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2009年3月14日 (土)

何処やらむかすかに虫のなくごとき

     何処やらむかすかに虫のなくごとき

     こころ細さを

     今日もおぼゆる

<ルビ> 何処=いづく。細さ=ぼそさ。

<語意> 何処やらむ=どこだろうか。

<評釈> 何処で鳴いているのだろうと思いながら、かすかな虫の音を聞いたことがある。秋の末の今にも絶え入りそうな虫の音だ。あれを聞いたときのような、自分という存在に対する頼りなさを、今日も感じることだ。

非常に解釈の簡単な歌だと思っていました。たとえば、50年昔の自分の経験に照らして考えていました。

北海道の旭川東高から東大に入学したのはいいけれど、周りに非常に優秀な人が多く、自信を失いました。しまいには巨大な深いすり鉢状の谷の底に1人いて、星を仰いでいるような孤独を感じました。この歌の「こころ細さ」はそういう孤独のこころ細さだろうと思ったのです。

しかし解説にあたり作歌時期を確認すると、1910年(明43)5月作でした。この5月というのは啄木が思想上の最後の悩みを悩んでいた時でした。

社会主義思想に強く惹きつけられていました。しかしもしも自分が社会主義者になったら、弾圧、逮捕、投獄も覚悟しなくてはなりません。「怖い」と思います。

当時の日本では社会主義運動は弾圧されてすっかり沈滞していました。幸徳秋水は湯河原に引っ込んで著述の仕事をしていました(間もなく大逆事件で逮捕されます)。かれを取り巻いていた4人のうち2人は逮捕・拘禁中、2人は動向すら不明です。もう1人の指導的社会主義者堺利彦とその同志たちは赤旗事件で獄中にあります。

どんな生物も自己保存の本能の下で生きています。怖い、自分と家族をまもりたい、と思うのは当然です。誠実な石川啄木はその自分を責めます。

自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然(あはれ)さを心ゆく許(ばか)り嘲つてみるのは其の時だ(エッセー「硝子窓」)、と。

啄木が「自分」というときは、肉体としての自分ではなく肉体に宿る心や思想を指していました。その「自分」という存在の頼りなさ(→こころ細さ)を今日も感じる、というのです。

以上のように解釈してみました。しかしこの歌に詠まれたような感覚は自分に即して色々に読み替えることができましょう。

私が冒頭に書いたような受けとり方もいいでしょう。

単位を落として留年せざるを得なくなったとき、派遣切りにあって路頭に迷ったとき、将来の老後の生活を考えたとき、自分の認知症を心配するとき(私の場合)など、「こころ細さを今日もおぼゆる」種は尽きません。

この歌は単純なようで複雑です。そして普遍性があります。

11ページが終わりました。めくると啄木はどんな歌を用意しているでしょう。

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