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2009年3月24日 (火)

愛犬の耳斬りてみぬ

     

     愛犬の耳斬りてみぬ

     あはれこれも

     物に倦みたる心にかあらむ

<ルビ> 斬り=きり。倦み=うみ。

<評釈> 後ろにまわします。

これも簡単なようで厄介な歌です。

「愛犬」とありますが、啄木が犬を飼った記録は生涯を通じてありません(犬は好きだったようですが)。

この歌は1909年(明42)4月下旬の作です。そのころの啄木は下宿代を払わないので、ひどい待遇を受けながらようやっと食べていました。犬を飼うなんて夢想もできない境遇です。したがって最初の1行はまったくのフィクションです。

「斬」の字義からすると、(耳を)すっぱり切りはなしたことになります。空想上の行為としても、啄木がそんな残酷なことをするはずがありません。啄木に関する全データはそういう解釈を拒否しています。どう解釈したらよいのか?

明治時代の辞書『言海』の「きる」に、「刃物を動物に当ツ。斬」とあり、『辞林』にも「刃物を動物の体躯に加ふ。(斬)」とあります。「斬る」の字を啄木が用いたのは対象が犬だったからでしょう。

さらに「きる」には(ナイフなどで指を)「あ、切っちゃった」のように「刃物などで傷をつける」の意味があります(新潮現代国語辞典)。

かくて「愛犬の耳斬りてみぬ」は愛犬の耳を刃物で傷つけてしまった、の意味となります。

「倦む」は今までの状態や行為を続ける気がしなくなる、の意。作歌時の啄木に即して言えば、売れる小説を書こうと上京して、丸1年。奮闘虚しく、現時点では書けないことが決定的です。その絶望的苦悩を書きつづっているのが、ローマ字日記です。

書けなくて書けなくて、とうとう何もかもやる気が無くなった(物に倦みたる)状態、それがうたわれているわけです。したがってこの歌の眼目は「物に倦みたる心」にあります。

<評釈> 愛犬の耳を刃物で傷つけてしまった。ああ、こんなひどい馬鹿なことをことをするのも、何にもする気が無くなった心のせいだろうか。

人は色々な事情で倦みます。そんなとき些細な馬鹿げたことしか、することがなくなります。啄木が(空想で)愛犬の耳を傷つけたように。

自暴自棄の歌のようですが、よく考えてみると、8年間にわたる奮闘、挫折、再起の連続の中で(テキストの「啄木略伝」参照)ここに至ったわけです。そしてこの1年後に『一握の砂』の啄木になって行くのですから、啄木でもこんなに「倦んだことがあったのか」とむしろ励ましになる歌でもあります。

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