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2009年2月26日 (木)

しつとりと

    

     しつとりと

     なみだを吸へる砂の玉

     なみだは重きものにしあるかな

<語意> 「重きものにし」の「し」=上の語(ここでは「重きものに」)を強調する意を表す副助詞。

<評釈> 生きて行くことの苦しさに自殺まで考えたわたし。そのわたしの涙をしっとりと吸ってできた砂の玉。熱くしたたり落ちた涙が突然重さのあるものに変わったのだ。この玉がわたしの苦しみ・悲しみの全重量を表していると思うと、涙はなんと重いものであることよ。

この解釈の根拠は2つあります。

1つは、啄木の未完の小説「漂泊」の1場面。本州の田舎で代用教員をやっていたが、生徒を扇動してストライキをやり、首になって函館に流れてきた石川啄木さながらの「後藤肇」が主人公。

函館の砂山で肇は友人の「楠野」に函館に来る前夜のこと打ち明ける。肇は翌朝の出帆を待って青森港の船の上で一夜を明かしたが、そこに至る人生を考えると涙が止まらず、ついに自殺衝動に駆られ海をのぞき込んだ、と。そして肇は言う。

『海の水は黒かツた。』

『黒かツたか。ああ。黒かツたか。』と謂つて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それやいかん。止せ。後藤君。自殺は弱い奴等のするこつた。・・・・・死ぬまでやれ。いや、殺されるまでだ。・・・・・』

『だから僕は生きてるぢやないか。』

『ああ。』

『死ぬのはいかんが、泣くだけならいいだらう。』

以上の場面が啄木内面のドラマの小説化と考えられること、啄木が北海道時代の歌を作るときこの小説草稿も読み直していると推定されること、を踏まえると上の評釈が成り立ちます。

根拠の2つ目は7ページ左の歌との関連にあります。「しつとりと」の歌は7ページ右にあり、左に「大といふ字を百あまり」の歌が置かれています。この歌によって、4ページ右の「家を出て海に行った」に始まる「ドラマ仕立て」の歌群がしめくくられます。

次回ではその関連も含めてしめくくりの歌を読みます。

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