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2009年4月 8日 (水)

まれにある

     まれにある

     この平なる心には

     時計の鳴るもおもしろく聴く

<ルビ> 平=たひら。

<語意> 平なる=安らいだ。時計の鳴る=時計が時間を刻む音。昔の時計はゼンマイ式でカチカチカチ(目覚まし時計)とかカッチンカッチンカッチン(柱時計)と時を刻む音をさせていた。

<評釈> まれに生じるこの安らいだ心の場合には、日ごろは私を急(せ)き立ていらいらさせる時計の音も、おもしろく聴けるのである。

上田博氏の鑑賞を引かせていただきます。

歌集名と同じエッセイ「一握の砂」(明40・9)にシェークスピアの言として「予は時を浪費せり、今や時、予を浪費せむとす」を引いて、時間に脅迫される心の焦燥を告白している。時間は近代に入って時計の時間に矮小化され、時間は人間の外側にあって、人間を疎外する。 

稀に訪れてきた「平なる心」によって、自分を急き立てる時間を向こうに押し遣って眺めてみれば、時を刻む音も<音>として面白く聴かれるのである。

まことに行き届いた鑑賞です。

われわれは職場でも学校でも家でも時間に追われます。一番やすらぐ家にいてさえ、テレビのあの番組は何時からだとか、そのつぎは何を観るのだとか、誰に何時に電話するのだったとか、ひっきりなしに時間から時間へ渡り歩きます。いや、走っていると言った方が適切でしょう。

啄木が稀に訪れた心の状態を意識しつかまえたその意識力に感心すると同時に、われわれもまた安らぎの時を大切に意識したいものです。

この歌は1910年(明43)3月のものです。前年秋に大変身した啄木は、この3月から4月にかけて啄木調短歌を創始します。

木股知史氏はこの歌について「何げないが、瞬間訪れる心の平穏は、明治四十三年春の啄木の歌境が発見したのものである」と言っておられます。

テキストの18ページで見ると、右に置かれた死ぬか生きるかの「止せ止せ問答」とは対照的な安らいだ心の歌が左に配置されていることになります。

わたくしが常時参照している岩城之徳・今井泰子・上田博・木股知史各氏の出典は3月15日の「いと暗き」のページに挙げてあります。

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