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2009年5月 3日 (日)

鏡屋の前に来て

     鏡屋の前に来て

     ふと驚きぬ

     見すぼらしげに歩むものかも

<解釈> 鏡屋の前まで来て映っていたのが自分だったと分かって不意におどろいた。颯爽とした自分のはずが、なんと見すぼらしげに歩いていることよ。

往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タと思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ

啄木の自作自注のようですが、これは夏目漱石のロンドン留学時の日記です(1901年1月5日)。漱石はまもなく満34歳というころでした。

奇しくも両文学者が同様の経験をし、同様に驚き、同様に記していることに驚きを覚えます。

同様の経験、同様の驚きはおそらくほとんどすべての人間が経験しているでしょう。しかしそれを記しはしない。記したところが非凡です。

人間の自己認識の仕方は3つに分類できるでしょう。

1、他人を鏡として。2、自然を鏡として。3、自分を鏡(写真等も含む)に写して。

鏡に写す自己認識は一番単純ですが、案外複雑な面も含んでいます。ナルシスは泉に映る自分に恋いこがれ、溺死して水仙になってしまいました。四谷怪談のお岩さんは水に映る自分の変わり果てた顔に衝撃を受け、ついには幽霊となります。

お岩さんのように極端でなくても、心の中でイメージしている自分像と鏡に映った自分像にギャップを感じた時、微かな驚きが走ります。自己認識の達人石川啄木はこういう驚きを歌にしたわけです。

この歌を索引にして、2つの自分像のギャップに驚いた体験を数え上げてみると、あんまり多いのに気づかされ、それこそ驚きを禁じ得ません。

こういう心の動きを感受する啄木の非凡さに驚くばかりです。

かくて20、21ページには、不遇の人の疎外感と一縷の望み、破壊の快感、「このごろ気になる」心、鏡で見た自分像への驚き、という人間の心4態が並べられていました。ページをめくると次ぎにはどんな歌が用意されているのでしょう。

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