と思った経験でしょう。

<評釈> 大海に向かって自分一人、七日も八日も思いっきり泣いてやろうと思って家を出たのだった。

読者としてこの歌を楽しむとき、「家」は自宅でも、寮でも、下宿でも、どこでもいいわけです。誰にもあり、誰もが経験したことのある感情ではないでしょうか。その感情を「大海に向かって」だの「七日も八日も」だのと誇張した表現を用いてうたっているので、ユーモラスな雰囲気が漂います。

ときには深刻でもある感情が、われわれの中に深刻化しないで生き生きと再現されるのは、啄木らしい誇張と明るさのせいです。ところでいつのどんな感情がこの歌から連想されますか?

明日は4ページ左の歌です。砂山での小ドラマの始まりです。

2009年2月11日 (水)

頬につたふ

    

      頬につたふ

     なみだのごはず

     一握の砂を示しし人を忘れず

<ルビ> 頬=ほ。

<語意> のごはず=ぬぐわないで。示しし人=示した人。

この歌は本文最初のページ=3ページの2首目におかれています。それが歌に第2の意味を持たせます(後述)。

さしあたりむずかしいのは「一握の砂」が何を意味するか、です。巨大な砂山の無量の砂のうちの一握り分の砂、と言うことですから、少なくとも2つの意味を考えることができましょう。1つは無数のうちの1つ、すなわち人間個人個人の存在。2つ目は時間の経過。6ページ左の歌(いのちなき砂のかなしさよ)で見ますが、指の間からこぼれ落ちる砂に啄木は砂時計をイメージしています。

とすれば「一握の砂」は、無限の時間の中の刹那にも等しい時間を生きるのが人間一人一人なのだと知らせるもの、の意味となります。

啄木はだから人生ははかない、とは考えませんでした。だからこそ生命の有限の時間をいかに充実して生きるか、と考えました。

「示しし人」は男性ととるべきでしょう。(わたくしは研究を始めるまで若い女性とばかり思っていました。)

<評釈> 頬を伝い落ちる涙をぬぐおうともしないで「一握の砂」を示し、有限の時間の中を生きるわれわれだ、だからこそ、いのちの一瞬一瞬を充実させて生きて行こうよ、と教えくれた人のことを私は忘れない。

さて、本文最初のページの最初の1首は「東海の小島」の歌でした。この歌の第2の意味で啄木は歌人啄木の自己紹介と歌集の内容紹介を行ったのでした。そして掲出歌をつぎに配したのです。この位置に配置したことによって啄木はこの歌に第2の意味を托します。

<評釈その2> この歌集『一握の砂』の作者石川啄木をいつまでも忘れないで。

啄木にはこういった茶目っ気が多分にありました。 

6ページ左の歌(いのちなき砂のかなしさよ)でくわしく見ますが、啄木の人生観には虚無的なものは少なく、反対に生命の有限を深く実感していただけ、その与えられた時間=人生をいかに充実させるか、をものすごいエネルギーで考えた人です。そしてそのように生きた人です。

ところで、つぎの歌を読んで下さい。おや、と思いませんか。

頬に寒き涙つたふに言葉のみ華やぐ人を忘れたまふな

与謝野晶子の第5歌集『舞姫』(1906年刊)にある歌です。啄木はいい作品、いいフレーズ、いい言葉などに出会うとその超級の頭脳にインプットし、創作時に活用しました。

3ページはこれで終わります。めくると4ページ、どんな歌が出て来て、どんな仕掛けをしてあるか、お楽しみに。

東海の小島の磯の白砂に

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東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

短歌だけは縦の3行書きにしたいのですけれど、試みは全て失敗。当面横書きで行きます。

『一握の砂』は5章仕立てです。第1章は「我を愛する歌」というタイトルで、「自分を愛するから作る歌」の意。151首が収められています。

この歌は第1章の初めにおかれたので、『一握の砂』全551首の巻頭歌でもあります。それだけに啄木がこの歌に托した思いは非常に大きく、この歌のことだけで1冊の本が書けます。でも全て割愛します。

<評釈>地球のはるか東の方に明るく青々と広がる海、そこに浮かぶ緑なす小島、その波打ち際の白い砂地で、ぼくは泣きながら蟹とたわむれ、悲しみをまぎらすことだ。

岩手県でも内陸部(現盛岡市玉山区渋民)に育った啄木は「磯=海・湖などの波打ちぎわで、岩や石の多いところ」の正確な意味を知らなかったようで、単に「波打ちぎわ」の意味で「磯」を使っています。

