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2009年2月11日 (水)

東海の小島の磯の白砂に

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東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

短歌だけは縦の3行書きにしたいのですけれど、試みは全て失敗。当面横書きで行きます。

『一握の砂』は5章仕立てです。第1章は「我を愛する歌」というタイトルで、「自分を愛するから作る歌」の意。151首が収められています。

この歌は第1章の初めにおかれたので、『一握の砂』全551首の巻頭歌でもあります。それだけに啄木がこの歌に托した思いは非常に大きく、この歌のことだけで1冊の本が書けます。でも全て割愛します。

<評釈>地球のはるか東の方に明るく青々と広がる海、そこに浮かぶ緑なす小島、その波打ち際の白い砂地で、ぼくは泣きながら蟹とたわむれ、悲しみをまぎらすことだ。

岩手県でも内陸部(現盛岡市玉山区渋民)に育った啄木は「磯=海・湖などの波打ちぎわで、岩や石の多いところ」の正確な意味を知らなかったようで、単に「波打ちぎわ」の意味で「磯」を使っています。

この歌は朗誦性・色彩性・感傷性に富んでいて、日本人にもっとも愛された歌の1つです。

井上ひさしさんは「東海」→「小島」→「磯」→「白砂」と超高速度カメラを駆使するかのようにアップしてつく力業、「の」に凝縮されたすさまじいエネルギー、に賛嘆を惜しみません。

ところで歌を読む場合2つの方法があります。1つはその歌に関する情報をできるだけ遺漏なく集め、それら全てを踏まえて解釈する方法です。もう1つは自分の好きなように読むやり方です。前者は研究者読み、後者は読者読みとでもしておきましょうか。読者読みも研究者の読みを参考にすることでよりおもしろくなります。

啄木自身が自分の歌をくり返し読んでいるうちに、新しい解釈をするようになりました。そして『一握の砂』の巻頭にこの歌を据えたことで第2の意味を持たせました。

<評釈その2>世界の東の海上に位置する20世紀初頭の日本、天皇制国家の強権のもとに苦しむ日本の<東海の小島の>、東京のとある片隅で<磯の白砂に>、「時代閉塞の現状」と闘おうとするのだが「敵」は強大で手立てを見出せぬまま、ぼくは「意に満たない生活をして」おり<われ泣きぬれて>、そのような生活に耐えねばならぬ「不幸な日」「有耶無耶に暮らした日」にはかけがえのないいのちの刹那の記録として、自己愛惜の表現として、短歌を作るのだ<蟹とたはむる>。(「 」内は啄木自身の言葉)

啄木はいわば自分の歌を読者読みしたのです。

われわれもこの歌の中に自分自身を見てみようではありませんか。例えば「東海の小島」は東京でも旭川でも飛騨高山でもいいわけです。「磯の白砂」も自宅の居間、寮の一室、ネットカフェなどなど。「蟹」もテレビやパソコンやオンラインゲームなどなど。こうしてこの歌を口ずさむとそれは自分の歌となります。

第1の意味と重ねるなら慰めを、第2の意味に重ねるなら励ましを受け取ることができるでしょう。

この歌はテキスト第3ページの右に割り付けられています。明日は左の歌を読みます。

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