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2009年7月

2009年7月26日 (日)

ブログを再び中断します

いつもご愛読ありがとうございます。

今年の2月9日から84回にわたって掲載してきたブログ「『一握の砂』を朝日文庫版で読む 近藤典彦」ですが、しばらく(8月末くらいまで)中断させていただくことにしました。

ブログ原稿作成に要する時間が予想をはるかに超えて厖大で、ライフワーク「石川啄木伝」執筆のための時間が以前の三分の一以下になってしまいました。

わたくしも社会人なのでこの二つ以外にも時間を割くべき用件があります。それらは2月以来山積する一方でした。また様々の方からご著書をいただきました。積み重ねると約40㎝の厚さになります。読めるだけ読んで著者に感想を申し上げたいと思います。

そこで猛暑の候に入ったのをしおに今月中に用件をかたづけ、8月いっぱいは読書三昧の日々にしようと思い立った次第です。

ちなみに4月1日-7月24日のアクセス数合計は2323(日平均22)、訪問者数合計は1136(日平均9)でした。

同期間のアクセス地域(訪問者がアクセスしている都道府県)は東京-199、神奈川-63、岩手41、大阪-18、千葉-17、北海道-14、栃木-14、静岡-9、埼玉-8、兵庫-8、などでした。

熱心な訪問者のみなさんに篤く感謝の意を表します。

ブログ開設の素志は「10代~40代の人たちに啄木の魅力を伝えたい!」でしたが、これはこの6か月間においては全く達成できませんでした。

啄木(短歌)の魅力を伝える前に、わたくし自身が「我を愛する歌」という章の歌々の魅力に捉えられてしまいました。説明のしようがないくらいに分かりやすいはずの歌が、「いざ評釈を」と思って向かうと突然得体の知れない深さをちらつかせるのです。井上ひさしさんがつぎのように言われたことを心底から実感しました(国文学 解釈と鑑賞2004年2月号)。

(啄木の歌を)時間があったら一つひとつ、吟味したい。一つに半日くらいかけて、日本語の構造から啄木の頭の中を全部探ったら面白いでしょうね。

わたくしには「日本語の構造」を探ることは当面できませんが、「頭の中を」探ることはそれなりにできました。「半日」で探れたこともありますが、11日とか4日とかかかったこともあります。そして井上さんのつぎの言も深々と実感しました。

(啄木の作品は)読む度に深みが増します。人間と社会の関係を深くつかまえているので読み手にも深さが要求される。というよりも、浅い読み手には浅いところで快く応じて、深い読み手には深く答えてくる人ですね。

こうしてわたくしは「我を愛する歌」の評釈を試みているうちに「啄木が淵」にはまってしまったのです。

中学校時代から55年間何百回も読んできた『一握の砂』になぜ今ごろはまったのか。わたくしにはそれなりの理由があるようです。

1、「石川啄木伝」を執筆するために、『石川啄木全集』全8巻をなめるように読み直したこと。

2、したがって啄木26年の全生涯が均一の濃度で見渡せるようになったこと。

3、朝日文庫版『一握の砂』という最髙のテキストに拠って読むので、これまでどんな人にも見えなかった啄木の仕掛が次々に見えるようになったこと。

以上の条件が揃ったので、初めて「我を愛する歌」の章を読めるようになったのだと思います。

このたび掴んだ読み方でまず「我を愛する歌」の章を、つづいて「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」を読もうと思います。要する時間とエネルギーは想像もつきません。「我を愛する歌」の章だけがむずかしいのか、「煙」以下もむずかしいのか、その章に差し掛かって見なければ見当がつかないのです。

ともかく『一握の砂』全551首を研究し直したあとで、素志に立ち返り、今度こそ「10代~40代の人たちに啄木の魅力を伝え」る仕事を成し遂げたいと思っています。

最初は不特定多数の方々を対象にブログを綴っていましたが、そのうち顔見知りの熱心な読者の方々のお顔を思い浮かべながら、語りかけるようになっていました。

9月から再開します。しばらくお待ち下さい。

ブログの右のサイドバー上部「マイリスト」の「石川啄木著『一握の砂』を読む 近藤典彦」をクリックされますと、これまでの84回分を最初から順に読むことができます。何度でも味わうに値する歌々、テキストであり、その最新の評釈です。一度と言わず何度でも味わってみませんか。そしてご自分の読みを創りだしてみませんか。

