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2009年3月

2009年3月31日 (火)

草に臥て

     

     草に臥て

     おもふことなし

     わが額に糞して鳥は空に遊べり

<ルビ> 臥て=ねて。額=ぬか。糞=ふん。

<評釈> 後にまわします。

「臥」という字は、「うつぶせに寝る」が原義のようですが、ここは「仰臥」でしょう。

この歌には2つの問題があり解釈は簡単ではありません。

1、「おもふことなし」の状態の所に、糞を落とされたのか。糞を落とされても「おもふことなし」なのか。

2、全くの空想歌か、案外現実味がある歌なのか。

1について。木股知史さんは後者ととります(味のある解釈です)。わたくしは2の問題とも絡めて、前者ととります。

2についてのわたくしの経験。

20数年前、ふたりの子どもを連れて多摩動物公園に行きました。ソフトクリームを食べさせていると、突如頭上で「ぎゃー」という声。頭に何かが落ちてきました。はっとしてさわると白い糞が指にべっとり。あわてて拭き取りました。のんびりしている余裕はありませんでした。

まもなく糞の落ちたあたりから髪が薄くなってきました。それから20数年。年金のことで地元の社会保険庁に向かって自転車をこいでいました。頭上でばさっと音がしたと思ったら、わが頭の上を軽く引っ掻いて大きな烏が目の前を飛び去り電線にとまりました。コンチクショウ。向こうは知らん顔です。以前学生から烏は「光りもの」が好きだといっていたのを思い出し、ひとり「納得」しました。

さて、成城大の学生18名に掲出歌についての感想を聞いたことがあります。意外にも3人の学生が歌と同様の経験があるというのです。たとえば信号待ちしていたら、肩に糞を落とされ、着替えに戻った、など。

<評釈> 草に寝ころがって、青く澄んだ空を見上げていると、心から雑念が消えた。突然鳥の糞がわが額に落ちてきた。現実に引き戻されて目をやると、糞をした鳥の方は無心に空を舞っているではないか。

日本人は昔から頭とか額を非常に大切な部位と考えてきました。そこに鳥は糞を落としたわけです。でも鳥にとってそれはどうでもいいこと、「空に遊べり」です。

この歌の心の動きを考えてみましょう。空を見ていて次第に消えて行く雑念(無心)→鳥の糞におどろく心→空に遊ぶ鳥の無心を感心して見上げる心。

ほんとうにあったことか、否かはともかく、人間の心の動きをあざやかに彫り込む詩人の「意識力」(草壁焔太)のすばらしさ。

2009年3月30日 (月)

呆れたる母の言葉に

     

     呆れたる母の言葉に

     気がつけば

     茶碗を箸もて敲きてありき

<ルビ> 呆れ=あきれ。茶碗=ちゃわん。箸=はし。敲き=たたき。

<評釈> あきれてたしなめる母の言葉に気がついてみると、何に浮かれたのやら、調子をとって箸で茶碗を敲いているのだった。 

啄木の「母」は南部藩士の家柄の血を引いていると言うこともあって、息子へのしつけはしっかりしていたと思われます。

与謝野晶子の思い出に次のようにありますが、この啄木は父親系ではなく、明らかに母親系が表れた啄木と思われます。

石川さんの額つきは芥川さんの額つきが清らかであったやうに清らかであった。・・・・そして石川さんには犯し難い気品が備って居た。石川さんを私は貴族趣味の人だと思ってゐる。・・・・私は幾つかの例を上げることも出来るのである。何の収入もなくて東京に居た頃、夏になってもまだこの通りに自分は袷を着て居ますが、その為めに昨日是れを一本買って来ましたと言って、白扇を帯から抜いてはたはたと使って見せた事がある。・・・・

「茶碗を箸もて敲」くは食前か食後に、空いた茶碗を調子をとって(たとえば盆踊りの太鼓の調子で)、敲いたのでしょう。「母」は怒るのではなく、あきれます。と言うことはその時の啄木は一人前の男だったということでしょう。ひょっとするとすでに妻子持ちだったかも知れません。

歌はローマ字日記時代の1909年(明42)4月の作ですが、その当時母とは同居していませんから、過去の出来事を思い出してうたっていることになります。

さて、これも心の姿をうたった歌です。知らぬ間に浮かれた心が生じた。母のあきれた言葉に気がついてみると、その浮かれ心が無意識のうちに茶碗を調子をとって敲くという姿になっていた、というわけです。

14、15ページの見開はこんな風に展開しました。

「物に倦」んだ心が「愛犬の耳斬りてみぬ」という姿をとり、「泣き飽き」た心が自己の百面相を楽しみ、「なみだ」という魔法の水が悲しい心を戯け心に変える不思議を見、最後に我知らず生じた浮かれ心の姿をとらえた、という風に。

こうなるとページをめくった時どんな歌が最初に現れるのか、気になりませんか。

お願い> いつも当ブログをご愛好いただきありがとうございます。ご愛好の方々にお願いします。ご自分の息子さんや娘さんにあるいはお孫さんに、あるいは様々の若いお知り合いに、このブログを覗いてみるよう、お勧め願えないでしょうか。40代以下の日本人の中に啄木を広めたい! これがわたくしの悲願です。

2009年3月27日 (金)

なみだなみだ

     

     なみだなみだ

     不思議なるかな

     それをもて洗へば心戯けたくなれり

<ルビ> 戯け=おどけ。

<評釈> なみだなみだ、これは不思議だぞ。なみだで心を洗ってやると、心が悲しみを忘れ、戯けたくなるぞ。

「なみだ」は液体ですから、たしかにものを洗うことができるかも知れません。

しかし、液体で洗えるのは固体でしょう。「心」は固体でも液体でも気体でさえない非物質。なみだという液体で「心」という非物質を洗うとは、啄木以前に誰が発想したでしょう。

