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2009年5月

2009年5月30日 (土)

雨降れば

     雨降れば

     わが家の人誰も誰も沈める顔す

     雨霽れよかし

<ルビ> (わが)家=(わが)いへ。誰も誰も=たれもたれも。霽れ=はれ。

<解釈> 家族関係がむずかしく、普段から気持ちの沈み勝ちのわが家だが、今日はだれもだれも沈んだ顔をしている。きっと雨が降っているせいに違いない。雨よどうか霽れてくれ。みんなの顔も晴れるかもしれないから。

この歌を作ったのは1910年(明43)5月10日前後と見ていいでしょう。そのころの石川啄木家は、本郷弓町の床屋喜之床(新井方)の2階に住んでいたこと、すでに述べたとおりです。

前年末には父一禎も青森県野辺地の師僧(母カツの兄)のもとを離れ、上京していました。したがって一家の構成は一禎・カツ・啄木・節子・京子の5人。2階の6畳2間に5人家族はいかにも窮屈でしょう。

10年1月18日節子は宮崎郁雨と結婚した妹ふきに手紙でこう書いています。

父が上京して一家五人、婆さんは相変らず皮肉でいや味たつぷりよ。私は年取つてもあんな婆さんにはなるまいと思ふて居ります。父は酒を毎晩ほしがるし、仲々質屋と縁をきる事はむづかしい様ですよ。何時も何時もピーピーよ。

前年10月に妻節子が京子を連れて家出し、もどってからは啄木夫婦の間にもすきま風が吹いています。妻と母は相変わらず不和です。

一禎は坊さんの仕事以外は何にもできぬ人。その人が寺を離れてしまっては陸に上がった老河童も同然でした。資本主義が全面的に展開し始めた日本の、その中心の東京に東北地方の外れから出てくると、その存在はもう場違いで喜劇的でした。

京子は3歳半で動き回り遊びたい年頃。

おそらくこの一家は不和が日常的で、和が非日常的だったようです。一家の主として啄木は日ごろ心を痛めていたのでしょう。雨の降る降らないは本質的なことではありません。でも家族の顔が雨の日は特に暗くなるように思います。霽れると明るくなるような希望を覚えます。

啄木は家族の和を願いながら、それがきわめてむずかしいことを認識し、その上で強いて、家族の浮かぬ顔つきを雨のせいに、霽れても実情は変わらないのに、変わるように(よくなるように)思いなして、上の歌を作ったのでしょう。

家族の和を願う心の姿がうたわれています。

2009年5月27日 (水)

こころよく(人を讃めて)

     こころよく

     人を讃めてみたくなりにけり

     利己の心に倦めるさびしさ

<ルビ> 讃めて=ほめて。倦める=うめる。

<語意> 倦める=くたびれてしまった。

<解釈> 気持ちよく他人を賞讃してみたくなってしまったなあ。讃めている時というのは、その人のことだけで自分のことは考えていない時だもの。現実の自分はどうかと言えば、家族のために脇目もふらず働いているけれど、小説を書く時間が欲しいという思い(利己の心)が強烈で、これを押さえ込むだけでくたくただ。独り心の中でこんなことを悩んでいるさびしさ!

「利己」について。作歌が1910年(明43)3月中旬(推定)であることと歌の文脈上の位置とから推して、「かなしきは飽くなき利己の一念」の歌の「利己」とは内容のちがう「利己」です。

10年1月9日の大島経男あての手紙と3月13日宮崎郁雨あての手紙が当時の啄木の「利己の心」を解説してくれます。

まとめると、09年(明42)秋(妻の家出前後)以来、啄木は自分の文学(小説創作)上の仕事を脇に置きました。そして一家5人(老父母と妻子と自分)のために稼ぎます。

私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツト安易にするだけの金をとる為に働らいてゐます(大島宛手紙)

