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2009年5月27日 (水)

こころよく(人を讃めて)

     こころよく

     人を讃めてみたくなりにけり

     利己の心に倦めるさびしさ

<ルビ> 讃めて=ほめて。倦める=うめる。

<語意> 倦める=くたびれてしまった。

<解釈> 気持ちよく他人を賞讃してみたくなってしまったなあ。讃めている時というのは、その人のことだけで自分のことは考えていない時だもの。現実の自分はどうかと言えば、家族のために脇目もふらず働いているけれど、小説を書く時間が欲しいという思い(利己の心)が強烈で、これを押さえ込むだけでくたくただ。独り心の中でこんなことを悩んでいるさびしさ!

「利己」について。作歌が1910年(明43)3月中旬(推定)であることと歌の文脈上の位置とから推して、「かなしきは飽くなき利己の一念」の歌の「利己」とは内容のちがう「利己」です。

10年1月9日の大島経男あての手紙と3月13日宮崎郁雨あての手紙が当時の啄木の「利己の心」を解説してくれます。

まとめると、09年(明42)秋(妻の家出前後)以来、啄木は自分の文学(小説創作)上の仕事を脇に置きました。そして一家5人(老父母と妻子と自分)のために稼ぎます。

私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツト安易にするだけの金をとる為に働らいてゐます(大島宛手紙)

しかし小説執筆に専念したいという心(これを啄木は「利己の心」と呼びます)が「頭のスキ」に入り込んできて困ります。この心が入り込んでこないようにするために、エネルギーを使い果たしてくたくたになります(「倦める」状態です)。常人には分からない悩みですが、文学のデーモンが啄木の中に住んで突き動かしているのです。

こうして「利己の心」をへとへとになるまで押さえつけますが、それは啄木内面の孤独な営みです。だから「さびしさ」に行き着くのです。

以上が「利己の心に倦めるさびしさ」です。

ところで「こころよく人を讃め」る時の心理状態とはどんな状態か考えてみて下さい。「こころよく人を讃め」ている時、人は自分のことからはすっかり解放されています。つまり「利己の心」からすっかり解放されているのです。

したがって「こころよく人を讃めてみたくなり」たい、とは自分のことからはすっかり解放された状態になりたい、との意味になります。

家族のために職業としての仕事に全エネルギーを注ぎ、自分が真に打ち込みたいことからは疎外される毎日。打ち込みたい事を持っている人にとってはつらいことです。しかしそれを「利己の心」であると責め、くたくたになってさびしくなるまで責める啄木は自分にも家族(ひいてはすべての人)にもきわめて誠実な人間です。

ここに「かなしきは飽くなき利己の一念」の歌とつなぐものが見えています。

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