この歌は朗誦性・色彩性・感傷性に富んでいて、日本人にもっとも愛された歌の1つです。

井上ひさしさんは「東海」→「小島」→「磯」→「白砂」と超高速度カメラを駆使するかのようにアップしてつく力業、「の」に凝縮されたすさまじいエネルギー、に賛嘆を惜しみません。

ところで歌を読む場合2つの方法があります。1つはその歌に関する情報をできるだけ遺漏なく集め、それら全てを踏まえて解釈する方法です。もう1つは自分の好きなように読むやり方です。前者は研究者読み、後者は読者読みとでもしておきましょうか。読者読みも研究者の読みを参考にすることでよりおもしろくなります。

啄木自身が自分の歌をくり返し読んでいるうちに、新しい解釈をするようになりました。そして『一握の砂』の巻頭にこの歌を据えたことで第2の意味を持たせました。

<評釈その2>世界の東の海上に位置する20世紀初頭の日本、天皇制国家の強権のもとに苦しむ日本の<東海の小島の>、東京のとある片隅で<磯の白砂に>、「時代閉塞の現状」と闘おうとするのだが「敵」は強大で手立てを見出せぬまま、ぼくは「意に満たない生活をして」おり<われ泣きぬれて>、そのような生活に耐えねばならぬ「不幸な日」「有耶無耶に暮らした日」にはかけがえのないいのちの刹那の記録として、自己愛惜の表現として、短歌を作るのだ<蟹とたはむる>。(「 」内は啄木自身の言葉)

啄木はいわば自分の歌を読者読みしたのです。

われわれもこの歌の中に自分自身を見てみようではありませんか。例えば「東海の小島」は東京でも旭川でも飛騨高山でもいいわけです。「磯の白砂」も自宅の居間、寮の一室、ネットカフェなどなど。「蟹」もテレビやパソコンやオンラインゲームなどなど。こうしてこの歌を口ずさむとそれは自分の歌となります。

第1の意味と重ねるなら慰めを、第2の意味に重ねるなら励ましを受け取ることができるでしょう。

この歌はテキスト第3ページの右に割り付けられています。明日は左の歌を読みます。

2009年2月 9日 (月)

ブログ開設にあたって-近藤典彦

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わたくしは25年間にわたって石川啄木を研究してきました。

研究の成果は、『国家を撃つ者 石川啄木』(同時代社、1989年)、『石川啄木と明治の日本』(吉川弘文館、1994年)、『『一握の砂』の研究』(おうふう、2004年)などや、(編著)『石川啄木と幸徳秋水事件』(吉川弘文館、1996年)などにまとめました。

研究の過程で知った啄木のすばらしさ、魅力はつぎの本などで紹介してきました。

『啄木 六(ろく)の予言』(ネスコ/文春、1995年)、『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館、2000年)、(共編著)『石川啄木入門』(思文閣出版、1992年)など。

しかし啄木をもっともっと多くの人に読んでもらいたい、と最近しきりに思います。

特に10代後半から40代までの人たち、とりわけ1700万人を超えるという非正規労働者の方々に、啄木の歌集『一握の砂』を読んでもらいたいと思います。

小林多喜二の『蟹工船』が働く人を使い捨てにする社会を告発し、その社会にあって闘うことを訴えた小説であるとすれば、『一握の砂』はそういう社会に生き、闘う人の心(胸のうち)を表現した歌集であるからです。

わたくし自身は『一握の砂』を中学校3年生の時初めて読みました。それ以来50数年の間に数100回は読みました。 汲めども尽きぬ魅力があるからです。一番読みたくなるのは落ち込んだときです。読むと力強くではなく、なんとなく慰められます。それから何だかジワーと生きる力が湧いてきます。 そういう歌集です。

わずか26歳で亡くなったのに どうしてそんな歌集を作れたのか。その訳の一端は朝日文庫版『一握の砂』の「解説」に書いておきました。 ものすごい密度の人生を生きたのです。その凝縮された人生を理会する天才と表現する天才とを合わせ持っていたのです。

現代の日本語の名人井上ひさしさんがこう言っています。

「啄木は、日本史の上で五指に入る、日本語の、言葉の使い手です」と。

この啄木の、最高傑作『一握の砂』を最初から順に1首ずつ読んで行きます。

テキストには石川啄木著・近藤典彦編『一握の砂』(朝日文庫、2008年)を用います。

このバージョンでなくては『一握の砂』の魅力の全貌は決して伝わらないからです。その訳はこのブログのサブタイトルに書いてあります。

では次回、冒頭の1首から始めます。

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