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2009年6月

2009年6月29日 (月)

路傍に犬ながながと呿呻しぬ

     

     路傍に犬ながながと欠伸しぬ

     われも真似しぬ

     うらやましさに

<ルビ> 路傍=みちばた。呿呻=あくび。真似=まね

<解釈> 道ばたで犬が大きな口を開けてながながとあくびした。この世の屈託は何もないかのように。私もまねをしてながながとあくびしてみた。犬がうらやましくて。

32ページ右の歌は生活で追い詰められた心の歌でしたが、左のこの歌は屈託からの脱出を試みる歌、とでもなりましょうか。それも犬に倣ってやってみようとは。啄木の凛々しい写真を思い浮かべて、あの顔で犬のあくびをまじまじと見つめ、それからかれ自身が真似している様を想像すると、可笑しくなります。

大岡信氏の言われる啄木短歌の特質の1つ「ユーモア」のよく出ている歌です(「鏡とり」のページ参照)。

最近は見かけませんが、昔は犬のあくび、馬の笑い、牛のよだれはよく見られたものです(ついでに言えば犬や猫の交尾も)。犬の遠吠え、馬のいななき、牛の鳴き声も日常のものでした。

日本人は神代の昔から獣や鳥から様々な事を学んできました。イザナギ・イザナミはせきれいからセックスの仕方を学び、大剣道家が猿や燕の動きに学び、わが石川啄木は犬からあくびを学び、という風に。

わたくしは18年間飼った猫から、生まれ落ちてから死ぬまでの人生の手本(あらまほしき手本)を見せてもらいました。

掲出歌の初出は『一握の砂』。したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日です。

2009年6月27日 (土)

死ぬことを

     死ぬことを

     持薬をのむがごとくにも我はおもへり

     心いためば

<語意> 「持薬」=平生、服用している薬。

<解釈> 心がいたむと、「もう死んでしまおうか」と思ったものだった。持薬をのむと病が一時的に癒やされるように、そう思うと心のいたみが少し楽になるのだった。明治41年7月頃のことである。

この歌の初出は『一握の砂』(1910・明43年12月刊)です。「『一握の砂』初出」の歌は、すべて10年10月4日~16日の作(長男真一の死を悼む歌8首だけは11月3日~5日の作)です。

10月4日から16日は啄木の文学的生涯で最高潮に達した時期。この時期に掲出歌のような想念が生じかつそれをうたうことはありえません。ではなぜこのような歌が作られたのか。

啄木4日~16日の間に260首の歌を作りそれを『一握の砂』にちりばめました。それらを作るために自分の全日記を読み直しています(小説草稿なども)。そして日記に触発されて大量の歌を作ります。日記の中には「明治四十一年日誌」「明治四十二年当用日記」「ローマ字日記」もあり、そこからも歌を作っています。たとえば、

  浅草の凌雲閣のいただきに

  腕組みし日の

  長き日記かな

がそれです。

そして掲出歌も同様です。この歌はどの日記を素にしているのか、上の3つの日記を読み返して調べてみました。おもしろいことが分かりました。わたくしのイメージでは毎月のように「死のうか、死のうか」と書いているはずでした。

しかし書いているのは意外に少なく、1908年(明41)6月末から7月末の1ヶ月間に集中していました。あとはローマ字日記の時に少々。

原因は単純で、小説が書けないので金が無い→下宿代の催促が厳しく下宿を追い出されそうだ→どうしても払うメドが立たない→「ああ、死のうか」です。

7月末に金田一京助に下宿代を払ってもらい、その後は金田一他いろんな人からの援助・借金、小説「鳥影」の原稿料、東京朝日への就職(→月給の前借)等々でしのぎます。その間は「死のうか、死のうか」とは書きません。

日記から1箇所引いておきましょう。明治41年7月20日のものです。

”死”といふ問題を余り心で弄びすぎる様な気がするので、強いてその囁きを聞くまいとするが、何時かしらその優しい囁きが耳の後から聞える。敢て自殺の手段に着手しようとはせぬが、唯、その死の囁きを聞いてゐる時だけ、何となく心が一番安らかな様な気がする。

この人は自己を信じることが非常に厚く、同じくらい他者を信じることも厚い人だったので、本質的に自殺からはうんと遠い人でした。その点で芥川龍之介、川端康成、太宰治、三島由紀夫とは対極にある人でした。この事についてはいつか書きましょう。

