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2009年4月 5日 (日)

大木の幹に耳あて

     

     大木の幹に耳あて

     小半日

     堅き皮をばむしりてありき

<語意> 小半日=ほとんど半日。

<評釈> 後ろにまわします。

啄木はこの歌がよほど気に入ったと見えて、雑誌「スバル」に2回も載せた外、国民新聞にも、短歌雑誌「創作」にも載せました。

作ったのは1909年(明42)1月で、3、4、5句が「小半時何も思はでありしをかしさ」となっています。同じ箇所の4、5句は最初「ありける日ある森に来てみぬ」でしたが抹消されています。

「大木」は森の中の大木と考えるべきでしょう。

なんのためにその大木の「幹に耳あて」ているのか。宮沢賢治は木が水を吸い上げる音を聴いていたと、何かで読んだことがありますが、この歌の作者はそうでもなさそうです。木からなにか聞いてみたいが木は何も答えてくれないようです。

「小半日」は『一握の砂』以前はすべて「小半時(こはんどき)=小一時間」(「小晌時(こはんどき)が1箇所)です。

「むしる」は「つかんで引き抜き取る」意で、「毛をむしる」「綿をむしる」のように使います。

「むしりてありき」とありますが、指や爪で大木の堅い皮をむしることは不可能です。実際には指先で木の皮を軽く引っ掻くような仕草を続けたということでしょう。

耳は何も聞かず、眼も指先を見るだけ、指も無益な動きをしているだけ、つまり何にもしていないに等しい、ということになります。

つれづれのあまり、極度につまらないことしかしなくなる、そういう人間の心理をうたった歌ということになります。

啄木はこの歌を『一握の砂』に収める時に「一時間近く」を「半日近く」にあらためました。つれづれなるままに、極度につまらないことを延々と小半日もやった、と変えたわけです。

17ページ右の歌では「森の奥」で誰かが自殺したとうたい、左の歌では自分が森の中でつまらなーい事をしていたとうたいます。対象の妙となっています。

<評釈> ぼくはある日森の中に行き、大木の幹に耳をあて、ほとんど半日の間堅い木の皮を指でいじりながら、ぼんやりと過ごした。森の中でピストル自殺した人もあるのだが。

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