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2009年6月27日 (土)

死ぬことを

     死ぬことを

     持薬をのむがごとくにも我はおもへり

     心いためば

<語意> 「持薬」=平生、服用している薬。

<解釈> 心がいたむと、「もう死んでしまおうか」と思ったものだった。持薬をのむと病が一時的に癒やされるように、そう思うと心のいたみが少し楽になるのだった。明治41年7月頃のことである。

この歌の初出は『一握の砂』(1910・明43年12月刊)です。「『一握の砂』初出」の歌は、すべて10年10月4日~16日の作(長男真一の死を悼む歌8首だけは11月3日~5日の作)です。

10月4日から16日は啄木の文学的生涯で最高潮に達した時期。この時期に掲出歌のような想念が生じかつそれをうたうことはありえません。ではなぜこのような歌が作られたのか。

啄木4日~16日の間に260首の歌を作りそれを『一握の砂』にちりばめました。それらを作るために自分の全日記を読み直しています(小説草稿なども)。そして日記に触発されて大量の歌を作ります。日記の中には「明治四十一年日誌」「明治四十二年当用日記」「ローマ字日記」もあり、そこからも歌を作っています。たとえば、

  浅草の凌雲閣のいただきに

  腕組みし日の

  長き日記かな

がそれです。

そして掲出歌も同様です。この歌はどの日記を素にしているのか、上の3つの日記を読み返して調べてみました。おもしろいことが分かりました。わたくしのイメージでは毎月のように「死のうか、死のうか」と書いているはずでした。

しかし書いているのは意外に少なく、1908年(明41)6月末から7月末の1ヶ月間に集中していました。あとはローマ字日記の時に少々。

原因は単純で、小説が書けないので金が無い→下宿代の催促が厳しく下宿を追い出されそうだ→どうしても払うメドが立たない→「ああ、死のうか」です。

7月末に金田一京助に下宿代を払ってもらい、その後は金田一他いろんな人からの援助・借金、小説「鳥影」の原稿料、東京朝日への就職(→月給の前借)等々でしのぎます。その間は「死のうか、死のうか」とは書きません。

日記から1箇所引いておきましょう。明治41年7月20日のものです。

”死”といふ問題を余り心で弄びすぎる様な気がするので、強いてその囁きを聞くまいとするが、何時かしらその優しい囁きが耳の後から聞える。敢て自殺の手段に着手しようとはせぬが、唯、その死の囁きを聞いてゐる時だけ、何となく心が一番安らかな様な気がする。

この人は自己を信じることが非常に厚く、同じくらい他者を信じることも厚い人だったので、本質的に自殺からはうんと遠い人でした。その点で芥川龍之介、川端康成、太宰治、三島由紀夫とは対極にある人でした。この事についてはいつか書きましょう。

追い詰められた心の歌です。

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