追い詰められた心の歌です。

2009年6月22日 (月)

それもよしこれもよしとてある人の  その2

     それもよしこれもよしとてある人の  その2

「へつらひを聞けば  その2」で啄木最初の歌論「一利己主義者と友人との対話」の登場人物「A」のモデルが啄木自身で、「B」のモデルが並木武雄であると言いましたが、この歌論では「B」並木の人柄が躍如としています。例をあげます。

B 莫迦なことを言へ。女の事なんか近頃もうちつとも僕の目にうつらなくなつた。女より食物(くひもの)だね。好きな物を食つてさへ居れあ僕には不平はない。

B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活を始めたんだ。室だけ借りて置いて、飯は三度とも外で食ふことにしたんだよ。

A しかし羨ましいね君の今のやり方は、実はずつと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。(これは啄木のセリフ。「その気がるさを欲しくなりたり」の一例)

このあと歌人と言われるのがいやだという「A」に対し「B」は言われるのもいいじゃないかと言う。(これも「それもよしこれもよし」の一例)

うまい物を食うことが生き甲斐の「B」なのだが、どこで何を食べているかというと、

B 上(かみ)は精養軒の洋食から下(しも)は一膳飯、牛飯、大道の焼鳥に至るさ。飯屋にだつてうまい物は有るぜ。先刻来る時はとろろ飯を食つて来た。

歌をめぐっての対話からも例はいくつも挙がりますが、以上でいいでしょう。

「それもよしこれもよしとてある人」は並木武雄で、本質的に同様の対話が3月にもあり、それが掲出歌になったと考えてよいでしょう。並木のそういう側面はとうに知っていたのでしょうが、突然うらやましさを感じて歌になったのでしょう。

ところで歌は並木をうたうことが目的ではなく、啄木自身の心がうたわれています。どんな心か。第2の歌論「歌のいろいろ」に答えが書かれています。

(おのれ)の為(す)る事、言ふ事、考へる事に対して、それを為(し)ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面(まとも)に其問題に立向つて底の底まで究めやうとせずにゐられぬ心、日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾を発見して、さうして其の発見によつて却つて益々自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に対する羨みの感は私のよく経験する所のものであつた(太字は引用者)

引用した全体が「その気がるさを/欲しくなりたり」のほんとうの内容です。

自分の「意識力」(草壁焔太)をもてあます歌、ということになりましょう。テキスト318ページに引いてある草壁氏の言葉をかみしめてみてください。

自分の鋭くなりすぎた意識をもてあますと言うことは、だれにもあることでしょう。そのときこの歌を思い出して「その気がるさを/欲しくなりたり」とつぶやいてみる、そういうのもこの歌の効用ではないでしょうか。

なお草壁焔太『石川啄木 「天才」の自己形成』(講談社現代新書、絶版)は啄木評伝中の白眉です。

2009年6月21日 (日)

それもよしこれもよしとてある人の

     それもよしこれもよしとてある人の

     その気がるさを

     欲しくなりたり

啄木の歌に登場する人物は、「誰だろう、どんな人だろう」と想像をかき立てる力があると言われます。だからモデル探しは昔から盛んで、吉田孤羊『啄木を繞る人々』(1929年)を初めいろいろな本(無数と言いたいくらいたくさん)が出ています。

でも管見のかぎりではこの歌についてのモデル探しはされていません。わたくしも探すつもりはありませんでした。ただ吉井勇かななどと漠然と思うことはありました。また30ページの2首に関連付けると職場関係の人かも知れないと、最近思ってもみました。

どうやらモデルが見つかってしまいました。28ページ左の「へつらひを聞けば」の歌で苦労したお蔭です。

この歌の初出は1910年3月19日の東京朝日新聞です。作歌は3月中旬と言うことになります。このころ並木武雄が遊びに来ています。「へつらひを聞けば その2」をご覧下さい。そこに書いたことはなるべく省いて並木のことを紹介します。

宮崎郁雨が『函館の砂』という本で

例えば啄木から見た親愛感が、白村、白鯨、翡翠、郁雨といふ序列であったとしても・・・・

と書いていますが「翡翠」が並木武雄の雅号です。吉野章三、岩崎正、宮崎郁雨とならぶほど親しかったというのです。それは函館時代の資料が証明していますし、1908年(明41)の東京における二人の交遊の密度が証明しています。

