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2009年3月 8日 (日)

飄然と家を出でては

     

     飄然と家を出でては

     飄然と帰りし癖よ

     友はわらへど

<ルビ> 飄然=へうぜん。出で=いで。

<評釈> 夢を追って家を飛び出しては大失敗し、そのたびに父に計り知れない迷惑をかけ、結局は飄然と家に帰ってくるしかなかったわたしの悪い癖。友はあざ笑ったけれど、でも、ああなるほかは無かったのだ。

ページをめくると父関係の歌が10ページに2首。

この歌も「父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら」のうちの1首です。啄木には飄然と(=ふらりと)家を出て、ふらりと家に帰ってきた経験は2度あります。

1度目は1902年(明35)10月末盛岡中学を中退しての上京。この時啄木は「飄然」というよりも「昂然」として旅立ちました。父は曹洞宗の総本山に納入すべき宗費をすべて息子の中学退学までの学費に使い込んでいました。卒業すれば働いてくれるはずが、退学して上京。もちろん送金など思いも寄らないこと。

翌年1月に、啄木は下宿を着の身着のままで追い出されて文字通りホームレスになります。そして病気に。2月末息子からの手紙に仰天した父が迎えに来て、帰郷。この時は「飄然」を通り越して「悄然」として帰ってきました。

2度目は1904年(明37)10月末の上京。この度は詩集の出版が目的でした。金はほとんど持たず、借金やパトロンづくりでしのぐつもり。この時の上京は「飄然」がよく当てはまります。年末父一禎は宗費滞納のため宝徳寺住職を罷免処分され、翌年3月一家は寺を出て、路頭に迷います。いつかはそうなると知っていても、目を逸らせて来た啄木ですが、父の失職が現実になると真実うろたえます。「ああ我は大罪人になりぬ」(金田一京助あて手紙)と嘆きます。

首尾よく第1詩集『あこがれ』の出版にこぎつけますが、売れず。印税で父母と妹と新妻を養うはずが、当てはずれ。結局自分の結婚式を欠席し、ほとぼりの冷めた頃「飄然と」父母妹と新妻の待つ新居に「帰って」来ます。

こうして掲出歌は父に関わる記憶と不可分の歌なのです。

2度の上京・帰郷では多くの友の嘲笑を買い、また批難を受けます。が、当人としては文学のデーモンに取り憑かれてやむにやまれずやったのです。

でもふり返ってみると、友が笑うのも分かるし、ほかにやりようがあったかと言えば無かったのだし、ということになります。

挙げ句の果てに渋民村の小学校で月給8円の代用教員に。その時の赤貧洗うが如き生活の一端がこううたわれます。

わが父が蝋燭をもて蚊をやくと一夜寝ざりしこと夢となれ

ついには口減らしのために父は家出し、野辺地常光寺の葛原対月(一禎の師僧で妻カツの長兄)を頼ります。

わが父は六十にして家を出で師僧の許に聴聞ぞする

息子のために宝徳寺住職という生活の安泰を棒に振った父。嘆くが何もできない息子。啄木が文学者・思想家として飛躍するためには、父の犠牲も必要だったということになります。

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