しかし小説執筆に専念したいという心(これを啄木は「利己の心」と呼びます)が「頭のスキ」に入り込んできて困ります。この心が入り込んでこないようにするために、エネルギーを使い果たしてくたくたになります(「倦める」状態です)。常人には分からない悩みですが、文学のデーモンが啄木の中に住んで突き動かしているのです。

こうして「利己の心」をへとへとになるまで押さえつけますが、それは啄木内面の孤独な営みです。だから「さびしさ」に行き着くのです。

以上が「利己の心に倦めるさびしさ」です。

ところで「こころよく人を讃め」る時の心理状態とはどんな状態か考えてみて下さい。「こころよく人を讃め」ている時、人は自分のことからはすっかり解放されています。つまり「利己の心」からすっかり解放されているのです。

したがって「こころよく人を讃めてみたくなり」たい、とは自分のことからはすっかり解放された状態になりたい、との意味になります。

家族のために職業としての仕事に全エネルギーを注ぎ、自分が真に打ち込みたいことからは疎外される毎日。打ち込みたい事を持っている人にとってはつらいことです。しかしそれを「利己の心」であると責め、くたくたになってさびしくなるまで責める啄木は自分にも家族(ひいてはすべての人)にもきわめて誠実な人間です。

ここに「かなしきは飽くなき利己の一念」の歌とつなぐものが見えています。

2009年5月24日 (日)

手が白く

     

     手が白く

     且つ大なりき

     非凡なる人といはるる男に会ひしに

<ルビ> 大=だい。

<解釈> 手が白くて大きかった。非凡な人と言われている男との会談の印象はそんなところだった。

「非凡なる人」は早くからモデル論議がなされ、かつ特定できず、詮索無用論に傾いています。しかしわたくしは簡単に特定できる問題だと思います。

モデルとして挙がったのは、政治家尾崎行雄、東京朝日新聞主筆池辺三山、同編集長佐藤真一、作家森鴎外、そして詩人・彫刻家高村光太郎です。

啄木はその「非凡といはるる人」を「男」と呼んでいます。「男」はここでは地位、年齢、能力などでほぼ同等の人物を呼ぶ言葉です。啄木は尾崎・池辺・佐藤・森の各人物を「男」とは呼びません。「先生」「人」「主筆・編輯長などの職名」で呼びます。したがって歌の言葉を大切にすれば光太郎以外の4人は最初から詮索の対象ではないのです。

高村光太郎については「新詩社中で予の最も服して居る高村砕雨君」などと呼んでいます(砕雨は光太郎の雅号)。

光太郎は彫刻家(木彫)として才能を開花させつつ、新詩社にも早くから加入。短歌、感想、戯曲、詩、翻訳などを「明星」に載せ石川啄木、平野万里等とともに、新詩社中の俊秀として注目されていました。まさに「非凡なる人」と目されていました。

その光太郎のアトリエを啄木が訪れたのは日露戦争中のことです。1904年(明37)11月~1905年4月のことと推定されます。光太郎の詩「暗愚小伝」中の「転調 彫刻一途」の中につぎの一節があります。

いつのことだか忘れたが、

私と話すつもりで来た啄木も、

彫刻一途のお坊ちゃんの世間見ずに

すっかりあきらめて帰っていった。

日露戦争の勝敗よりも

ロヂンとかいふ人の事が知りたかった。

ところで「我を愛する歌」の章では、啄木は人物をうたうのではなく心の姿百態をうたっているのでした。したがってこの歌も高村光太郎という人物をうたうのがテーマではないはずです。

何をうたったのか。敬意を抱きぜひゆっくり話して見たかった人物とようやく差し向かいで会見できたのに(会ひしに)、あまり心をふるわせるような話ができなかった。だから話の内容ではなく、「白く且つ大」なる手が印象に残ったというのでしょう。

期待して対面した(会った)人物との対話が期待通りでなかった時の、妙に索漠とした気持ち、それをうたった歌であると思われます。

光太郎が話をしながらも木彫に余念が無く、その手先をじっと見つめている啄木というシーンを想像することもできます。

2009年5月23日 (土)