二人の間にすこしばかり疎隔の感じが入るのは啄木が並木の高価な懐中時計を借りて質に入れ、なかなか請け出さなかった時(ローマ字日記時代)からです。

ともあれ従来不審な点がありました。『一握の砂』には「白村、白鯨、郁雨」をうたった歌が3首ずつ「忘れがたき人人」のいい場所に収められています。郁雨には献辞までが贈られています。これまでの研究では並木の歌は1首もないことになっていました。親しさからゆけば1首や2首あってもよさそうなものです。もっとも並木は上京して現につき合いがあるのですから、「忘れがたき人人」の中には入りませんが。

先日の「へつらひを聞けば」の評釈が明らかにしたように、この歌は並木関係のものでした。1首出てきたわけです。

さて、1910年4月12日の郁雨あて書簡に啄木は次のように書いています。文中の「先月」は3月です。

うん、さうさう、並木は先月ヒヨツクリ来たよ。/ところがだ、(岩崎君の想像は幸か不幸か不幸は当らなかつた。)何でも大将、同じ函館から来てる連中と一しよに下宿してから大分遊んだらしい。その為に来悪(きにく)くて来なかつたと本人が言つてゐた。対手は淫売もあれば芸妓女郎もあるらしい。「石川君、僕もとうとうこんなになつた。」と言つて帯のあたりを撫でて見せた。時計が無くなつてゐた。――それからまた来なくなつた。

まさか「それもよしこれもよし」を「淫売もよし芸妓女郎もよし」と解釈するわけではありませんが、作歌時期との符合といい、文中に窺われる並木の人柄といい、掲出歌のモデルである可能性が浮上してきたわけです

続きは次回にまわします。

2009年6月20日 (土)

遠くより笛の音きこゆ

     遠くより笛の音きこゆ

     うなだれてある故やらむ

     なみだ流るる

<語意> 故やらむ=せいだろうか。

右のページの2首が、上役に対する気後れ、借金する切なさといういわば世俗に生きる心の姿をうたっているわけですし、31ページ左の歌も同様ですから、掲出歌も世俗とのある関係を示しているはずです。つまり28、29ページの見開きにおける「知らぬ家たたき起して」の歌と同様の位置を占めると考えられます。

とすると「笛の音」は祭りの笛の音でしょう。この歌は1909年(明42)4月の作(つまりローマ字日記時代の作)と推定されますが、そのころの啄木の居所は本郷区森川町1番地新坂359の蓋平館、その前は本郷区菊坂町82番地の赤心館です。祭りの笛や太鼓が聞こえてくる機会は少なくなかったと思われます。

笛の音はふるさとの祭りの記憶へと、少年の日の記憶へと誘うのでしょう。あの頃は上役もいなかった、借金なんてものは別世界のことだった。なんだって思い通りにならないことはなかった。天真爛漫でいられた。

少年の日の記憶と不如意の現在とが交錯し、涙がしたたり落ちたのでしょう。でもそれをあからさまにうたうのは、妻子ある男にはできないこと。だから項垂れていたせいだろうか、とぼかします。

見開きのここに位置づけられることによって、世俗に生きる男の現実が逆に浮き彫りされます。

<解釈> 遠くから笛の音が聞こえてくる。それはふるさとの祭りの記憶へと、天真爛漫だった少年の日の記憶へと、わたしを誘う。上役も知らない、借金の苦労もないあの日々よ。項垂れているせいだろうか、涙が流れ落ちる。

つぎの歌は「それもよしこれもよしとてある人の」です。どうつながって行くのでしょう。

2009年6月17日 (水)

実務には役に立たざるうた人と  その2

     実務には役に立たざるうた人と  その2

だからといってこれがモデルだ、と特定できる人がいるわけではありません。

しかしローマ字日記09年4月7日にこんな記述があります(原文はローマ字)。

・・・・広い編集局の片隅でおじいさんたちと一緒に校正をやって、夕方五時半頃、第一版が校了になると帰る。これが予の生活のための日課(まさに「実務」-近藤注)だ。/ 今日、おじいさんたちは心中の話をした。何という鋭いアイロニイだろう! また、足が冷えて困る話をして、「石川君は、年寄りどもが何を言うやらと思うでしょうね、」と、卑しい、助平らしい顔の木村じいさんが言った。「ハ、ハ、ハ・・・・、」と予は笑った。これもまた立派なアイロニイだ!

