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2009年4月 6日 (月)

「さばかりの事に死ぬるや」

     「さばかりの事に死ぬるや」

     「さばかりの事に生くるや」

     止せ止せ問答

<語意> さばかり=それだけ。

<評釈> 「そんなつまらない事で死ぬのか。いや生きていよう。」「そんなつまらない事のために生きているのか。いや死のう。」 ある日のぼくの心が繰り広げる、はてしなき止せ止せ問答。

初出が「スバル」1909年(明42)5月号の「莫復問」ですからローマ字日記時代のもの(おそらく4月22日か23日の作)。小説が書けない、金が無い、老母妻子が上京すると言ってきた。以下はその追いつめられた苦しみの中で記した4月16日の日記です。

泣きたい! 真に泣きたい! 「断然文学を止めよう。」と一人で言ってみた。「止めて、どうする? 何をする?」 「Death(死)」と答えるほかはないのだ。実際予は何をすればよいのだ? 予のすることは何かあるのだろうか? 

いっそ田舎の新聞へでも行こうか! しかし行ったとてやはり家族を呼ぶ金は容易に出来そうもない。そんなら、予の第一の問題は家族のことか? 

とにかく問題は一つだ。いかにして生活の責任の重さを感じないようになろうか?――これだ。

金を自分が持つか、然らずんば、責任を解除してもらうか、二つに一つ。

おそらく、予は死ぬまでこの問題をしょって行かねばならぬだろう! とにかく寝てから考えよう。(夜一時。)

こうした心の姿を32文字に圧縮したのが掲出歌と思われます。

啄木は短い人生のうちに、生きるか死ぬかの悩みを幾度となく経験しました。もっとも深く激しかったのがローマ字日記の時代。これもその1つです。

最後の1文をもう1度ご覧ください。「とにかく寝てから考えよう」でむすばれています。なんとなくユーモラスです。これが石川啄木です。

かれは自己を信じることの厚く、他人を信じることの厚い人間でした。だから止せ止せ問答の結果は決まって「生きる」です。

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