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2009年2月21日 (土)

いのちなき砂のかなしさよ その1

     

     いのちなき砂のかなしさよ

     さらさらと

     握れば指のあひだより落つ

この名歌にはふたつのキーワードがあります。「かなしさ」と「砂」です。

歌の調べがあまりに美しいので、「かなしさ」が何を意味するのかなど考えないで愛唱してしまうのが普通です。「かなしさ」はここの場合「努力してもどうにもならない、本質的なことによる限界を感じる悲しみ」(『日本国語大辞典』小学館)です。

啄木は砂には心がなく、自分の気持ちや悩みと全く無縁であることにかなしさを感じているのです。

つぎは指の間からこぼれ落ちる「砂」です。啄木が評価し愛読した土岐哀果の歌集『NAKIWARAI』につぎの歌があります(原歌はローマ字書き)。

わがいのち砂の時計のさらさらのおとのまにまに神にかへるか

時間の経過と共にわがいのちが死にむかっているのか、と哀果は嘆いているわけです。啄木はこの歌から「砂時計」と「さらさら」を借ります。「さらさらと/握れば指のあひだより落」ちる砂は砂時計の暗喩なのです。

土岐哀果とちがい啄木はすぎゆく時間に死を見て嘆いたりはしません。かけがえのないわが生命の一瞬一瞬が無為のうちに過ぎて行く、もったいないと嘆くのです。

この歌を作ったのは1910年(明43)10月ですが、この年5月末に幸徳秋水らの明治天皇暗殺計画の発覚(大逆事件)がありました。国家権力はこれを利用して無理無体に社会主義運動を弾圧します。啄木は評論「時代閉塞の現状」を書いて、大逆事件を引き起こした真の「犯人」は被告達ではなく、逆に国家権力(強権)の方だ、と告発します。そしてこの時代は青年達にとってなんと不幸な時代であることかと説き、闘いに立ち上がるよう訴えます。

時代をもっとも鋭くもっとも深くもっとも勇敢に批判した文章でした。発表の場はありません。

うれしい長男の誕生、しかし病弱(生後24日で死亡)。妻も病気がち。啄木自身過労の日々。はたらけど楽にならない家計。

すべては「現在の家族制度、階級制度、知識売買制度」からくるものだ。そう分かってはいるけれど、これと有効に闘うこともできず無為のままに過ぎゆく日々、いや刻一刻、刹那刹那。なんとかしたい!いや、しなければ!

これが啄木の嘆きの本体です。

<評釈> 私の内部に渦巻き私を揺り動かす思いや望みは、実現からはほど遠い。ただ時間だけが過ぎ去ってゆく。砂を握ると、砂はいのちなきものゆえに、私のそんな思いにとんじゃくすることなく、砂時計となって、さらさらと、指の間よりすべり落ちてゆく。私の人生が意に満たぬままに刻一刻と過ぎてゆくことを無情にも知らせながら。

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