校正係が「おじいさんたち」ばかりの係であること、啄木一人が若いことが分かります。そして啄木が佐藤編集長の好意でいわば捨て扶持の形で雇ってもらった事も見えています。

ついでに言うと3月に入社したばかりの啄木はこの4月、5月、6月サボりにサボります。文字通り戦力外でした。「おじいさんたち」はどうしようもない文学青年だと匙を投げていたことでしょう。佐藤編集長が庇護してくれました。「おじいさんたち」の頭の中には「石川=よくサボる」という等式が焼き付いたかも知れません。

その年秋からの啄木はきわめてまじめな勤め人に変身しましたが、その代わり社で二葉亭全集の仕事その他を抱えます。どうも「戦力外」は変わらなかったようです。

さて、1910年(明43)4月5日の日記にこうあります。

木村爺さんから五円かりる。三円は下へ屋賃の残り払ふ。

歌の「我を見る人」が「木村爺さん」とは特定できませんが、モデルの候補としてはまさに格好の人物と言えます。

金策に困った末、貸してくれる人であれば自分をどう思っていようとかまわない、と自分に言い聞かせて借金を申し込むのは切ないことでしょう。

つまりこの歌は、借金する時の切ない心、をうたったものです。

結局2倍の時間を費やしてしまいました。今日の石川啄木伝執筆はなし。

実務には役に立たざるうた人と

     実務には役に立たざるうた人と

     我を見る人に

     金借りにけり

<ルビ> うた人=うたびと。

<語意> 実務=職業上実際にやる仕事。

早朝から3時間かけて原稿ができあがり、少し長いから2つに分けようかと思ったのが運の尽き。操作を誤ってせっかくの原稿が消えました。以下記憶をたどりながら復元します。どうせ同じくらいの時間がかかるでしょう。今日1日はこのブログで飛び去ります。

「実務」の意味がむずかしかったです。いろいろの辞書を調べましたが、結局愛用の新潮現代国語辞典の意味がベストでした。「実務」の語釈は掲出歌を例にあげて「実際に取り扱う業務」とあり、「業務」は「職業・生業としての仕事」とありました。啄木の場合の「実務」は東京朝日新聞社編集局の校正係と言うことになります。

とすると「我を見る人」は啄木が校正係として「役に立た」ないと思っている人でかつ啄木が歌人であることを知っている人でなければなりません。

啄木がこの歌を作ったのは1910年(明43)9月9日夜です。

この時期の啄木の両面を知っている人はだれか? 岩城之徳氏は東京朝日新聞の佐藤真一編集長か宮崎郁雨だろうと言いましたが、両方とも違うでしょう。

入社の労を執ったのですし、入社以後最後まで啄木の能力を高く評価するとともに庇護者としても面倒を見ました。二葉亭全集校正の仕事で池辺三山に啄木を推輓したのも佐藤でしょう。三山が啄木の仕事ぶりに惚れて二葉亭全集の責任者にしたことは前回の歌で見たところです。「実務には役に立たざるうた人」と見ることはありえません。

宮崎郁雨はどうか。かれは東京朝日新聞における啄木の作歌当時の勤務状況は知りません。また郁雨がお金を貸したのは啄木の北海道時代のことで、啄木の上京後はいろいろな事情の下に実際にはお金をあげています。09年(明42)10月に郁雨は啄木の妻節子の妹ふきと結婚しましたから、それ以後は貸すのではなくはっきり援助としてたびたび送金しています。郁雨説もなりたちません。

その上困ったことがあります。啄木は校正係としてもきわめて有能でした。決して「役立たず」ではないのです。

「実務には役に立たざる」の意味を考え直す必要があります。「校正係としては戦力にならない」の意味ととるとどうでしょう。

校正係の仕事と二葉亭全集の校正を兼任するようになると、啄木は「実務」つまり校正係の仕事にいつでも参加するというわけには行かなくなります。まして全集の責任者を任せられるとその関係から漱石を訪問することもありました。図書館通いもしました。全集の仕事以外にも渋川柳次郎部長から依頼されて森鴎外宅に取材に出かけたこともあります。作歌当時には啄木が朝日歌壇の選者に抜擢された事も編集局内には伝わっていたことでしょう。

つまり校正部のメンバーからすると、啄木は校正係としてはますます戦力外になっていった歌人なのです。

これが「実務には役に立たざるうた人」の唯一の整合的解釈だろうと思います。

続きは次回にまわします。

2009年6月16日 (火)

