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2009年6月21日 (日)

それもよしこれもよしとてある人の

     それもよしこれもよしとてある人の

     その気がるさを

     欲しくなりたり

啄木の歌に登場する人物は、「誰だろう、どんな人だろう」と想像をかき立てる力があると言われます。だからモデル探しは昔から盛んで、吉田孤羊『啄木を繞る人々』(1929年)を初めいろいろな本(無数と言いたいくらいたくさん)が出ています。

でも管見のかぎりではこの歌についてのモデル探しはされていません。わたくしも探すつもりはありませんでした。ただ吉井勇かななどと漠然と思うことはありました。また30ページの2首に関連付けると職場関係の人かも知れないと、最近思ってもみました。

どうやらモデルが見つかってしまいました。28ページ左の「へつらひを聞けば」の歌で苦労したお蔭です。

この歌の初出は1910年3月19日の東京朝日新聞です。作歌は3月中旬と言うことになります。このころ並木武雄が遊びに来ています。「へつらひを聞けば その2」をご覧下さい。そこに書いたことはなるべく省いて並木のことを紹介します。

宮崎郁雨が『函館の砂』という本で

例えば啄木から見た親愛感が、白村、白鯨、翡翠、郁雨といふ序列であったとしても・・・・

と書いていますが「翡翠」が並木武雄の雅号です。吉野章三、岩崎正、宮崎郁雨とならぶほど親しかったというのです。それは函館時代の資料が証明していますし、1908年(明41)の東京における二人の交遊の密度が証明しています。

二人の間にすこしばかり疎隔の感じが入るのは啄木が並木の高価な懐中時計を借りて質に入れ、なかなか請け出さなかった時(ローマ字日記時代)からです。

ともあれ従来不審な点がありました。『一握の砂』には「白村、白鯨、郁雨」をうたった歌が3首ずつ「忘れがたき人人」のいい場所に収められています。郁雨には献辞までが贈られています。これまでの研究では並木の歌は1首もないことになっていました。親しさからゆけば1首や2首あってもよさそうなものです。もっとも並木は上京して現につき合いがあるのですから、「忘れがたき人人」の中には入りませんが。

先日の「へつらひを聞けば」の評釈が明らかにしたように、この歌は並木関係のものでした。1首出てきたわけです。

さて、1910年4月12日の郁雨あて書簡に啄木は次のように書いています。文中の「先月」は3月です。

うん、さうさう、並木は先月ヒヨツクリ来たよ。/ところがだ、(岩崎君の想像は幸か不幸か不幸は当らなかつた。)何でも大将、同じ函館から来てる連中と一しよに下宿してから大分遊んだらしい。その為に来悪(きにく)くて来なかつたと本人が言つてゐた。対手は淫売もあれば芸妓女郎もあるらしい。「石川君、僕もとうとうこんなになつた。」と言つて帯のあたりを撫でて見せた。時計が無くなつてゐた。――それからまた来なくなつた。

まさか「それもよしこれもよし」を「淫売もよし芸妓女郎もよし」と解釈するわけではありませんが、作歌時期との符合といい、文中に窺われる並木の人柄といい、掲出歌のモデルである可能性が浮上してきたわけです

続きは次回にまわします。

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