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2009年3月26日 (木)

鏡とり

     

     鏡とり

     能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ

     泣き飽きし時

<ルビ> 能ふ=あたふ。

<語意> 能ふ=できる。

<評釈> 鏡を手にとって、自分の顔で百面相をして写して見た。もう泣くのに飽きた時に。

1908年(明41)11月19日に作り、その後3つの雑誌に載せて、最後に『一握の砂』にこうして入れました。啄木得意の作のようです。

考えてみるといかにも啄木らしい歌です。悲しくて泣いているうちに泣くことに飽きた、という心理は、言われてみれば「あ、そんなこと自分にもあった」と気づきますが、それを言葉にして取り出すことは誰にもできませんでした。

そのあと鏡を手にとって、怒った顔、笑い顔、すまし顔、すねた顔、しかめ面、恋人向けの顔、今少し前の泣き顔などなどをやって、眺めている場面はユーモラスでもあり、おどろきでもあります。だいたい自分の顔ってそんなに長いこと眺めていられるものでしょうか。

啄木が自己批評の達人であることは定評のあるところですが、自己批評は主として自己の内面に関しておこなうものです。その達人がここでは、自分の顔を自分で見物して楽しんでいるわけです。

しかしよく考えてみると、鏡に写したどの顔も自分の心理の表現です。結局は自分の百面相を通じて自分の心の百面相をながめて楽しんでいることになります。

そして、歌人啄木がそういう自分を離れたところから眺めていて、歌にしているわけです。これもまた自己批評です。

啄木の短歌は単純なようで複雑です。石川啄木その人も純粋で複雑です。

大岡信氏はかつて啄木短歌の特質の1つとして「ユーモア」を挙げましたが、あざやかな指摘です(「石川啄木のユーモア」)。氏が例としてあげた5首中の1首はつぎの歌です。不治の病にあったときの作品です(『悲しき玩具』所収)。

   ある日、ふと、やまひを忘れ、

   牛の啼く真似をしてみぬ、――

    妻子の留守に。

この人のユーモアは、読者におどろきと共感と慰藉とを風のように送ってきます。

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コメント

ブログ開設、おめでとう御座います。
丁寧な開設、皆さんに喜ばれることでしょう。
僕の、啄木のホームページからリンクしました。
よろしくお願いします。

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