大いなる彼の身体が

     大いなる彼の身体が

     憎かりき

     その前にゆきて物を言ふ時

<ルビ> 身体=からだ。

<解釈> 主筆の前に行って物を言う時は、どうも気後れしてしまった。トップの主筆の前だから校正係の自分が気後れしたのではない。あの人の身体があまりに大きいせいだ。だからあの巨体が憎かった。

「その前にゆきて物を言」うとは、呼ばれてあるいはこちらから用ができて「彼」のデスクの前に行き、立って物を言う場面でしょう。

戦前最大の啄木研究者吉田孤羊が「彼」は東京朝日新聞の主筆(新聞・雑誌などの首位の記者)池辺三山であろうと言い、山本健吉もそれを受けていますがわたくしも賛成です。

池辺三山は「朝日の機構と人と紙面の近代化をはかり、こんにちの朝日新聞の基礎をつくった」(『朝日新聞社史 明治編』)と評価される大新聞人です。

啄木がこの歌を作ったのは10年(明43)3月中旬と思われますが、前年11月から二葉亭全集の校正を池辺主筆から命じられて行っています。また宮崎郁雨あての手紙(10年4月12日)ではこう書いています。

今度社で西村酔夢君が退社したので、二葉亭全集に関する一切の仕事が僕へ来た。・・・・池辺主筆が不思議に僕を信用してくれるんで誠に都合が好い。売捌方法の方針でも何でもずんずん僕の意見を採用してくれる。筆耕の人間を雇つたり何かするのまで一切僕まかせだ。

4月に入ると主筆が啄木をここまで認める関係になっています。

ところで池辺三山ですが巨漢でした。ある日池辺が本郷西方町にある漱石宅を訪れました。漱石は二階に案内します。

(玄関に)出て面接して見ると大変に偉大な男であつた。顔も大きい、手も大きい、肩も大きい、凡て大きいづくめであつた。余は彼の体格と、彼の坐つてゐる客間のきやしや一方の骨組とを比較して、少し誇張の嫌はあるが、大仏を待合に招じたと同様に不釣合な感を起した。・・・・話をしてゐるうちに、何ういふ訳だか、余は彼と西郷隆盛とを連想し始めた。(池辺君の史論に就て)

新聞づくりにおいてはトップの地位にある主筆の前に行って、編集局内最下位の校正係が物を言う時、どうしても気後れしたのでしょう。その気後れを啄木は相手の巨大な「身体」のせいにしたわけです。最近は真面目に働いていますが、昨年4月~6月はサボりにサボった校正係ですから、まだ負い目もあったことでしょう。

負け嫌いの啄木がどうも気後れする相手がいるというのは、いい気味だという気もします。しかし啄木もさる者あの人ではなくて「身体が憎」いとずらすわけです。

職場の上司の中にはたまにこちらが気後れするような人がいるものです。

これはそういう上司に対する気後れの歌です。

2009年6月15日 (月)

非凡なる人のごとくにふるまへる

     非凡なる人のごとくにふるまへる

     後のさびしさは

     何にかたぐへむ

<ルビ> 後の=のちの。

<解釈> 国家とか何とか一切の現実を承認して、そしてその範囲において自分自身の内外の生活を一生懸命に改善しようと、ここ3か月間人々にえらそうに訴えてきたが、どうやらそれは空理空論であった。それに気が付いた今のこのさびしさは何にくらべられようか。

問題は「非凡なる人」の意味・内容です。啄木は中学4年生の4月から文学に耽溺、しだいに文学的天才を自覚してゆきます。そして天才つまり「非凡なる人」として振る舞います。その振る舞いは最初の詩集『あこがれ』を出した1905年(明38)に頂点に達し、その後渋民村で代用教員生活、北海道で新聞記者生活を経験する中でしだいに弱まって行きます。その振る舞いを支えていたのは天才意識・天才主義でした。

そして1909年(明42)4~6月のローマ字日記を経て、かれは天才意識を削ぎ落とし天才主義をきれいさっぱりと清算します。そして09年秋からは、自分の内面を含むこの世のあらゆる事有り様を直視する人になります。(テキスト309~310ページ参照。)