2009年7月24日 (金)

しつとりと

     しつとりと

     水を吸ひたる海綿の

     重さに似たる心地おぼゆる

<語意> 海綿=海綿動物、特にモクヨクカイメンの骨格を乾燥したもの。無数の小穴があり、弾力性・吸水性が大きい。洗浄・化粧・医療用にまた文房具などとして用いられた。スポンジ。心地=心持。気持。気分。おぼゆる=心に感じる。

やっかいな歌です。「水を吸った海綿に似た心地」ではありません。「水を吸った海綿の重さに似た心地」です。一体どんな心地でしょう。

まず「重さに似た心地」ですから、「心地」も「重い心地」なのでしょう。「重い」と言ったって「しつとりと水を吸った海綿の重さ」程度です。

海綿は文房具としての使い方はわたくしの記憶では銀行や郵便局で行員や局員がお札を数えるとき、小さなガラス器に入った水を含んだ海綿で指先を湿らせていました。こうした使い方の海綿は重さを感じ取ることはできません。文房具用ではないでしょう。また啄木が化粧・医療用に海綿を使ったとも考えられません。銭湯で用いたのでしょう。つまり洗浄用です。

京都の海綿屋から取り寄せた洗浄用の海綿(=スポンジ)は底が掌の大きさ、高さも10㎝くらいで、ほっこりとした山形をしています。掌に乗せると軽くて重さを感じません。ポストスケールで量ってみると5グラム。

つぎに水をぽったりと含ませると、重さが掌に伝わります。秤にかけてみると120グラムもあります。啄木は「しつとりと・・・吸いたる」と言いますから、ちょっとしぼってから量ると90グラムでした。約20倍の重さになるわけです。しかしそれでも90グラムかそこらですから軽いのですが、でも水を吸ってない時とちがって重さが存在感を帯びています。

この歌の初出は1910年(明43)4月24日の東京毎日新聞。作歌はその少し前の4月20日前後でしょう。

<解釈その1> しっとりと水を吸ったスポンジの重さに似た、軽いのだけれどなんだか重さのある、そんな気分を感じることだ。

この歌を、37ページ左に置いたことで啄木は新しい意味を付与したと思われます。

<解釈その2> 人は空寝入り・生欠伸や勤め人生活や手紙といったごく日常的な事柄の奥に、より本質的な「我」を抱えているものだが、それを思うとしっとりと水を含んだ海綿の重さに似た、気分の重さをわたしは感じる。

2009年7月21日 (火)

朝はやく

     朝はやく

     婚期を過ぎし妹の

     恋文めける文を読めりけり

<ルビ> 恋文=こひぶみ。

<語意> 恋文めける=いかにも恋文の感じがする。

作歌は1909年(明42)4月下旬。初出は「スバル」09年5月号の「莫復問七十首」で、「不覚にも婚期を過ぎし妹の恋文めける文に泣きたり」。 

作歌直前の09年4月18日の夜(「朝はやく」ではない)、啄木は妹光子の手紙を読み、泣きたくなった(「泣きたり」ではない)と、ローマ字日記に記しています。ともあれこの手紙が「恋文めける文」です。啄木はその手紙をかなりの分量引き写しています。たしかに「恋文めいて」います。

20世紀初めは女性の近代的な職業がまだほとんど無い時代でした。主なものは小学校教師、看護婦くらい。電話交換手、デパート店員の仕事が用意されつつありました。女性が生きてゆく(食べてゆく)一般的な道は結婚でした。小学教師、看護婦になるのはごく少数、働こうとすればあとは芸者か娼婦などになるしかありませんでした。

こういう時代に盛岡女学校中退の光子が社会に放り出され、自立して行くというのは至難のことでした。彼女は07年(明40)小樽のメソジスト教会で洗礼を受け、伝道婦になる道を探し当てます。啄木は「恋文めける文」を引き、感想を述べたあとにこう書いています。

妹はもう二十二だ。当り前ならば無論もう結婚して、可愛い子供でも抱いてるべき年だ。それを、妹は今までもいくたびか自活の方針をたてた。不幸にしてそれは失敗に終わった。・・・・最後に妹は神を求めた。否、おそらくは、神によって職業を求めた。・・・・来年は試験を受けて名古屋のミッション・スクールへ入り、「一生を神に捧げて」伝道婦になるという!

