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2009年2月28日 (土)

大といふ字を百あまり

     

     大といふ字を百あまり

     砂に書き

     死ぬことをやめて帰り来れり

<ルビ> 帰り来れり=かへりきたれり

<評釈> 大きな人間になる、という少年時代からの大志を思い起こして、無量の砂の上に、大という字を百あまり書いてゆくと、いつのまにか自殺衝動が消えてしまった。そして家に帰ってきたのだった。  

前回の「しつとりと」の歌に自殺への衝動が隠されていることに気付いた人は、管見のかぎりでは、いません。

前回のような解釈をしないと、「ドラマ」の最後になって「死ぬことをやめて」の句が唐突に出てくることになります。

7、8日間泣こうと思って家を出、流木に話しかけたり、初恋のいたみを思い出したり、指の間から落ちる砂に時間の経過を感じたりしていますが、「死のうか」などと思う歌はまったくありませんでした。

ところがすぐ前にある「しつとりと」の歌を前回のように解釈すると、この歌と完全にリンクします。「自殺まで考えたわたしだったが」、「死ぬことをやめて帰」って来た、とつながるわけです。

こうして、7ページの2つの歌がリンクすると、「ドラマ仕立て」の歌の流れが、内容上も無理なく、見開き左側ページ2首目で、ピタリと決まることになります。(ちなみに本というのは左側のページが必ず奇数ページです。)

最後になぜ「大といふ字」だったのか、にふれます。啄木満15歳盛岡中学校5年生の時、こんな言葉を記しています。世界の大詩人になるために退学して上京しようという1902年(明35)10月17日、細越毅夫という親友に宛てた手紙の1節です。

高き、強き、大なる、この三つの語に対する時我はひざまづきて讃ず

砂山にいる啄木はこの3つの語のうち、「大なる」を想起したものと思われます。大空の下、大海を前に横たわる巨大な砂山・無量の砂、その中にいて啄木は自らの小ささを思い知らされると同時に、大自然の大きさに励ましと慰藉とを得たのだと思われます。そして少年の日からの大志を思い起こして「大」の字を砂に書き始めたのでしょう。まるでおまじないのように。

おまじないが効いて生きる元気が湧きだして、ようし家に帰るか、となったのです。「死ぬことをやめて帰り来れり」

さて、ページをめくると8ページ。そこにはどんな歌が用意されているのでしょう。めくってみてください。

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