なみだは悲しみの心から湧いて来る。その涙を流しているうちに、悲しみの心が洗われて、戯けの心に変化する、なみだっていうのは不思議だなあ、というのです。

136ページ左の歌に「青に透くかなしみの玉」という表現があります。悲しい心を青に透く玉とすると、戯けの心は光の色・金色の玉としましょうか。青に透く玉を洗うと金色の玉に変えてしまうなみだは、さしずめ魔法の水です。

「東海の小島」の歌を絶賛した井上ひさしさんが、啄木はこの歌で日本語を「望遠レンズ」にしたと言いました(「解釈と鑑賞」2004年2月号)。このひそみに倣うなら、啄木は掲出歌で日本語を「魔法の水」にした、と言えましょうか。

「なみだ」や「泣く」が多いところから、啄木短歌はセンチメンタルだと、一部で言われましたが、どうしてどうして啄木はなみだの不思議の発見者、人間心理の犀利な観察者です。そして前回で書いたようにユーモリストでもあります。

なみだの歌でも、泣く歌でも歌の底の底からは、じんわりと生きる力が湧きだしています。

2009年3月26日 (木)

鏡とり

     

     鏡とり

     能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ

     泣き飽きし時

<ルビ> 能ふ=あたふ。

<語意> 能ふ=できる。

<評釈> 鏡を手にとって、自分の顔で百面相をして写して見た。もう泣くのに飽きた時に。

1908年(明41)11月19日に作り、その後3つの雑誌に載せて、最後に『一握の砂』にこうして入れました。啄木得意の作のようです。

考えてみるといかにも啄木らしい歌です。悲しくて泣いているうちに泣くことに飽きた、という心理は、言われてみれば「あ、そんなこと自分にもあった」と気づきますが、それを言葉にして取り出すことは誰にもできませんでした。

そのあと鏡を手にとって、怒った顔、笑い顔、すまし顔、すねた顔、しかめ面、恋人向けの顔、今少し前の泣き顔などなどをやって、眺めている場面はユーモラスでもあり、おどろきでもあります。だいたい自分の顔ってそんなに長いこと眺めていられるものでしょうか。

啄木が自己批評の達人であることは定評のあるところですが、自己批評は主として自己の内面に関しておこなうものです。その達人がここでは、自分の顔を自分で見物して楽しんでいるわけです。

しかしよく考えてみると、鏡に写したどの顔も自分の心理の表現です。結局は自分の百面相を通じて自分の心の百面相をながめて楽しんでいることになります。

そして、歌人啄木がそういう自分を離れたところから眺めていて、歌にしているわけです。これもまた自己批評です。

啄木の短歌は単純なようで複雑です。石川啄木その人も純粋で複雑です。

大岡信氏はかつて啄木短歌の特質の1つとして「ユーモア」を挙げましたが、あざやかな指摘です(「石川啄木のユーモア」)。氏が例としてあげた5首中の1首はつぎの歌です。不治の病にあったときの作品です(『悲しき玩具』所収)。

   ある日、ふと、やまひを忘れ、

   牛の啼く真似をしてみぬ、――

    妻子の留守に。

この人のユーモアは、読者におどろきと共感と慰藉とを風のように送ってきます。

2009年3月24日 (火)

愛犬の耳斬りてみぬ

     

     愛犬の耳斬りてみぬ

     あはれこれも

     物に倦みたる心にかあらむ

<ルビ> 斬り=きり。倦み=うみ。

<評釈> 後ろにまわします。

これも簡単なようで厄介な歌です。

「愛犬」とありますが、啄木が犬を飼った記録は生涯を通じてありません(犬は好きだったようですが)。

この歌は1909年(明42)4月下旬の作です。そのころの啄木は下宿代を払わないので、ひどい待遇を受けながらようやっと食べていました。犬を飼うなんて夢想もできない境遇です。したがって最初の1行はまったくのフィクションです。

「斬」の字義からすると、(耳を)すっぱり切りはなしたことになります。空想上の行為としても、啄木がそんな残酷なことをするはずがありません。啄木に関する全データはそういう解釈を拒否しています。どう解釈したらよいのか?

明治時代の辞書『言海』の「きる」に、「刃物を動物に当ツ。斬」とあり、『辞林』にも「刃物を動物の体躯に加ふ。(斬)」とあります。「斬る」の字を啄木が用いたのは対象が犬だったからでしょう。

さらに「きる」には(ナイフなどで指を)「あ、切っちゃった」のように「刃物などで傷をつける」の意味があります(新潮現代国語辞典)。

かくて「愛犬の耳斬りてみぬ」は愛犬の耳を刃物で傷つけてしまった、の意味となります。

「倦む」は今までの状態や行為を続ける気がしなくなる、の意。作歌時の啄木に即して言えば、売れる小説を書こうと上京して、丸1年。奮闘虚しく、現時点では書けないことが決定的です。その絶望的苦悩を書きつづっているのが、ローマ字日記です。

書けなくて書けなくて、とうとう何もかもやる気が無くなった(物に倦みたる)状態、それがうたわれているわけです。したがってこの歌の眼目は「物に倦みたる心」にあります。

<評釈> 愛犬の耳を刃物で傷つけてしまった。ああ、こんなひどい馬鹿なことをことをするのも、何にもする気が無くなった心のせいだろうか。

人は色々な事情で倦みます。そんなとき些細な馬鹿げたことしか、することがなくなります。啄木が(空想で)愛犬の耳を傷つけたように。

自暴自棄の歌のようですが、よく考えてみると、8年間にわたる奮闘、挫折、再起の連続の中で(テキストの「啄木略伝」参照)ここに至ったわけです。そしてこの1年後に『一握の砂』の啄木になって行くのですから、啄木でもこんなに「倦んだことがあったのか」とむしろ励ましになる歌でもあります。