光子は当時満20歳8ヵ月。女性の本然として愛する男性が特に欲しいし結婚もしたい年頃です。その本然を抑えて彼女は「一生を神に捧げ」る道を選んでいます。しかし彼女も若い健康な女。抑えこんだ我が兄への手紙の中に「恋文めく」という姿で表出してしまいます。人の何倍も敏感な啄木はそれを感受します。

そして啄木は37ページ右にこの歌を配置した時、「我」を押し隠して生きるのは妹だけでなく自分も同じであるとの意味もこの歌に托します。いや妹や自分だけではなく人はみなそうなのだとの認識も托したでしょう。

<解釈> 朝はやく婚期を過ぎて数え年22にもなった妹から手紙を受け取った。妹は「一生を神に捧げて」伝道婦になるというが、兄のわたし宛の手紙なのにまるで恋文のような文章になっている。かわいそうに、妹の押し隠した「我」がこの手紙に表出しているのだ。妹だけではない。自分もそして人はみな、「我」を押し隠して生きている、そう思いながら手紙を読んでいたことであったよ。

これでここの見開き3首に流れるモチーフを酌み取ることができました。

つぎの1首「しつとりと」の歌はどう解釈すればよいのでしょう。海綿スポンジが京都の海綿屋から届いています。直径10㎝、重さ5㌘のスポンジです。これから水を「しつとりと」吸わせてみます。

2009年7月19日 (日)

箸止めてふつと思ひぬ

     

     箸止めてふつと思ひぬ

     やうやくに

     世のならはしに慣れにけるかな

<ルビ> 箸=はし。止めて=とめて。

初出は『一握の砂』ですから、1910年(明43)10月4日~16日の作。食事中にふっと思ったことをうたっています。

食事には作法がつきものです。膳に向かう時は正座する。箸は右手でこう持つ。茶碗は左、汁椀は右に置く。茶碗または汁椀の物を食べる時は必ず左手で持つ。などなど。

啄木の母は下級ながらも士族の出、しつけはしっかりしていました。啄木はもう立派な事実上の家長になっていましたが、食事時は幼時から母がしつけてくれた作法にしたがって食べていたことでしょう。

作法つまり「世のならはし」に従っている自分にふっと気づいて、2行目以下を思ったのでしょう。

「やうやくに」に今井泰子さんは「そこにいたるまでの作者の深い内面的・外面的苦闘、葛藤」の暗示を見ていますが、卓見です。

「石川啄木伝」を小樽時代まで書いてきて、啄木がもっとも慣れなかった「世のならはし」は何だったかと考えてみると、1つの事にしぼれるように思われます。

「給料取りにはならない」がそれです。父一禎は僧侶ですから法要その他で布施を受け取りそれを収入としましたが、労働によって収入を得る生活とは無縁でした。幼少時の啄木はそのかしこい目で父の生活を最上のものとして見て育ちました。しかも一禎は息子に「筆一本で食べる」ことを夢見させたようです。

啄木は、詩人として(後には作家として)食べてゆく、以外の道を絶対に選ぼうとしませんでした。結婚して一家の主になってもなお! 

しかしどうしようもなくなって渋民小学校の代用教員になり、北海道では新聞記者になります。しかしそんな事などしていられないというので、老母妻子を函館に残して単身上京し、働かずに小説を書きます。惨憺たる結果に終わります。

1909年(明42)3月、しかたなしに東京朝日新聞の校正係になります。4月、5月、6月、7月はどうしようもない勤め人でした。しかし同年秋には年貢を納め、真面目な勤め人になります。それから1年、「やうやくに世のならはしに慣れ」た自分に気づいたのです。「・・・にけるかな」にその気づきと詠嘆がこよなく表れています。

ところで「世のならはしに慣れ」るとは、自分の真の願望を押し隠すことと表裏をなしています。世の中の大多数の人々は自分の願望を押し隠して、「世のならはし」に従って生きています。掲出歌は結局それをうたっているわけです。

自分の人生をふり返ると、どんなにどんなに自分の願望を押し隠し押し殺して来たことか! きっとみなさんもそうでしょう。

<解釈> 食事中無意識のうちに作法通りに食べている自分に気づき箸を止めて思った。あんなに世のならわしに背き続けた自分だが、とうとう世のならわしに慣れて自分を押し隠し、真面目に勤めていることだなあ。

36ページの2つの歌は、空寝入生呿呻や世の習わしへの慣れの奥に、押し隠した自分の存在を暗示している点で共通しています。

それではこの両歌が37ページ右の歌にどうつながると思いますか?