ところで掲出歌は1910年(明43)3月19日の東京朝日新聞初出で、「非凡なる人の如くにふるまへる昨日の我を笑ふ悲しみ」となっています。

啄木が1910年3月中旬の自分をうたっていることは明らかです。つまり「非凡なる人」が「天才」を指していないことは明らかなのです。

1909年秋~1010年2月の啄木はそれまでのロマンチックな自分を反省して大筋次のように考え行動します。

1、文学至上の考えは間違いである。2、自分は文学者である前に「人間」である。3、日本の現状は国家を含めてまず承認されるべきである。4、その上で自分の外の生活(家族を扶養すること、職場人、社会人としての活動等)内なる生活(文学上の仕事)を改善し統一しなくてはならない。5、それは別の言葉で言えば「自己の徹底」である。

啄木は長い間の地に足の着かない自分をこうして克服しようと、非常に昂揚して果敢に評論活動を展開します。たとえば

我々は我々の自己を徹底し、統一し、其処に我々の行くべき正当なる途を発見し来つて生活を改善せんが為に、先づ何よりも先に自己及び自己の生活を反省せなばならぬではないか。(「巻煙草」)

という風に。

しかし10年(明43)2月10日前後にクロポトキンの『麵麭(パン)の略取』を読んで「国家は権力である」「権力には反抗すべきである」と言う思想を学びます。それに家族のための生活は自分の文学者としての生活を奪うことを体感します。

上の3は崩れ、4と5は絵に描いた餅であった、ということになります。

「非凡なる人のごとくにふるま」ってきたのに、気が付いてみると空論にうつつを抜かしていた、ということになりました。「後のさびしさは何にかたくへむ」です。

予想通り非常にむずかしい歌でした。

2009年6月10日 (水)

知らぬ家たたき起して

     知らぬ家たたき起して

     遁げ来るがおもしろかりし

     昔の恋しさ

<ルビ> 遁げ来る=にげくる。

<解釈> 盛岡の町で夜おそく、知らない家の戸を叩き家人が起きてくるのを待って、逃げて来るのを楽しんだ少年の日のなつかしさよ。

盛岡高等小学校のころか盛岡中学校低学年のころの事でしょう。今もピンポーンとやって、逃げてしまう悪ガキがいますが、石川一(はじめ)少年もそんな一人だったということです。今は昼間のいたずらですが、石川少年(たち?)は家の人たちが寝静まってからやっている。傍迷惑な悪ガキ(ども?)です。

28ページ右の「この日頃」の歌が思想家の悩みをうたい、左の「へつらひを聞けば」の歌が「歌人」の悩みをうたっていますが、それらはあまりに深い自己認識の産物でした。29ページにきて、何の悩みも屈託もなかった、悪戯についての反省さえもなかった少年の日の自分をなつかしんでいます。

となると29ページ左の歌も以上3首とかかわりがあるでしょう。その歌の初めにある5文字「非凡なる人」についてまた考えなくてはならないかと思うと、気が重いです。

2009年6月 9日 (火)

へつらひを聞けば  その2

     へつらひを聞けば  その2

「一利己主義者と友人との対話」は『一握の砂』の原稿が完成して東雲堂書店に納められた直後の1910年(明43)10月16日~19日に書かれた啄木最初の歌論です。「一利己主義者」とは自分が可愛くてたまらない男すなわち啄木を指します。歌論の中では人物「A」です。「友人」のモデルは並木武雄で人物「B」です。

並木武雄は啄木が函館時代にもっとも親しくした4人の友人中の1人です。啄木が1908年(明41)4月に上京した時、並木も東京外国語学校に受かって上京しました。その後1年非常に親しくつきあいます。翌年はちょっとした事情があって前年ほどにはつきあいませんが、10年(明43)3月、啄木が東京毎日新聞や東京朝日新聞に新調の短歌を発表し始めると、いち早く目を留め、遊びに来ます。

9月啄木が朝日歌壇の選者になった時も遊びに来ました。このとき並木は、多くの大家(与謝野寛・晶子、伊藤左千夫、佐佐木信綱ら)とめざましい新進歌人(北原白秋、土岐哀果、前田夕暮、吉井勇、若山牧水等々)を尻目に啄木が選者に抜擢されたことをよろこび、「歌人」啄木を讃えたようです。

ところが啄木にはこれがコチンと来ます。おれは「歌人」などというちっぽけな人種ではない、もっとましな「人間」だというのです。だから「歌人」としてほめられるのはいやで気に入らないほめ方つまり「へつらひ」と感じてしまうのです。そして友人自身にではなく、その「へつらひ」に腹を立てます。