腕拱みて

     腕みて

     このごろ思ふ

     大いなる敵目の前に躍り出でよと

<ルビ> みて=くみて。

<解釈> このごろ腕みをしてよく思う。大いなる敵が目の前に躍り出て、おれに闘いを挑んで来ないかなあ、と。そうしたら闘っている間中は最大の悩み事から解放されるのに。

先に長くむずかしい評釈を書いた24ページ右の「かなしきは飽くなき利己」の歌と同じ1910年(明43)4月の作と見なされます。そして掲出歌は25ページ左に置かれています。両歌は対になっているようです。

当時の啄木の悩みは「かなしきは飽くなき」の歌のところで見たように、天皇制国家権力との闘いに進み出るべきだと思うけれど、どうしても自分可愛さのために怖くてそれができない、というものでした。

そこで何をやったかというとこれも「硝子窓」に書かれているのですが、仕事の忙しさに気を紛らわせることでした。そして忙しさが一段落するとまたいやな問題を考えなくてはならなくなって、うろたえるのです。

「大いなる敵」よ出てこい(!)と考えるのも、それがもし出て来たらそれと闘っている間は気が紛れるのだがなあ、というのです。

「拱みて」の「」という字も意味深長です。「こまぬく」と訓みます。「=こまぬく」には腕を組む、の外に何もしないでいる、の意味もあります。

さらに「目の前に躍り出でよ」です。この言葉から連想される「敵」は格闘技系の「敵」でしょう。ほんとにそんな男が現れたら、啄木はひとたまりもありません。短歌や詩や評論の「敵」となら立派に闘えるでしょうが、そうした「敵」は「「目の前に躍り出で」たりしません。

この歌はこうして最大の悩みから気を紛らわせるための心のあり方をうたったもの、という事になります。

24、25ページの見開きはこういう風に組み立てられている、ということになるでしょう。

自分可愛さを持て余す思想家の悩み。→悩みに縮こまった心のしわを伸ばしてみる試み。→悩みをすっかり忘れたような欠伸の願望。→でなければ悩みを忘れられるような敵出現の空想。

さて、25ページをめくるとどんな歌が現れるでしょう。

2009年5月22日 (金)

百年の長き眠りの覚めしごと

     

     百年の長き眠りの覚めしごと

     呿呻してまし

     思ふことなしに

<ルビ> 百年=ももとせ。呿呻=あくび。

<語意> まし=~たらよいのに。

<解釈> 百年間も眠り続けた人があって、目が覚めたなら、先ずするであろうような無心の大あくびをしていられたらいいのになあ、煩わしいことをみんな忘れて。

作歌は1908年(明41)8月8日。当時の啄木はすでに煩わしいことだらけでした。翌年4月にはじまるローマ字日記の時期の悩みと基本的には同じ悩みにすでにはまっていました。

同年4月末に上京した啄木の心づもりでは、さっそく小説を書き始め、2、3ヶ月のうちに幾編かの小説を書き上げて出版社に売り、その金で生活しつつ老母妻子を東京に迎える、というものでした。捕らぬ狸の腹算用とはこのこと。

まず、書いた小説は売れません。したがって金は入りません。7月下旬には下宿(赤心館)から「追放令(下宿追い出しの言い渡し-啄木の言葉)」が出ます。老母妻子を呼び寄せるどころではありません。自分が生きていけなくなる瀬戸際に来ています。

小説は書いても売れないので、そのうち書けなくなります。で、前にも書いたように「ああ、死なうか、田舎にかくれようか、はたまたモツト苦闘をつづけようか」と悩みます。

こうした悩みからの束の間の解放を願う心を、「百年の長き眠りから覚め」た人の欠伸という奇抜な空想によって表現したものです。

ああ、自分もそんな欠伸をしてみたい、と思いませんか。

2009年5月18日 (月)