2009年7月17日 (金)

空寝入生呿呻など  その2

     空寝入生呿呻など  その2

問題の平野万里はこんな人です。

1886年(明18)5月25日生まれ。高村光太郎、石川啄木とならんで与謝野寛がもっとも望みを託した新詩社子飼いの歌人。1907年(明40)3月には歌集『若き日』を出した。08年7月東大工科大学(=工学部)を卒業。

与謝野晶子も平野を深く信頼していました。啄木もそれを聞かされていました。で、こうなります。

自分の信ずる人(ここでは晶子)の賞める人をば、始めからいい人の様に思ふ。その理屈で、僕も大分平野を信じてゐた。信じてゐるだけ圧迫が強かつた。一緒に千駄ヶ谷(新詩社)から帰る時など、平野は電車の中でアタリ構はず大きな欠伸などをする。そして黙つて僕などを見ることなどがある。そんな時には、僕は何といふことなく非常な圧迫を感じて、あらぬ方を見ながら、心では此の男を殺して了ひたい位に怒つてゐた。(09年3月3日宮崎郁雨宛の手紙)

これが伏線でした。この手紙は非常に長いのですが、その終わりの方にこうあります。

そして一月八日の相談会には、(出席者与謝野氏平出君外合せて十人)僕は思ふだけ何でも言つた。そして総ての事は僕の立言が成立して、平野の立言は皆破れた。かくて事実上平野の圧迫を脱した。そして、二号を僕一人でやつた。歌を六号にしたのは、単に紙数の都合だけではない。紙数の如何に不拘ああやる積りだつた。・・・・それについての平野と僕の喧嘩は雑誌で見たであらう。あれを平野の発見した日の夕方、電車の中で平野が僕に喰つてかかつた。僕は生欠伸をし乍ら返事してやつた! 

あの「生アクビ」は啄木のリベンジだったのです。

リベンジした時の啄木の「思ふこと」の内容を推測するとこんな事になるでしょうか。

お前は以前おれに対してひどく高圧的に出ていたな。しかしお前の圧迫はことごとく跳ね返した。総決算が今度の短歌六号活字だ。そしてこの「生アクビ」が以前のおまえの大欠伸に対するお返しよ。

平野に圧迫を感じていたこと、とくにあの欠伸は許しがたかったこと、圧迫を脱するのに苦労したこと、ついにリベンジに大成功したこと、これらは平野に言うべきことではありません。すべてを隠してただ「生アクビ」一つ。

青年同士の愉快な喧嘩です。のちに与謝野晶子が啄木偲んでうたいます。

  ありし時万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく

さらに、アジア太平洋戦争の敗色が濃くなった1944年(昭19)4月、59歳になった万里は「啄木を憶ふ」と題して10首を詠みます。そのうちから2首。

  啄木の岩手なまりを思ひ出づ山鴬を聞くかのやうな

  啄木の辛さを知らずその無知や測るべからず当時の青年

さて、テキスト36、37ページの見開きですが、ここの4首になにかモチーフを見出せますか? わたくしはほとほと困りました。さすがに啄木も各見開きすべてにモチーフを配することは出来なかったのだろう、と思ってもみました。しばらくは絶望的でした。しかし3首目までにはあるモチーフを見出せました。

しかし4首目にもそれが通じて行くのかは未だ分かりません。「しっとりと水を吸った海綿の重さに似た心地」なんてどんな心地でしょう。分かっていたつもりがまるで分かりません。

海綿スポンジにしっとりと水を吸わせて掌に乗せてみようと思い、京都の海綿屋に発注しました。それが着いたら再度考えてみます。

2009年7月16日 (木)

空寝入生呿呻など  その1

     空寝入生呿呻など

     なぜするや

     思ふこと人にさとらせぬため

<ルビ> 空寝入=そらねいり。生呿呻=なまあくび。

空寝入、生呿呻などをするのは、今思っていることを人に知られないためですから、傍に「人」のいることが前提です。その「人」は、単数で向かい合って居るか隣に居る場合、複数で座談や小集会(たとえば歌会)のような場合が考えられます。

初出は『一握の砂』ですから、作歌は1910年(明43)10月4日~16日。日記などを読み返していて、触発されて作ったものと推定されます。

歌にあるような意味での「空寝入生呿呻など」は職場ではしないでしょう。かれの家族関係では家庭でも考えにくいことです(節子夫人に、この歌の「君」は誰のことですかなどと尋ねられれば別ですが)。