2009年3月22日 (日)

浅草の夜のにぎはひに

     

     浅草の夜のにぎはひに

     まぎれ入り

     まぎれ出で来しさびしき心

<ルビ> 夜=よ。入り=いり。出で=いで。来し=きし。

<評釈> 浅草の夜の活動写真館のぎっしり詰まった人込みに、この世の憂さ・人間関係の煩わしさを忘れに行って、活動写真が終わってしまうとまた憂さ・煩わしさがもどって、人込みを出て来たあのさびしい心よ。

浅草は当時(20世紀初め)東京第一の繁華街。特に浅草六区には芝居小屋や映画館が立ち並び人を集めていました。その映画館通りの突き当たりには凌雲閣という煉瓦造りの高層建築(約52m)があり、浅草のシンボルでした。その建物下の迷路のような小路は私娼窟でした(啄木は塔下苑と名づけました)。

啄木がしきりに浅草を徘徊したのは1908年(明41)秋から翌9年6月1日まで。この間の日記によると、「浅草の夜のにぎはひ」は街頭の人通りではなく、「活動写真」館すなわち当時の映画館の中を指します。

小説が書けなくて苦しんだあげく、かれは「人のいない所へ行きたい」と願い、それができないなら逆に「この考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所――活動写真へ行く」と記しています(ローマ字日記)。

「夜のにぎはひ」を出た啄木の足は塔下苑に向かうのが常でした。

ところでこの歌の初出は東京朝日新聞1910年3月18日。もう活動写真を見には行っても「塔下苑通い」はしなくなってから作った歌です。

10年3月13日宮崎郁雨あての手紙によると、啄木は家族や職場の人間関係を最優先していると、自分の創作・思索活動が犠牲になってしまうことに気づき、また「急にこの世から逃出」したくなっています。

同年5月末起稿の小説「我等の一団と彼」では高橋彦太郎という記者つまり勤め人に「活動写真」を次のように語らせます。

彼処(あそこ)には何百人といふ人間が、彼の通りぎつしり詰まつてゐるが、奴等――と言つちや失敬だな――彼の人達には第一批評といふものが無い。損得の打算も無い。各自(めいめい)急がしい用を有つた人達にや違ひないが、彼処へ来るとすつかりそれを忘れて、ただもう安い値を払つた楽しみを思ふさま味はうとしてゐる。・・・・つまり(活動写真のありがたみは)批評の無い場処だといふところにあるさ。

手紙と小説を合わせて考えると、歌の「夜のにぎはひ」に行く人達は主として啄木のような「急がしい用を有つた人達」。目的はこの世の憂さ・煩わしさを一時忘れるため、ということになります。

つまりこの歌はローマ字日記時代の啄木と、もっと広く啄木のような勤め人を含む「急がしい用を有つた人達」の心をも重ねてうたったものなのです。それは現代の労働者~サラリーマンにも通じる心でしょう。

このようにして12、13ページの見開き4首は勤め人シリーズでありうるわけです。

2009年3月19日 (木)

こみ合へる電車の隅に

     

     こみ合へる電車の隅に

     ちぢこまる

     ゆふべゆふべの我のいとしさ

<評釈> この頃(1910年頃)の東京の新光景ともいうべき通勤電車のラッシュ。その夕方の電車の隅に来る日も来る日も縮こまって乗っている自分の、愛すべき健気さよ。

この歌の初出は文芸短歌雑誌「創作」の1910年(明43)5月号。日本の産業革命が完了したのは1907年頃といわれます。産業革命期を通じて農村から地方から大量の人が賃金労働者(下級官吏、サラリーマンから職工まで)として大都市に移住してきました。

1910年は産業革命を終えた日本資本主義の全面的展開の開始期。都市生活者は増える一方です。

大都市東京には電車の交通網が整備されてゆきます。現代とちがって編成は組まず運転手と車掌が1両を動かす路面電車でしたが。

出勤・退勤時のラッシュが始まります。それは21世紀現在のラッシュアワーの始まりでもあります。始まった瞬間に啄木は歌にしたわけです。

「こみ合へる電車の隅」の9文字に含まれる意味の大きさを味わってください。

その隅に「ちぢこまる/ゆふべゆふべの我」を「天職」=歌人の啄木が見つめています。みつめられているのは、職業としての仕事をする自分です。自分の有する時間のうちの主要な部分を切り売りしてしか生きるすべのない存在つまり勤め人としての自分です。

「ゆふべゆふべ」のくり返しにサラリーマンの日常性が巧みに表現されています。

その「我」に詩人は「いとしさ」を感じます。「いとしさ」は愛すべき健気さ、といった意味でしょう。

こんだ電車の隅に毎晩ちぢこまって乗っている安月給取りの自分に「いとしさ」=愛すべきものを感じる啄木のまなざしは、そのまま働く人々すべてへのまなざしでもありました。

だから53ページの「はたらけど/はたらけど」のような名歌も生まれてきます。

12、13ページの見開き4首のうち3首はこうして、勤め人シリーズになっています。次回の「浅草の夜のにぎはひに」の歌はこのシリーズのしめくくりです。

近藤典彦著『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館)は、啄木短歌が同時代をいかにみごとに映し出しているかを解説した本です。機会があったらご一読ください。

2009年3月18日 (水)

こころよく

     こころよく  

     我にはたらく仕事あれ

     それを仕遂げて死なむと思ふ

<ルビ> 仕遂げ=しとげ。 

<評釈>(うしろにまわして記します。)