手も足も

     手も足も

     室いつぱいに投げ出して

     やがて静かに起きかへるかな

<ルビ> 室=へや。

<解釈> ふと机を離れ、手も足も、6畳間のすみずみに届けとばかり投げ出して大の字になり、まもなくしずかに起き上がることよ。

どんな心をうたおうとしたのか、確信を持ってこうだ、と言えるものはありません。「心のしわを伸ばす」歌と解釈してみました。

この歌は前回の「かなしきは飽くなき利己」の歌と同時期の作で、同じく「創作」1910年(明43)5月号の「手を眺めつつ」16首中の1首です。

この歌の前には「こみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ」や「大いなる彼の体が憎かりきその前に行きて物言ひし時」などが置かれています。

「室」は本郷弓町2丁目17番地新井方(床屋喜之床)2階の6畳間。啄木の書斎でもちろん畳の部屋。

机に向かって書き物をしていたか、思索をしていたか、ふと体も心も縮こまっているように感じます。そこで机を離れ、そのまま畳の上に大の字になります。手は左右いっぱいに伸ばし、足も拡げながら壁に届けとばかりに伸ばします。

体がこれ以上大きくならない状態をしばらく保つと、心のしわも伸びた気がします。そこで静かに上半身を起こします。気分がさわやかになった気がします。

そんなリフレッシュの仕方をやってみた、というのでしょう。

板の間や、カーペットの間、あるいはベッドの上より、物のあまり置いていない畳の部屋がこの動作にとって最上でしょう。が、そこまで贅沢は言わないで、ご自分の部屋で効果を試してみませんか。

この評釈にご意見をいただけるとさいわいです。

2009年5月17日 (日)

かなしきは(飽くなき)  その2

     かなしきは

     飽くなき利己の一念を

     持てあましたる男にありけり

実は「利己」の解釈の基本は小著『『一握の砂』の研究』(おうふう、2004年)第3章でできあがっていたのですが、より整合的に解釈しておくべき点が出て来て、そのためにまた丸2日かかりました。

この解釈のためには、1910年(明43)5月に書いたとみられる評論「硝子窓」、啄木の最後で最高の小説「我等の一団と彼」(主要部分の執筆は同年6月。未完)、1909年10月~10年2月までの諸評論、同時期の書簡等を読み直す必要がありました。またテキスト26ページ左の歌「こころよく/人を讃めてみたくなりにけり/利己の心に倦めるさびしさ」の「利己」との異同も考える必要がありました。

以下に論証は省き結論を記します。

啄木は「スバル」という雑誌の創刊時から発行名義人でしたが、その09年(明42)7号が発禁になります。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を載せたためです。発行名義人は国家の強圧を相当体感させられたと思われます。はたして11月下旬「自己の徹底」(自分の可能性を発展させて行くこと)はゆくゆくは「国家の存在と牴触する事」になるのではないか、との疑問をいだきます(「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」)。

明けて10年の1月後半か2月前半にクロポトキン著・幸徳秋水訳『麵麭(パン)の略取』を読みます。クロポトキンは「国家」とは「権力」である、われわれはこれと闘わねばならない、と説いています。これが啄木にずんと響きます。そしてかれの中に日本「国家」への「疑惑乃至反抗」の念が頭をもたげてしまいます(「性急(せっかち)な思想」)。

それからの啄木は深い悩みに陥ります。

「神聖ニシテ侵スへカラス」とされる天皇一人が主権者の大日本帝国。これに「反抗」することは、逮捕・投獄はおろか死さえも覚悟しなくてはなりません。怖いと思います。老父母・妻子のこと等々もあります。でもそこで自分(と家族等)を守るために逃げ出すのであればそれは「利己」だ、と悩んだのです。

