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2009年4月23日 (木)

高山のいただきに登り

     

     高山のいただきに登り

     なにがなしに帽子をふりて

     下り来しかな

<ルビ> 高山=たかやま。下り来し=くだりきし。

<解釈> 高い山の頂上に登り、折角登ったのに、何というわけもなく下界に向かって帽子を振っただけで、下ってきたのだった。おかしな心のあり方よ。

ひどく簡単に見えてひどくむずかしい歌です。何をうたった歌なのか、このブログ中断中の10日間考えました。

「高山」は文字通り高い山。となると思う浮かぶのは啄木16歳の時の歌です。

岩を踏みて天の装ひ地のひびき朝の光の陸奥(ミチノク)を見る。(岩手山に登る)

「高山」には岩手山のイメージがこめられていると思われます。

国文学者・歌人折口信夫はこの歌を非常に高く買っていてこう述べています。

・・・・若い人の山登りには、別に目的はない。だから登つて、そのまま下つて来るのが当然なのだ。しかし、かういふ風に、啄木が言つてみると、何か相当な問題に触れたやうな気がする。・・・・つまり啄木が、新しい発見をしたのだ、心の底にひそんでゐる微動を捉へることができたのだと、おどろいたものだ。

折口はこの歌に「心の底にひそんでゐる微動」を見ているわけです。どんな「微動」を? これがまた分かりにくい。啄木のここ一連の歌の流れから言えば「心」をうたってきているわけですから、折口の評釈はきわめて魅力的です。

以下にわたくしの評釈を記します。

人は息を弾ませ、汗を流して山道を登ります、頂上をめざして。頂上に着くと、到達の喜びや絶景を眺め、にぎりめしを頬ばる等の喜びがあります。しかし他方で山道を下りなければならない事実が厳然としてあります。一面では頂上は通過点でしかないのです。そう思った時頭の中をよぎる「あっけなさ」の感じ、これを啄木は「訳もなく帽子を振る」という行為で表現したのだと、思います。

4月17日(日本時間)、イチローは張本勳の日本最多安打記録を抜いて、日米通算3068本を記録しました。その時のイチローの談話につぎのようにありました。

単純に、張本さんが頂から見ていた景色がどんなものかを感じてみたかった。今日、あのヒットで頂に登ったんですが、すごく晴れやかで、いい景色だった。すばらしいものでした。

この時のイチローにはもう一つの心が動いていたはずです。この頂はつぎのヒット、つぎの記録への通過点でしかない、という心が。

啄木がうたったのはこの心の方で、折口が「心の底にひそんでゐる微動」と言ったものではないかと思います。ここでページがめくられ、20ページに行きます。

わたくしの参考文献を追加します。『日本の詩歌 5 石川啄木』(中央公論社、1967年)の山本健吉の「鑑賞」です。

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