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2009年2月22日 (日)

いのちなき砂のかなしさよ その2

     

     いのちなき砂のかなしさよ

     さらさらと

     握れば指のあひだより落つ

この歌の底に流れているのは虚無感ではなく「推移の感覚」です。中国文学者吉川幸次郎は杜甫(712~770)の「絶句二首」中のつぎの一首を引いて「推移の感覚」をこう説明しています。

江は碧(みどり)にして鳥はいよいよ白く

山は青くして花は然(も)えんと欲す

(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ

何の年か是れ帰る年ぞ

「このみじかい詩の底には、中国の詩に常に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、さっきのべた推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻刻に推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の刻刻を、充実した重量のある時間とすることである。」(『新唐詩選』岩波新書)

啄木にはこの推移の感覚がみなぎっています。父一禎が道元の教えを説いて聞かせたことと深く関係しているようです。啄木は少年時代から時を惜しみ時の充実を精力的に追求する人でした。

啄木は漢詩が大好きでしたが、李白と杜甫、とりわけ杜甫が好きでした。

推移の感覚の好例としてペルシア(今のイラン)の詩人オマル・ハイヤーム(1048~1122)の四行詩を1編引いておきましょう。

東の空の白むとき何故鶏が

声をあげて騒ぐかを知っているか?

朝の鏡に夜の命のうしろ姿が

映っても知らない君に告げようとさ。

オマル・ハイヤームは数学者・天文学者・医学者・語学者・歴史学者・哲学者・そして詩人。まるでレオナルド・ダヴィンチのような天才です。その詩は推移の感覚に満ちていますが、杜甫よりは李白の詩に近いと思われます。上の詩はオマル・ハイヤーム作、小川亮作訳『ルバイヤート』(岩波文庫)から引きました。この文庫版は訳もみごと、解説もみごとです。啄木の掲出歌が好きな方にお勧めです。ちなみに小川亮作は啄木の大ファンでした。

次回は「その3」として掲出歌の読者読みを紹介します。

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