« こみ合へる電車の隅に | トップページ | 愛犬の耳斬りてみぬ »

2009年3月22日 (日)

浅草の夜のにぎはひに

     

     浅草の夜のにぎはひに

     まぎれ入り

     まぎれ出で来しさびしき心

<ルビ> 夜=よ。入り=いり。出で=いで。来し=きし。

<評釈> 浅草の夜の活動写真館のぎっしり詰まった人込みに、この世の憂さ・人間関係の煩わしさを忘れに行って、活動写真が終わってしまうとまた憂さ・煩わしさがもどって、人込みを出て来たあのさびしい心よ。

浅草は当時(20世紀初め)東京第一の繁華街。特に浅草六区には芝居小屋や映画館が立ち並び人を集めていました。その映画館通りの突き当たりには凌雲閣という煉瓦造りの高層建築(約52m)があり、浅草のシンボルでした。その建物下の迷路のような小路は私娼窟でした(啄木は塔下苑と名づけました)。

啄木がしきりに浅草を徘徊したのは1908年(明41)秋から翌9年6月1日まで。この間の日記によると、「浅草の夜のにぎはひ」は街頭の人通りではなく、「活動写真」館すなわち当時の映画館の中を指します。

小説が書けなくて苦しんだあげく、かれは「人のいない所へ行きたい」と願い、それができないなら逆に「この考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所――活動写真へ行く」と記しています(ローマ字日記)。

「夜のにぎはひ」を出た啄木の足は塔下苑に向かうのが常でした。

ところでこの歌の初出は東京朝日新聞1910年3月18日。もう活動写真を見には行っても「塔下苑通い」はしなくなってから作った歌です。

10年3月13日宮崎郁雨あての手紙によると、啄木は家族や職場の人間関係を最優先していると、自分の創作・思索活動が犠牲になってしまうことに気づき、また「急にこの世から逃出」したくなっています。

同年5月末起稿の小説「我等の一団と彼」では高橋彦太郎という記者つまり勤め人に「活動写真」を次のように語らせます。

彼処(あそこ)には何百人といふ人間が、彼の通りぎつしり詰まつてゐるが、奴等――と言つちや失敬だな――彼の人達には第一批評といふものが無い。損得の打算も無い。各自(めいめい)急がしい用を有つた人達にや違ひないが、彼処へ来るとすつかりそれを忘れて、ただもう安い値を払つた楽しみを思ふさま味はうとしてゐる。・・・・つまり(活動写真のありがたみは)批評の無い場処だといふところにあるさ。

手紙と小説を合わせて考えると、歌の「夜のにぎはひ」に行く人達は主として啄木のような「急がしい用を有つた人達」。目的はこの世の憂さ・煩わしさを一時忘れるため、ということになります。

つまりこの歌はローマ字日記時代の啄木と、もっと広く啄木のような勤め人を含む「急がしい用を有つた人達」の心をも重ねてうたったものなのです。それは現代の労働者~サラリーマンにも通じる心でしょう。

このようにして12、13ページの見開き4首は勤め人シリーズでありうるわけです。

« こみ合へる電車の隅に | トップページ | 愛犬の耳斬りてみぬ »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/44415646

この記事へのトラックバック一覧です: 浅草の夜のにぎはひに:

« こみ合へる電車の隅に | トップページ | 愛犬の耳斬りてみぬ »