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2009年3月30日 (月)

呆れたる母の言葉に

     

     呆れたる母の言葉に

     気がつけば

     茶碗を箸もて敲きてありき

<ルビ> 呆れ=あきれ。茶碗=ちゃわん。箸=はし。敲き=たたき。

<評釈> あきれてたしなめる母の言葉に気がついてみると、何に浮かれたのやら、調子をとって箸で茶碗を敲いているのだった。 

啄木の「母」は南部藩士の家柄の血を引いていると言うこともあって、息子へのしつけはしっかりしていたと思われます。

与謝野晶子の思い出に次のようにありますが、この啄木は父親系ではなく、明らかに母親系が表れた啄木と思われます。

石川さんの額つきは芥川さんの額つきが清らかであったやうに清らかであった。・・・・そして石川さんには犯し難い気品が備って居た。石川さんを私は貴族趣味の人だと思ってゐる。・・・・私は幾つかの例を上げることも出来るのである。何の収入もなくて東京に居た頃、夏になってもまだこの通りに自分は袷を着て居ますが、その為めに昨日是れを一本買って来ましたと言って、白扇を帯から抜いてはたはたと使って見せた事がある。・・・・

「茶碗を箸もて敲」くは食前か食後に、空いた茶碗を調子をとって(たとえば盆踊りの太鼓の調子で)、敲いたのでしょう。「母」は怒るのではなく、あきれます。と言うことはその時の啄木は一人前の男だったということでしょう。ひょっとするとすでに妻子持ちだったかも知れません。

歌はローマ字日記時代の1909年(明42)4月の作ですが、その当時母とは同居していませんから、過去の出来事を思い出してうたっていることになります。

さて、これも心の姿をうたった歌です。知らぬ間に浮かれた心が生じた。母のあきれた言葉に気がついてみると、その浮かれ心が無意識のうちに茶碗を調子をとって敲くという姿になっていた、というわけです。

14、15ページの見開はこんな風に展開しました。

「物に倦」んだ心が「愛犬の耳斬りてみぬ」という姿をとり、「泣き飽き」た心が自己の百面相を楽しみ、「なみだ」という魔法の水が悲しい心を戯け心に変える不思議を見、最後に我知らず生じた浮かれ心の姿をとらえた、という風に。

こうなるとページをめくった時どんな歌が最初に現れるのか、気になりませんか。

お願い> いつも当ブログをご愛好いただきありがとうございます。ご愛好の方々にお願いします。ご自分の息子さんや娘さんにあるいはお孫さんに、あるいは様々の若いお知り合いに、このブログを覗いてみるよう、お勧め願えないでしょうか。40代以下の日本人の中に啄木を広めたい! これがわたくしの悲願です。

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