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2009年4月11日 (土)

ふと深き怖れを覚え

     

     ふと深き怖れを覚え

     ぢつとして

     やがて静かに臍をまさぐる

<ルビ> 臍=ほそ。

<語意> 臍=ほそ=へそ。まさぐる=いじる。

<評釈> 自分の存在の確かさは自分の心の確かさである、と少年の日から信じてきたが、その心が思いがけない変化をしてしまうものであると、最近知った。とすると心すなわち自分には中心にすべきものが無いことになる。そのことをじっと考えていると、わが手は自然に身体の中心である臍をまさぐっている。

なんの注釈もいらないと思って50数年間読んできた歌ですが、いざ向き合うとかなりむずかしかったです。

まず「深き怖れ」がわからない。さらに「怖れ」と「臍」のつながりがわからない。まる2日考えました。以下を根拠に上のように解釈しました。

1908年(明41)6月26日こんな歌を作っています(ここには「明星」7月号初出の形を載せます)。

ふと深き怖れおぼえてこの日われ泣かず笑はず窓を開かず

この怖れは、家の外身体の外から入り込んでくる邪鬼(たたりをする神)のようなものに対する怖れをイメージしていると思われます。

同じ年の8月8日~9日ではこんな歌に変わっています。

ふと深き怖れおぼえぬ昨日までひとり泣きにし我が今日を見て

この怖れは、思いがけない変化をする自分の心そのものへの怖れと思われます。「思いがけない心」は夏目漱石の小説の重要なモチーフです。大金や地位や美男美女等々を目の前にすると、ふだんは思っても見なかった心の生じるのが人間です。

掲出歌の「怖れ」は後者の怖れと思われます。啄木は自分を信じることの非常に厚い人間ですが、その「自分」とは自分の「心」を意味しています。つまり啄木は確実なはずの「自分」(=自分の心)という存在が実はまことに頼りない存在であることを自覚した時「怖れ」を抱いたのでしょう。

自分という人間の中心は何なんだ? こう考えた時手は自然に身体の中心=臍に向かったのだと思われます。

この年4月末に上京した啄木は半月後、植木貞子という魅力的な旧知の若い女性と肉体関係に入ります。貞子は朝6時半頃に啄木の枕元にやって来るようにさえなります。そうした啄木を罰するかのように函館に置いてきた満1歳半の京子が重病との知らせが入ります。愛児瀕死、必死で看護する妻の手紙、貞子との深い関係に陥っている自分。ここに至った自分の思いがけない心の動き。こうしたことが背景にあるようです。

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