この歌の解釈は解説の必要もないくらい簡単だと思っていました。ところが昨日1日、WBC対キューバ戦テレビ観戦後のうれしく眠い頭を使いましたが、埒が明かず(この原稿の9割方は3/16に書くも保存に失敗、18日韓国戦を前に書き直しです)。

まず「こころよく・・・・はたらく」の意味が分からなくなりました。この歌の初出は1910年(明43)3月28日の東京朝日新聞です。自分の勤めている職場の新聞に投稿したのが載ったわけです。

啄木はそのころ手紙でこんな事を書いています(大島経男宛、10年1月9日)。

現在私は朝日新聞社で校正をやつてをります、・・・・父も母も妻も子も今は皆私の許にまゐりました、私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何よりも先にモット安易にするだけの金をとる為に働らいてゐます、その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやつてゐます、田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます、

ところで、啄木はこれらの仕事はきらいでなく、むしろ熱心にやっています。だいたい職場で仕事をしている男が、その職場の仕事がいやだ、ああ我に「こころよく・・・・はたらく仕事あれ」とうたい、その職場の新聞に投稿したとすれば、無礼なことです。

どう考えればいいのか? 「仕事」の2文字がカギです。

09年(明42)4月23日のローマ字日記にこんな記述があります(原文ローマ字)。

社では木村、前川の両老人が休んだので第一版の校了まで煙草ものめぬ忙しさ。・・・・予は帰って来て飯がすむとすぐとりかかって歌をつくり始めた。この間からの分と合わせて、十二時頃までかかって七十首にして、『莫復問七十首』と題して快く寝た。何に限らず一日暇なく仕事をした後の心持はたとうるものもなく楽しい。人生の真の深い意味はけだしここにあるのだろう!

歌の原稿は雑誌「スバル」5月号に載せるためのものです。この文中では、職場で校正するのも(つまり職業も)、下宿で歌を作ったり編集したりするのも「仕事」です。啄木にとっては「こころよく・・・・はたらく仕事」というのは「職業」でもよく、他の「なすべきこと」でもよいわけです。しかし今の校正の仕事も歌を作る仕事もかれにとっては天職ではない、というのでしょう。

<評釈> 私は家族と自分が生きるために毎日職場で働いているが、気持ちよくやり遂げるべき天職こそが欲しい。天職を得られたらそれを仕遂げて死のうと思う。

啄木が当時「天職」と考えていたのは文学ですが、分けても小説で成功したいという野心がありました。啄木がやり遂げた「天職」は『石川啄木全集』全8巻になって残っていますが、彼が命と引き替えに残した作品こそ『一握の砂』でした(テキスト解説312~316ページ参照)。

この歌の最初の3句(五七五)はこれだけが独立しても現代のわれわれの共感を呼びます。啄木の言う「仕事」=天職とまでは言わない、一生を託するに足る安定した仕事=職業がほしい! これは21世紀日本のおそるべき「貧困」につき落とされた、特に1800万非正規労働者の心底からの叫びではないでしょうか。 

この歌はくったくたの夜勤帰りの歌(前回)の続きになっていて、職場でふっと湧いた感懐をうたったものと見なされます。次回の見開き3首目は、勤め帰りの歌です。

2009年3月15日 (日)

いと暗き

     いと暗き

     穴に心を吸はれゆくごとく思ひて

     つかれて眠る

<語意> いと=とても。

<評釈> 真っ暗な穴に心を吸われてゆくようだと思って、1日の仕事に疲れきって眠りに落ちる。

今日の歌こそはあまり解説はいらないようです。とは言え少々。

初出は東京毎日新聞(今の毎日新聞とは無関係)1910年(明43)3月28日。5句が「眠りには入(い)る」 となっています。その後「学生」という雑誌の同年5月号に載せたときは5句を「疲れて眠る」と変え、同年12月刊の『一握の砂』では上のように「つかれて眠る」です。

この年の啄木は勤め人(サラリーマン)としても非常に勤勉でした。職場は東京朝日新聞社。仕事は校正係。夜勤も3日に1回の割でやっています。

夜勤の日仕事が終わるのは夜中の12時。本郷弓町の家に着くのは1時過ぎでした。そんなある1日の就寝をイメージしてください。

余白があるので、わたくしが座右に置いて、ブログを書くまえに常時参照している文献を記し、以て謝意を表したいと思います。

今井泰子注釈『石川啄木集 日本近代文学大系 23』(角川書店、1969年)

岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』(筑摩書房、1985年)

上田 博『石川啄木歌集全歌鑑賞』(おうふう、2001年)

木股知史注釈「一握の砂」(『和歌文学大系 77』〈明治書院、2004年〉所収)

すぐれた先行研究は皆そうですが、大変参考になります。そして研究もまた皆そうですが、十分に踏まえさせてもらった時、研究者の研究結果は大抵の場合どの先行研究とも違ったものになります。これまでのわたくしの解釈はすべて4氏と異なりました。

今回は岩城之徳氏の解釈「真暗な穴に心が吸われてゆくように、ただただ疲れて私は眠るのである」が参考になり、基本的に継承させていただきました。なぜなら、氏のように解釈すると、この12、13ページの見開きが勤め人シリーズになることに気づいたのです。

これを含めた4首この視点で読みます。

2009年3月14日 (土)

何処やらむかすかに虫のなくごとき

     何処やらむかすかに虫のなくごとき

     こころ細さを

     今日もおぼゆる

<ルビ> 何処=いづく。細さ=ぼそさ。

<語意> 何処やらむ=どこだろうか。

<評釈> 何処で鳴いているのだろうと思いながら、かすかな虫の音を聞いたことがある。秋の末の今にも絶え入りそうな虫の音だ。あれを聞いたときのような、自分という存在に対する頼りなさを、今日も感じることだ。