その悩みを「硝子窓」と「我等の一団と彼」に書きます。「硝子窓」から引いておきましょう。文中の「其の時」は悩みの自分の「利己」を自覚する時、を指します。

自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然(あはれ)さを心ゆく許り嘲つてみるのは其の時だ。

「かなしきは」の意味もこういう文脈から酌み取るしかありません。悩んで悩んで悩んで、それでも「利己」から抜けられなくて、「ああ、ほんとにどうしようもない!」という嘆き、それが「かなしきは」です。

一首は結局「悩む心」の歌、です。

1910年(明43)6月初め、幸徳秋水らの明治天皇暗殺計画(すなわち大逆事件)発覚の報に啄木は強烈な衝撃を受けます。啄木はかれらの思想的背景を研究し、マルクス系社会主義者へそして国家と対決する文学者・思想家へと飛躍します。

以後、評論「所謂今度の事」「時代閉塞の現状」そして歌集『一握の砂』等々の傑作が次々と生み出されて行きます。

2009年5月15日 (金)

かなしきは(飽くなき)  その1

     かなしきは

     飽くなき利己の一念を

     持てあましたる男にありけり

<語意> かなしきは=評釈のところで解説。飽くなき=どこまでもやむことのない。利己=自分の利益だけを考え、他人のことはかえりみないこと(ただしこの歌では特別の意味を持つ)。男にありけり=男であったよ。

<解釈> ほんとうにどうしようもないのは、どこまでもやむことのない利己心を持てあましている石川啄木という男であったよ。

簡単なようで非常にむずかしい歌です。「高山のいただきに登り」よりもっとむずかしかったです。「かなしきは」と「利己の一念」にひっかかりもう5日も経ちました。

まず「かなしきは」。『一握の砂』『悲しき玩具』の他の全用例を引いておきます。

かなしきは/喉のかわきをこらへつつ/夜寒の夜具にちぢこまる時

かなしきは/秋風ぞかし/稀にのみ湧きし涙の繁に流るる

かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ

かなしきは/かの白玉のごとくなる腕に残せし/キスの痕かな

かなしきは、/ (われもしかりき)/ 叱れども、打てども泣かぬ児の心なる

かなしきはわが父!/ 今日も新聞を読みあきて、/ 庭に小蟻と遊べり。

辞書の訳語を借りて訳せる「かなし」は一つもありません。岩波古語辞典は「かなし」について「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語」と概括的に解説していますが、啄木の「かなし」はどれもこの根本的な意味を踏まえています。しかし踏まえた上で、「かなし」の具体的な意味を歌の中から探るほかありません。「かなしきは」を「悲しい(または)哀しい(または)愛しいのは」と言い替えても何も分からないのです。この歌の場合だと「飽くなき利己の一念を持てあましたる男」になぜ、どんな「かなしみ」を抱いているのかを探らねばなりません。ということはそのころの啄木の「利己」をめぐる悩みとはどんなものなのかを知る必要が出て来ます。

この歌は1910年(明43)5月号の「創作」に5句が「男なるかな」の形で載っていますから、同年4月下旬の作と思われます。つまりそのころの啄木の「利己」の悩みを探る必要があります。次回それを探ります。

そして「かなしきは」の訳も得たいと思います。

2009年5月10日 (日)

やはらかに積れる雪に

     やはらかに積れる雪に

     熱てる頬を埋むるごとき

     恋してみたし

<ルビ> 熱てる=ほてる。頬=ほ。

<解釈> ふわっと積もった真っ白な雪に、赤くほてった頬を埋めて冷やしたくなるような、そんな恋をしてみたい。

雪の白、頬の赤らみという色の対照。雪の冷たさ、火照る頬という温度の対照。24文字のうちにこれだけ美しいコントラストがこめられています。

すべては「恋」の1字に流れ込みます。

そしてそのような「恋」をしてみたい、と。

この歌、誰よりも若い人の気持ちにぴったりの歌である事は確かですが、実はほぼ全年齢の人に共通する気持ちの歌でもあります。

20数年ほど前、ある硬派のマルクス主義者からもらった手紙に、この歌が引かれ、つづいてこう書いてありました。「兄(私のことです)もこんな気持ちになりませんか?」と。