ところが啄木の心理は屈折しています。自分の歌の価値を知っていますし、他の歌人の歌とは異なる価値も自認しています。だからこそ『一握の砂』創造にも心血を注ぎました。自分の歌、歌の才能を評価されるとついうれしくもなります。

この矛盾した自己にも気づいています。「あまりに我を知」っているのです。

こうした事どもは「一利己主義者と友人との対話」第二歌論「歌のいろいろ」からも(注意深く読めば)読み取れますが、一番いいのは11年(明44)1月9日に友人瀬川深に宛てて書いた手紙の一節です。長くなるが引きましょう。

ぼくの歌は全く他の歌人の歌と意味を異にしてゐるのであるが、それでも兎も角歌といふものを作つてゐる以上、人から歌人と見られることもあれば、自分でも歌人らしい気持になることがある、僕は他人から詩人扱ひ、歌人扱ひされると屹度一種の反抗心を起す、「おれはそんな特別な珍品ぢやない、おれはただの人間だ、立派な一人前の人間だ」と心に叫ぶ、

(以上が「へつらひを聞けば/腹立つわがこころ」です。引用を続けます。)

がすぐその後(あと)から、他人の歌と自分の歌とを比較してプライドを持つたりする、僕は歌を作るために生活してゐる人の生活に対して殆ど何の尊敬も同情も持つてゐない、さういふ生活は片輪だと思ひ、空虚だと思ふ、随つてさういふ人の歌と自分の歌とを比較したとて何にもならぬことをよく知つてゐる、比較するといふのが既に自分を卑下する所以だと思つてゐる、それでも時々比較する、感心することもあればプライドを持つこともある、これ僕の悲しみである、同時に弱みでもある、

(以上が「あまりに我を知るがかなしき」です。やれやれ。たった14字で書かれたってこんな複雑な内容が分かるはずがない。)

これで28ページ右におかれた「この日頃」の歌との内容的関連が出て来ました。当然29ページ左の歌ともある関連を有するはずです。

2009年6月 7日 (日)

へつらひを聞けば

     へつらひを聞けば

     腹立つわがこころ

     あまりに我を知るがかなしき

<ルビ> 腹立つ=はらだつ。

<語意> へつらひ=おべっか。

この歌に丸4日費やしました。胃の具合が悪くなりました。当面は未解決のままつぎの歌へ行きます。この歌がよく分からないため28・29ページの見開き4首は全体的にはっきりしません。

ひどくむずかしい歌です。<へつらいを聞くと腹が立つ>と作者は言いますが、へつらいがどんな内容か分からない上に、なぜ腹が立つのかその理由も書かれていません。3行目が理由になっているかと言うとそうではありません。<あまりに自分をわかっているのがかなしい>から<腹が立つ>と言うのなら、かなしかったらどうして腹が立つのか、とまた別の問いが生じてしまいます。

そこで「あまりに我を知る」ことを腹の立つ理由と考えてみました。そうすると次のような解釈が出て来ます。

<解釈> おべっかを聞くと腹が立つ私のこころ。――虚偽をまじえてまで、私を評価してくれなくていい、自分のことは自分がよくよく分かっているのだから、と腹を立てるのだ。――あまりに自分を分かるという自意識のあり方は悲しいことだ。

釈然としません。前の歌「この日頃」と後ろの歌「知らぬ家たたき起して」との関係も考慮すべきなのですが、それもこの歌の解釈が確立しないと不可能です。

作歌は1910年(明43)10月の前半です。この10月前後は啄木の文学上・思想上の(そして体調も病気以前で)絶頂期といえる時期です。この時期にどのような事情があって「あまりに我を知るがかなしき」とうたったのか?

ここまで書いて、もう丸4日間の悪戦を中断しようと思いました。そう思った時に未確認の資料があるのに気づきました。この年10月中旬に書いた啄木最初の歌論「一利己主義者と友人との対話」がそれです。

これを読み直したところなんとか解釈できそうな気がしました。続きを「その2」として次回載せるつもりです。(6月7日13:24)

2009年6月 3日 (水)

この日頃

     この日頃

     ひそかに胸にやどりたる悔あり

     われを笑はしめざり

<解釈> このところ、ひそかに私の胸にやどった悔いがある。それが私から笑いをうばっている。

この歌は1910年9月9日夜につくられた39首中の1首です。

9月9日は啄木が評論「時代閉塞の現状」を書き上げた直後の日付と思われます。この近代評論中白眉の1編はそのあまりに鋭い論鋒のために、東京朝日新聞は掲載不可能と判断し、ボツにしました。