非常に解釈の簡単な歌だと思っていました。たとえば、50年昔の自分の経験に照らして考えていました。

北海道の旭川東高から東大に入学したのはいいけれど、周りに非常に優秀な人が多く、自信を失いました。しまいには巨大な深いすり鉢状の谷の底に1人いて、星を仰いでいるような孤独を感じました。この歌の「こころ細さ」はそういう孤独のこころ細さだろうと思ったのです。

しかし解説にあたり作歌時期を確認すると、1910年(明43)5月作でした。この5月というのは啄木が思想上の最後の悩みを悩んでいた時でした。

社会主義思想に強く惹きつけられていました。しかしもしも自分が社会主義者になったら、弾圧、逮捕、投獄も覚悟しなくてはなりません。「怖い」と思います。

当時の日本では社会主義運動は弾圧されてすっかり沈滞していました。幸徳秋水は湯河原に引っ込んで著述の仕事をしていました(間もなく大逆事件で逮捕されます)。かれを取り巻いていた4人のうち2人は逮捕・拘禁中、2人は動向すら不明です。もう1人の指導的社会主義者堺利彦とその同志たちは赤旗事件で獄中にあります。

どんな生物も自己保存の本能の下で生きています。怖い、自分と家族をまもりたい、と思うのは当然です。誠実な石川啄木はその自分を責めます。

自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然(あはれ)さを心ゆく許(ばか)り嘲つてみるのは其の時だ(エッセー「硝子窓」)、と。

啄木が「自分」というときは、肉体としての自分ではなく肉体に宿る心や思想を指していました。その「自分」という存在の頼りなさ(→こころ細さ)を今日も感じる、というのです。

以上のように解釈してみました。しかしこの歌に詠まれたような感覚は自分に即して色々に読み替えることができましょう。

私が冒頭に書いたような受けとり方もいいでしょう。

単位を落として留年せざるを得なくなったとき、派遣切りにあって路頭に迷ったとき、将来の老後の生活を考えたとき、自分の認知症を心配するとき(私の場合)など、「こころ細さを今日もおぼゆる」種は尽きません。

この歌は単純なようで複雑です。そして普遍性があります。

11ページが終わりました。めくると啄木はどんな歌を用意しているでしょう。

2009年3月11日 (水)

わが泣くを少女等きかば その2

     

     わが泣くを少女等きかば

     病犬の

     月に吠ゆるに似たりといふらむ

大逆事件は、幸徳秋水らの反戦・社会主義の運動への無理無体な弾圧に対する、反抗としておこりました。弾圧したのは時の政治権力=「強権」=天皇制国家でした。強権はかれらに、思想・集会結社・表現言論、出版その他の自由を一切許さなかったのです。

啄木はこの強権下の社会が経済的にも閉塞していると指摘します。当時はエリートだった大学の卒業生の半分は就職できないでいる、大学にゆけなかったその何十倍、何百倍の青年は、「其生涯の勤勉努力を以てしても」安月給しか取れない、と。

そして告発します。「我々青年を囲繞(いぜう)する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普(あまね)く国内に行亘(わた)つてゐる」と。

さらに呼びかけます。「斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである。・・・・我々は一斉に起つて先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。・・・・全精神を明日(みやうにち)の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」と。

「時代に対する組織的考察」とは、時代の政治・経済などの仕組みの総体的・歴史的・科学的考察を意味すると思われます。

これを現代に当てはめると、自民党政治をはびこらせる社会構造・政治権力と財界との密接な関係・大企業の巨大な儲けと1800万人とも言われる非正規労働者(その家族)の貧困化・この残酷な貧困化における小泉政権の罪・反貧困の闘いの展望等々の考察もふくまれるでしょう。

さて、この知性と勇気と迫力に満ちた一編を発表する場はありませんでした。他方では検挙された大逆事件の被告達の苛酷な取調が極秘裏に進められていました。

強権と対決しようとして、その強大さに圧倒され、焦り、身もだえる啄木。自分の苦悩の様に「病犬の月に吠ゆる」様を連想したのでしょう。掲出歌ができました。

「月に吠ゆる」はシェークスピア「ジュリアス・シーザー」のから来ていると思われます。ブルータスのセリフです。「そんなローマ人になる位なら、むしろ犬になって月の吠えたほうがましだ」(坪内逍遙訳)  英語原文中の"bay the moon"は成句になっていて、「無駄な不平を言う」という意味もあります。

(啄木の)「心の姿」=「我」をうたった歌です。

少女・月・シェークスピアと病犬・大逆事件・時代閉塞の現状がセットになったこの歌は深刻な内容を含みながら、しゃれた、モダーンな、絵のような歌にもなっています。うんと苦しい心境の時この歌をくちずさむと、かえって安らぎが生まれる様な気がします。

啄木と同年(1886年)生まれの萩原朔太郎は熱い啄木ファンでした。のちにその第一詩集(口語自由詩の金字塔)に『月に吠える』と名づけます。

2009年3月10日 (火)

わが泣くを少女等きかば その1

     わが泣くを少女等きかば

     病犬の

     月に吠ゆるに似たりといふらむ

<ルビ> 少女等=をとめら。病犬=やまいぬ。吠ゆる=ほゆる。

<評釈> 私の心の中の憤懣、悲しみをそのまま泣くという行為にうつしたならば、私の泣き声を少女等は、狂犬が月に向かって吠えているようだ、と言うことだろう。

さて、11ページ右の歌に移りました。「我を愛する歌」という章に、啄木は自分の「心の姿」を詠んだ歌々を編集していますが、その心の姿百態は、この歌から始まります。

ここまでの編集をふり返っておきましょう。

「東海の小島の」歌で啄木は歌人石川啄木の自己紹介と歌集の内容紹介をしました。啄木は『一握の砂』を編集するときこの歌を巻頭に据えることを最優先しました。これに合わせて第2番目に「頬につたふ」の歌を持ってきて、『一握の砂』の作者をいつまでも忘れないで、というメッセージを托しました。これが3ページ。