その思想家は当時60歳をこえていました。50歳に近かった私ですが、「ほんとだ!」と共鳴したことをはっきりと覚えています。

「結婚は人生の墓場」とは思いませんが、「結婚は恋の墓場」であることは真理です。恋愛は私的・1回的・冒険的・情熱的ですが、結婚すればそれらは制度的・恒常的・安定的・平熱的に変化します。つまり恋は死にます。(くわしくは橋本峰雄『性の神』〈淡交社、1976〉Ⅱ章四「恋愛と結婚」参照)

綾小路きみまろさんの「あれから40年!」に笑い転げる中高年のみなさんは、男女を問わずこの法則を身に沁みてお感じのはずです。

人間動物はこの法則をのがれることはできません。だから結婚前でも結婚後でも生命力の旺盛な人ほど年齢を問わず「恋してみたし」となってしまいます。

したがって、このロマンチックな歌は、ほとんど哲学的な歌でもあるのです。

「行くところがない」「人間関係の網からのがれたい」だから「下宿を出でてほっつき歩く」と3首同傾向の歌を続けた啄木は、そのマンネリ化を打破するために、ここに美しいイメ-ジの、ロマンチックな、哲学的な爆弾をしかけたのです。

さてページをめくるとどんな歌がしかけてあるか。

2009年5月 9日 (土)

何がなしに

     

     何がなしに

     さびしくなれば出てあるく男となりて

     三月にもなれり

<ルビ> 三月=みつき。

<語意> 何がなしに=何という訳もなく。

<解釈> 何という訳もなく、さびしくなると下宿を出て外をほっつき歩く男となって、もう3ヶ月にもなる。

この歌を作ったのは1910年(明43)10月。この時の啄木は超人的な仕事をしていた時期で(テキスト312、313、315ページ参照)、この歌のような啄木とは無縁です。

『一握の砂』編集時に22ページの2首(「何となく汽車に」と「空屋に入り」)に触発されて作ったものと推定されます。したがってローマ字日記(1909年4月7日から6月16日)の時期のかれをうたったものでしょう(この時期は厳密には2ヶ月と9日ですが、昔の数え方では「三月」になりえます)。

つまりこの歌は内容的には22ページ2首と同工異曲ということになります。

とすると、啄木は22ページ23ページの見開きに、ローマ字日記時代の精神的動向を3首続けて配置したことになります。若干のマンネリ感が生じるのをぬぐいきれません。

そこで4首目にあざやかな1首を配置します。

2009年5月 7日 (木)

空き家に入り

     空屋に入り

     煙草のみたることありき

     あはれただ一人居たきばかりに

<ルビ> 空屋=あきや。入り=いり。煙草=たばこ。

<語意> (あり)き=回想の助動詞、(あっ)た。 あはれ=ああ。

<解釈> もし家主や巡査に見つかれば罪をとわれると分かっているのに、空き屋に入って煙草を吸ってたことがあった。ああ、一人っきりになりたいために。

前回の歌と同時期の作ですから、下宿代を払わぬ詩人に対して下宿の主人の催促は急、女中さん達も虐待気味、という事情は同じです。下宿の居心地のわるさったらありません。

しかし居心地が悪いのはそのせいだけではありません。部屋で一人、のたうち回って苦しんでも小説が書けないのです。そこへ函館に置いてきた老母と妻と子がはやく呼び寄せて、と手紙で迫って来ます。

小説が書けない→金が入らない→下宿代が払えない→まして家族は呼べない、の悪循環の中、下宿の催促と家族の願いは強まるばかりです。いったん外出すると下宿が人間関係の悪循環そのものに思えて、帰りたくなくなります。