そういう時の歌だけに、39首中には啄木短歌の中でも特異の、『一握の砂』には収めなかった秀歌が何首かあります。有名な3首をあげましょう。

明治四(し)十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも

秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでて吹く

時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな

9月9日の全39首の主旋律は実は「大逆事件」なのです。

今井泰子さんはこの歌について次のような鋭い読みをしています。

「悔」の内容も示さず、「この日頃」と限定し、表現のさりげなさに努めているが、「ひそかに」「笑はしめざり」にその「悔」が他人に言える質のものではない、まじめな問題とかかわることを示唆。

この読みと大逆事件を結ぶと「悔」の内容が浮かび上がってきます。

「かなしきは(飽くなき) その2」で書きましたが、啄木はこの年6月はじめまで、「硝子窓」にあるように国家権力と対決する事を怖れます(「利己の心をもてあまし」ます)。そして処世の結論を出します。「透徹した理性」に拠って時代を傍観しようと。

まさにその瞬間に大逆事件が発覚しました。命を賭けて国家と対決しようとした人たちがすでにいた! この事実が分かった時啄木は深刻に反省します。自分の傍観的態度はこの人たちにとって、何という残酷な振る舞いとなっていたことか、と。

これが「悔」の内容です。この解釈は啄木最後の小説「我等の一団と彼」を読み解く事によって得られたものです。くわしくは近藤典彦『『一握の砂』の研究』(おうふう、2004年)第Ⅱ部第三章「我等の一団と彼」から『一握の砂』へ、をご覧下さい。

思想家としての誠実きわまりない反省の歌、です。

2009年6月 1日 (月)

高きより飛びおりるごとき心もて

     高きより飛びおりるごとき心もて

     この一生を

     終るすべなきか

<ルビ> 終る=をはる。

<解釈> 私はある思想問題で決断できずに苦悩し、苦悩をのがれるために気持ちを他の事に向けて緊張させようとするのだが、それも持続できない。高いところから飛び降りる時のあの決断と緊張の心理を持ちつづけて、わが一生を全うする方法はないものか。

「清水の舞台から後ろ飛び(または飛び降りる)」ということわざがありますが、まさにその心持ちのことでしょう。そんな心持ちを常時持ちつづけようとしたら、そのうち発狂するでしょう。歌のような願望は実際にはありえないことです。でも啄木は敢えてうたったわけです。

日常生活において「決断と緊張」とは反対の心持ちに落ち込んで悩んでいるために、その裏返しの願望をうたったのだと思われます。

この歌を作ったのは1910年(明43)5月10日前後と推定されます。このころの啄木は社会主義・無政府主義の思想を研究しなければと思いつつも、研究することを怖れていました。研究すればきっと国家権力との対決に進み出ることになるからです。その恐れる心を「利己の心」だとして、自己嫌悪に陥っていたのでした。

「かなしきは(飽くなき) その2」でこのことを書き、エッセー「硝子窓」からそれを示す1文を引用しました。まさに「決断」できない悩みに日夜苦しんでいたのです。

そこで引用した1文の前に綿々と書かれているのは次のような悩みです。

自分はその「決断」の悩みを忘れるために、職場でも家庭でも仕事を求めその忙しさに没頭するのだ、と。ところが困ったことに何時も何時もそんなに忙しいわけではない。暇ができる。すっと「決断」の問題が心の中に入り込んでくる。

こちらは「緊張」を持続できない悩みです。啄木の原文を引きましょう。

然し、然し、時あつて私の胸には、それとは全く違つた心持ちが卒然として起つて来る。恰度(ちゃうど)忘れてゐた傷の痛みが俄(には)かに疼(うづ)き出して来る様だ。抑へようとしても抑へきれない、紛らさうとしても紛らしきれない。

思想家石川啄木の誠実きわまりない悩みです。

この悩みの苦しみの底で掲出歌のような願望をいだいたのでしょう。

この歌のテーマは「思想家の悩み」となりましょう。

この歌の評釈ではつぎの2冊のお世話になりました。記して謝意を表します。

玉城徹『鑑賞 石川啄木の秀歌』(短歌新聞社、1972年)

橋本威『啄木『一握の砂』難解歌稿』(和泉書院、1993年)

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