この3ページをめくったところからいきなり「心の姿」を歌い出すのではなしに、啄木は4ページに砂山=海辺関係の歌を配しました。そして7ページを「死ぬことをやめて」家に帰ってきたとしめくくり、8ページからは家庭の歌=母の歌をはじめます(4首)。10ページからは父の歌(2首)。

そしてこの11ページから「心の姿」百態の歌々をランダムに配してゆきます。ここからは、これまでのようにテーマによって歌々を組み立てることをあまりしません。われわれが日常心に思うことがとりとめもなく何でもあり、なのと同様に、心の姿も何でもありで配置されてゆきます。そのランダムの妙が見ものです。

解説にはいりましょう。「病犬」は「ヤマヒイヌ」の略「ヤマイヌ」で、狂犬のことです。「病犬」は舌を出し、よだれをたらし、何にでもかみつくおそろしい病気にかかった犬です。

狂犬は東南アジアの各国で今も問題になっていますが、日本にもかつてはいました。注意していると明治期の文学作品にいくらでも出て来ます。たとえば北原白秋の歌。

夏の日は病犬寝(いね)ておそろしきその門辺まで行きてかへりぬ

啄木は、今の自分が泣くとその声は狂犬が月に向かって吠えているように聞こえるだろう、とうたいます。どうして啄木の心はそんなにも激しく悶え、悲しんでいるのでしょう。

作歌が1910年(明43)10月半ばですから、当時の啄木の苦悩は推定できます。この年5月末明治天皇暗殺計画のとがで、幸徳秋水らの検挙が始まりました。大逆事件(幸徳秋水事件)です。

啄木はこの事件を根底から理解するために社会主義・無政府主義を精力的に研究します。そうして獲得した視座から、自分の生きている社会や時代を新たに考察します。そして「時代閉塞の現状」という有名な認識に到達します。

2009年3月 9日 (月)

ふるさとの父の咳する度に斯く

     

     ふるさとの父の咳する度に斯く

     咳の出づるや

     病めばはかなし

<ルビ> 咳=せき。斯く=かく。

<評釈> ふるさとの老いた父が咳をするたびに、東京にいるぼくに伝わってこうしてぼくも咳をするのだろうか。父の助けを得られない旅の空で病気になると、心細くてたまらない。

父がふるさと(つまり渋民村の宝徳寺)にいる、啄木が旅の空で病気になる、この二つの条件を満たす時期は前回にみた第1回上京時で、しかも1903年(明36)2月しかありません。

この年の1月下旬、下宿代を払わない啄木は着の身着のままで追い出されます。寒空の下で文字通りのホームレスとなります。2、3日後どうやって見つけたのか、見も知らぬ佐山という人の安下宿に20日ほど置いてもらうことになります。もちろん食事はなし。紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋とよばれるドヤ街の食堂で1日に1度か2度食いつないでいました。

満17歳になったかならぬかの頃で、今でいうと髙校2年生です。自殺をなんども考えたようです。2月の下旬でしょうか、とうとう病気になります。心身ともにやられました。

掲出歌はそのようなときの記憶をうたったものと考えられます。

負け嫌いの啄木はおめおめと帰郷するわけには行きません。老いた父が全現金収入を息子につぎ込だことを知っているので、父に援助を申し出ることはできません。でもここまで落ちてしまって思い浮かぶのは老父の助けだけです。父母もその頃音信の絶えた息子を死ぬほど心配していました。その父と子の思いをつなぐかのように・・・・咳が。

ふと咳がでたときその咳がふるさとの父の咳に似ていると思います。この咳は父が今した咳だろうか。父との絆を無意識に求めた啄木は病気の身体を横たえて(どこで?→不明。 布団は?食事は?→おそらく無い)、死んでしまいそうな心細さを感じています(病めばはかなし)。

昨年末派遣切りにあった労働者が、寮を追い出され、故郷に今さら帰るわけにも行かないし、と寒空の下で語るのをテレビで聞きました。100年を隔てて、事情こそ違え、数知れぬ啄木が突如出現したかのようでした。

きょう(3/9)の朝日新聞34面に河合真帆記者の記事が載っています。ホームレス歌人・公田耕一さんのことが書かれていました。かなり年輩の方のようですが、氏のつぎの歌も引かれていました。

胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る。

2009年3月 8日 (日)

飄然と家を出でては

     

     飄然と家を出でては

     飄然と帰りし癖よ

     友はわらへど

<ルビ> 飄然=へうぜん。出で=いで。

<評釈> 夢を追って家を飛び出しては大失敗し、そのたびに父に計り知れない迷惑をかけ、結局は飄然と家に帰ってくるしかなかったわたしの悪い癖。友はあざ笑ったけれど、でも、ああなるほかは無かったのだ。

ページをめくると父関係の歌が10ページに2首。

この歌も「父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら」のうちの1首です。啄木には飄然と(=ふらりと)家を出て、ふらりと家に帰ってきた経験は2度あります。

1度目は1902年(明35)10月末盛岡中学を中退しての上京。この時啄木は「飄然」というよりも「昂然」として旅立ちました。父は曹洞宗の総本山に納入すべき宗費をすべて息子の中学退学までの学費に使い込んでいました。卒業すれば働いてくれるはずが、退学して上京。もちろん送金など思いも寄らないこと。