ふと、煙草屋の角を曲つて、とある横町に入ると・・・・門構えの空屋があ(る)。・・・・「さうだ、お母さんを呼んで家を持つには、こんな静かなところが可い。」と、何年先だかわからない事を思ふ。そして門の中へ入つて行く。「誰もゐないところへ行つてみたい行つてみたいと思つてゐたが、さうだ、この(家の)中へ入つて、そしてよつく自分の事を考へてみよう。」といふ心細い、然し大胆な望みが起つた。入った。

これは啄木の小説構想メモ「松太郎と或る空屋」の一部です。松太郎は考え事をしている内に眠ってしまい、家主に見つかって巡査に捕まります。このメモは掲出歌の背景を語っているように思われます。

自分にまつわりつく人間関係の網からのがれたい、一人になりたい。このしょせん叶わぬ夢を追うため詩人は、空き屋に入り煙草を吸いました。このみじめな可笑しな行動によって夢を追ったところに、かえって詩人の願いの切実さが浮かび上がります。

2009年5月 5日 (火)

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

     何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

     汽車を下りしに

     ゆくところなし

<ルビ> 何となく=なにとなく。

<解釈> 下宿は居心地が悪い。下宿を出て気晴らしでもしたいが、金も無い。だからいどころも無いし、行きどころも無い。そこで汽車に乗りたくなっただけのこと。とある駅で降りたけれど、当然そこでも行きところは無い。

この歌の初出(「スバル」1909年〈明42〉5月号)は以下のような戯れ歌でした。

何となく汽車に乗りたく思ひしのみそれゆゑ君をいざないしのみ

ところが『一握の砂』に入れる時に上のように改作し、意味がすっかり変わりました。改作時啄木はローマ字日記のつぎの部分を踏まえたと思われます。

「小説が書けない地獄」をのたうち回って約50日。1909年(明42)5月31日のローマ字日記です(今回は原文通りローマ字で表記してみます)。

   Misoka wa kita.

   Damatte Uchi ni mo orarenu no de ,Gozen ni dekakete Haori ―― tada ichi-mai no ―― wo Shichi ni irete 70 sen wo koshirae, Gogo, nan no Ate mo naku Ueno kara Tabata made Kisha ni notta.  Tada Kisha ni noritakatta no da.  Tabata de Hatake no naka no shiranu Michi wo urotsuite Tsuchi no ka wo akazu sutta.

   Kaette kite Yado e Moushiwake.

この下宿代を払わぬ詩人に対して下宿の主人も女中さん達も虐待気味の毎日です。今日は「晦日」、下宿代の催促はどれほどきびしくなるかを思うと、下宿にいられるはずがありません。金がないから遊びにも出られません。「ただ1枚の」羽織を「質に入れ」ます。70銭!昼飯を外食するとほとんど無くなるので、屈辱を忍んで、昼飯は下宿で食べ、「午後」70銭をたよりに外出します。金の算段をしに行く振りをしたのでしょう。夕方まで70銭で時間をつぶさなくてはなりません。

出かけた先が上野駅。上野駅からはふるさとに向かう鉄道が走っていました(上野-青森→東北本線)。上野駅のつぎが Tabata つまり田端駅です。ふるさと行き列車で一番安い汽車賃ですむのが田端駅(畑の中!)でした。

そこで歌(と日記)のようになった次第です。つまり、「行きどころのない」の心の歌です。

派遣切りにあって寮を追い出された人たちの2008年12月下旬を思います。

現代のプレカリアートは、闘わないと、「すべり台」の下しか「ゆくところなし」の情況に置かれているのではないでしょうか。

啄木はこの後、どんな物事からも目を背けない精神(直視する精神)を獲得することで、自己の窮境を脱出し、飛躍してゆきます。

    

2009年5月 3日 (日)

鏡屋の前に来て

     鏡屋の前に来て

     ふと驚きぬ

     見すぼらしげに歩むものかも

<解釈> 鏡屋の前まで来て映っていたのが自分だったと分かって不意におどろいた。颯爽とした自分のはずが、なんと見すぼらしげに歩いていることよ。

往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タと思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ

啄木の自作自注のようですが、これは夏目漱石のロンドン留学時の日記です(1901年1月5日)。漱石はまもなく満34歳というころでした。

奇しくも両文学者が同様の経験をし、同様に驚き、同様に記していることに驚きを覚えます。

同様の経験、同様の驚きはおそらくほとんどすべての人間が経験しているでしょう。しかしそれを記しはしない。記したところが非凡です。

人間の自己認識の仕方は3つに分類できるでしょう。

1、他人を鏡として。2、自然を鏡として。3、自分を鏡(写真等も含む)に写して。

鏡に写す自己認識は一番単純ですが、案外複雑な面も含んでいます。ナルシスは泉に映る自分に恋いこがれ、溺死して水仙になってしまいました。四谷怪談のお岩さんは水に映る自分の変わり果てた顔に衝撃を受け、ついには幽霊となります。

お岩さんのように極端でなくても、心の中でイメージしている自分像と鏡に映った自分像にギャップを感じた時、微かな驚きが走ります。自己認識の達人石川啄木はこういう驚きを歌にしたわけです。

この歌を索引にして、2つの自分像のギャップに驚いた体験を数え上げてみると、あんまり多いのに気づかされ、それこそ驚きを禁じ得ません。

こういう心の動きを感受する啄木の非凡さに驚くばかりです。

かくて20、21ページには、不遇の人の疎外感と一縷の望み、破壊の快感、「このごろ気になる」心、鏡で見た自分像への驚き、という人間の心4態が並べられていました。ページをめくると次ぎにはどんな歌が用意されているのでしょう。

2009年5月 1日 (金)

いつも逢ふ電車の中の小男の

     いつも逢ふ電車の中の小男の

     稜ある眼

     このごろ気になる

<ルビ> 稜=かど。  眼=まなこ。

<語意> 稜ある眼=とげとげしい目つき。

<解釈> 電車の中でいつもあう身体の小さい男のとげとげしい目つきが、この頃どうも気になる。

「このごろ気になる」という心をうたった歌です。

「このごろ気になる」は誰にでもある心。身の回りをふと見渡すと、あるわあるわ。通勤電車で携帯に向かい夢中でキーを押す人たち。麻生太郎はいつ衆議院を解散するのか。小沢一郎はいつ辞任するのか。豚インフルエンザは日本にも上陸するのか。地球温暖化のせいか気温がおかしいぞ。近所の親しいお年寄りこのごろ外に出ないがどうしてる?

こうしてまわりは「気になる」ことだらけ。「このごろ気になる」心は一人一人がたくさん持っていますが、この心を歌にするなんて奇想天外。啄木の発明と思われます。

啄木は・・・・人間の基本的で大事な心の動きをきちっといい言葉で歌にしている。そして、その歌が日本人の心の索引になっている。

これは井上ひさしさんの言葉ですが、これがまたみごとな啄木短歌論です。われわれは啄木のこの歌によってはじめて、種々の「このごろ気になる」心が自分の中にあることを意識します。つまり啄木短歌はわれわれの「心の索引」になっているのです。

井上さんはこの歌を索引にして、つぎのような思い出を引き出しています。

それは、東京オリンピックの年でした。市川市に住んでいて、駅に向かって歩いていてふと立ち止まって見ると一人の男がついて来ている。電車に乗ると、やっぱりその男がいる。当時、私はNHKで「吉里吉里独立す」という三十分のラジオドラマを書きました。・・・・わたしは、どうもそのころから右翼の標的になったようです。ある喫茶店に「出頭されたし」という呼び出しの手紙がきて行くと、徹底的に弾劾されました。そこで「わたしは天皇制に疑問を持っていますけれども、天皇の名前を『ジンム、スイゼイ・・・・』と全部言えます。では、あなたがたは、言えますか」と言いました。

こうして井上さんは右翼さんを煙に捲いたのだそうです。

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