翌年1月に、啄木は下宿を着の身着のままで追い出されて文字通りホームレスになります。そして病気に。2月末息子からの手紙に仰天した父が迎えに来て、帰郷。この時は「飄然」を通り越して「悄然」として帰ってきました。

2度目は1904年(明37)10月末の上京。この度は詩集の出版が目的でした。金はほとんど持たず、借金やパトロンづくりでしのぐつもり。この時の上京は「飄然」がよく当てはまります。年末父一禎は宗費滞納のため宝徳寺住職を罷免処分され、翌年3月一家は寺を出て、路頭に迷います。いつかはそうなると知っていても、目を逸らせて来た啄木ですが、父の失職が現実になると真実うろたえます。「ああ我は大罪人になりぬ」(金田一京助あて手紙)と嘆きます。

首尾よく第1詩集『あこがれ』の出版にこぎつけますが、売れず。印税で父母と妹と新妻を養うはずが、当てはずれ。結局自分の結婚式を欠席し、ほとぼりの冷めた頃「飄然と」父母妹と新妻の待つ新居に「帰って」来ます。

こうして掲出歌は父に関わる記憶と不可分の歌なのです。

2度の上京・帰郷では多くの友の嘲笑を買い、また批難を受けます。が、当人としては文学のデーモンに取り憑かれてやむにやまれずやったのです。

でもふり返ってみると、友が笑うのも分かるし、ほかにやりようがあったかと言えば無かったのだし、ということになります。

挙げ句の果てに渋民村の小学校で月給8円の代用教員に。その時の赤貧洗うが如き生活の一端がこううたわれます。

わが父が蝋燭をもて蚊をやくと一夜寝ざりしこと夢となれ

ついには口減らしのために父は家出し、野辺地常光寺の葛原対月(一禎の師僧で妻カツの長兄)を頼ります。

わが父は六十にして家を出で師僧の許に聴聞ぞする

息子のために宝徳寺住職という生活の安泰を棒に振った父。嘆くが何もできない息子。啄木が文学者・思想家として飛躍するためには、父の犠牲も必要だったということになります。

2009年3月 6日 (金)

たはむれに母を背負ひて

     たはむれに母を背負ひて

     そのあまり軽きに泣きて

     三歩あゆまず

<ルビ> 軽き=かろき。

<評釈> 母が年とって小さくなった現実・ひどく苦労をかけて来た事実から、目を背けて来たのだけれど、うっかりふざけて母をおぶったところ、そのあまりの軽さが私の背中に伝えた。母は老いた、痩せて小さくなった、ここに至るまでにどんなに苦労をかけたことか、いかに大きな恩愛を受けたことかと。一歩二歩、涙がこぼれてもう動けない。

この歌も「父母のことを歌ふ歌四十首、泣きながら」のうちの1首です。この歌の前にある2首を引いてみます。

我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ

母カツは虚弱だった幼い息子の健康を祈って好物の卵と鶏肉を生涯絶ったといいます。息子の健康と出世のためなら、できることはなんでもしました。しかし貧乏の度はひどくなるばかり。息子は息子で筆一本で稼いで、すぐに金を送るからと言って上京しましたが、書いた小説は金にならない。息子を信じる母は今日も郵便配達が為替を持ってきてくれるのを待って門口に待っているのだろうか、とうたうのです。

百二百さるはした金何かあるかくいふ我を信ずるや母

啄木の妹光子の話によると、啄木は「いつも大きな法螺を吹いて、今にも百万長者になってみせるかのようなことばかりいって(母を)なぐさめたり、なだめたりしているのであった」といいます。歌の「百二百」は百円二百円だから今の金でいうと「百万二百万」です。(1909年の「ローマ字日記」の頃までの)啄木は自分自身の言うことのどこまでがほんとでどこまでがホラか分からない人でした。都合のわるいことからは目をそむけ、夢ばっかりを追う青年でした

啄木は母が歳をとった、ずいぶん痩せてきた、身体が小さくなった、苦労をかけすぎた、等々と日ごろ感じていたはずです。ここからが当時の啄木です。現実から目を背けるのです。見えていても見ないのです。聞こえていても聞かないのです。母はいつまでも自分に尽くしてくれる、自分を存分に甘やかしてくれる、頼りになるずっしりとした存在だと思おうとするのです。

ところが、うっかりふざけて母をおんぶすると、啄木の「背中が」母の現実を「見て」しまいます。目を逸らせるも何もありません。「老いた母のあまりの軽さ」が母の今と、これまでに掛けてきた苦労と、はかりしれない恩愛とを一瞬にして知らせたのです。涙がこぼれ、一歩二歩歩いたまま動けなくなったのです。

人間には親との立場が逆転するときが必ず訪れます。扶養し、面倒をみてくれた親が、逆に面倒を見、介護し、あるいは扶養して上げるべき存在に突然変わるのです。わたくしも母との間が逆転した21歳の夏をはっきりと覚えています。

それにしても啄木の歌のなんと感覚的劇的衝撃的なことよ。

こうして8、9ページ見開きの母の歌が終わります。9ページをめくると・・・・・。

2009年3月 4日 (水)

燈影なき室に我あり

     

     燈影なき室に我あり

     父と母

     壁のなかより杖つきて出づ

<ルビ> 燈影=ほかげ。室=しつ。出づ=いづ。

<語意> 燈影=ここでは石油ランプの光。

<評釈> ランプの明かりも消した下宿の部屋にぼくはいる。と、父と母が杖をついて壁の中から自分の方に向かって歩いてくる。

「大海にむかひて一人」の歌の時にも書きましたが、1908年(明41)6月25日夜、前夜に引き続いて啄木に歌の奔流が起こりました。「頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ」(日記)という状態です。

風のごととらへがたなき少女子の心を射むとわれ弓をとる

で始まり、90首目近くでは

我は今のこる最後の一本の煙草を把りてつくづくと見る

を作ります。まさに「何を見ても何を聞いても皆歌」の状態です。

そして「父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら」という状態にうつります(40首では「父母」の外に妻子のことも7首うたっており「父母妻子のこと」という方が正確)。その最初の歌が掲出歌です。

堰を切ったように父母妻子のことをうたい出したのは、長男・夫・父としての扶養義務をほとんど何も果たさず、苦労ばかりかけていることに重い自責の念を覚えているからです。啄木は今売れる小説を書いて父母妻子を養おうとしていますが、そういう小説は絶望的に書けません。(テキスト「解題」の「啄木略伝」参照) そのため歌の奔流がおこり、そのため自責の念に苦しめられるのです。上記「四十首」中に

津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子

という歌がありますが、当時父一禎は青森県野辺地の寺で食べらせてもらっています。母は北海道函館で嫁節子・孫京子とともに宮崎郁雨の世話になっています。自分は東京で小説を書けなくて絶望的になっています。

そんな日々の東京本郷の下宿の一部屋に、明かりを消してひとり居ると幻想が浮かびます。津軽海峡をはさんで向き合う野辺地と函館に暮らす父と母が、ますます老いて杖をつき、長男の自分を頼って歩いてくるのです、壁の中から。

現代は年金・退職金や諸社会保障によって暮らす父母が多く、子どもは昔ほど父母の扶養に心を砕かずにすみます。しかし1800万人とも言われる非正規労働者をはじめ、現代の若い世代は自分たちの老後にたいへんな不安を抱えています。小泉自民党と財界によって日本経済の根底部分に穴を空けられたせいです。

非正規労働者1800万人の世代は、父母の老後と自分の老後の不安を同時に抱え込んでいます。啄木の自責の念と悲しみは姿を変えて迫って来るようです。

2009年3月 2日 (月)

ひと塊の土に涎し

     ひと塊の土に涎し

     泣く母の肖顔つくりぬ

     かなしくもあるか

<ルビ> ひと塊=ひとくれ。涎=よだれ。肖顔=にがほ。

<評釈> ひとかたまりの土に唾を落として軟らかくし、泣く母の似顔を作った。母に申し訳ないとも思う。自分が不甲斐ないとも思う。またこんなことをしている自分をどうしようもなく情けないとも思う。

昔の日本ではしっとりと湿った「土」が至るところにあったように思います。そのひとかたまりに唾を垂らしたのです。「つばきし」としないで「よだれし」としたのは、「唾を吐く」という言い方には相手(ここでは母)を侮蔑する意味も含まれるからでしょう。

「かなしくもあるか」は「かなしくあるかな」とちがって、複雑な感情のうちの1つをあえて取り出すと、「かなし」という感情でもあるか、というニュアンス。52ページ左に

誰が見てもとりどころなき男来て/威張りて帰りぬ/かなしくもあるか

とありますが、この「かなしくもあるか」です。

親に心配をかけ申し訳ないとも、情けないとも、なんとかしなくてはとも、思うのだけれど、現状を抜け出せない自分。その自分を自分の他愛のない行為の中に見出したかなしさ。親を思い出させるものは、街頭、電車の中、テレビの場面、友人との会話、至るところにあります。すべては「泣く母の肖顔」にかわります。

2009年3月 1日 (日)

目さまして猶起き出でぬ児の癖は

     

     目さまして猶起き出でぬ児の癖は

     かなしき癖ぞ

     母よ咎むな

<ルビ> 出でぬ=いでぬ。児=こ。咎む=とがむ。

<評釈> 目をさましていながら、布団の中でぐずぐずしている息子の癖は、ぼく自身どうにもならない癖なんだから、母さんあんまりとがめないで。

「死ぬことをやめて」家に帰って来た(7ページ)、そしてページをめくると、家での日常生活が始まるという趣向です。8、9ページの見開き4首は母の歌です。

「母」は名前をカツといいます。江戸時代の弘化4年(1847年)生まれ。啄木を生んだときはすでに満39歳に近く、高齢出産。初めての男の子で、病弱で、可愛い顔をしていて、とびぬけて頭のいい一人息子をカツは生涯溺愛します。

この歌が出来たのは1910年(明43)3月20日前後のことと思われます。啄木調と呼ばれることになる啄木の独創的な短歌はまさにこの3月に誕生しました。

啄木は当時サラリーマンで東京朝日新聞社の編集局にいて校正係をやっていました。校正係の仕事は昼の12時からから夕方6時ころまで(その外に夜勤もあり)。

この頃の啄木は勤めを第1とし、文学の仕事はその下に位置づけて家に帰ってからやっていました。盛岡中学4年の時文学にのめり込んで以来、啄木の生活パターンは典型的な夜型となります。明け方まで読んだり書いたりするのはざらだったようです。

「一(はじめ-啄木の名前)はどうしてこう寝起きが悪いんだろう」と小言を言っている母カツはこの時満63歳。「人生五十年」と言われた当時にあっては完全なお婆さんです。

息子は満24歳。当時にあっては完全に一人前の男です。しかも家には父一禎、妻節子、娘京子がいます。

啄木は事実上の家長ですが、家事をしきっているのは妻節子ではなくて、母カツのようです。この家庭の複雑な人間関係、母カツと息子啄木の現在では考えられないような深い関係もうかがわれる歌です。

「かなし」は岩波古語辞典の解説文に「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語」とありますが、啄木の「かなし」は常にこの基本的な意味をふまえています。「悲しい」という字の当てはまらない例が多いです。掲出歌の「かなしき」も「どうしようもなく切ない」といった意味でしょう。  

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