<解釈> 人前で空寝入生呿呻などをなぜするのか?  ほんとうに自分の言いたいことを押し隠すためだ。

石川啄木全集に「空寝入」の例は今のところ見つかっていませんが「生呿呻」は3箇所にありました。それも同じ「生呿呻」を日記で1回、手紙で2回書いているのですから会心の(?)「生呿呻」なのでしょう。啄木はおそらく日記でこの「生呿呻」の件(くだり)を読み返したことに触発されて、掲出歌を作ったのだと思われます。

事情を簡潔に書きましよう。

1908年(明41)11月、新時代を画した文芸雑誌「明星」は100号をもって廃刊となります。平出修の出資・後援、森鴎外・上田敏らの支援を得て、石川啄木・平野万里・吉井勇が中心となって、1909年1月文芸雑誌「スバル」が創刊されます。

3人の中では雑誌の刊行・編集に経験のある啄木が圧倒的な力を発揮しました。かれが編集兼発行人となります。編集は3人の回り持ち(これも啄木の発案)。

創刊号は平野の編集でしたが廃刊になった「明星」風を色濃く踏襲します。

2号の当番になった啄木はこれに対し斬新な編集をおこないます。その方針の最たるものは散文重視、短歌の軽視でした。戯曲・評論・小説および詩は大きい5号活字で組み、短歌はすべて小さな6号活字で組みました。死んだ恋人玉野花子への痛哭の歌々をふくむ「我妹子」(52首と短詩1編)を6号活字で組まれた平野は校正段階でこれを知り、仰天し、激怒します。平野はすぐさま「抗議」を書き啄木はさっそくこれを2号に載せて、自分の見解は「消息欄」に書き、平野の抗議を一蹴します。(勝負は啄木の圧勝でした。平野編集の創刊号は9月になっても売れ残り、啄木の編集した2号は6月には売り切れました。)

さて、1909年(明42)1月27日の啄木の日記です。文中の「三秀舎」は印刷所、「平出」は「スバル」の出資・後援者平出修(翌年大逆事件の弁論で大活躍する弁護士)です。

それから・・・・三秀舎にゆき、(足跡)の原稿をわたす。平野がゐた、一寸校正して、二時間許(ばかり)帰つた、そのあとに平野が歌の六号になつてゐるのを発見して周章して平出のところへとんで行つたのだ。/二時頃またゆくと間島君が来てすけてゐた。二人でやつてるとやがて平野が来た。そして夕方かへりの電車で六号活字問題を持出して、ブリブリしてゐた。予は生アクビを噛みながら返事した。

これが問題の「生呿呻」です。この「生アクビ事件」には伏線があります。次回にまわします。

2009年7月12日 (日)

こころよき疲れなるかな

     

     こころよき疲れなるかな

     息もつかず

     仕事をしたる後のこの疲れ

<ルビ> 後=のち。

<解釈> 快い疲れであることよ。息もつかず仕事をした後のこの疲れ。

作歌は石川正雄『定本 石川啄木全歌集』〈河出書房新社、1964年〉)145ページによると1909年4月22日(岩城之徳『啄木全歌評釈』では4月11日作)。このときの形は「こころよきあはれこのつかれ息もつかず仕事をしたる後のこのつかれ」です。

ローマ字日記4月21日によると、それまでの東朝の仕事は12時から校正の仕事をして5時半に第1版が校了になると終わりでした。ところが21日の日記にはこうあります。

Kyô kara Kisha no Jikan-kaisei no tame Dai-ippan no Shimekiri ga hayaku nari, tame ni Dai-nihan no dekiru made iru koto ni natta. Shukin wa 12ji, Hike ha 6ji.

この日から校正の仕事は6時までに延長され、第2版の分もやることになりました。仕事量は相当増えたようです。この日啄木はさすがに疲れたとみえて早く寝ました。そして翌朝(超めずらしくも)6時頃に起き、歌を作りました。そのうちの1首が「こころよきあはれこのつかれ」の歌です。

啄木は校正の仕事を天職だなどとはさらさら思っていませんが、きらいな仕事ではありません。一旦仕事に向かうと非常にはやく、よい仕事をしたようです。そして仕事に集中する時間を楽しんでいます。

「こころよく/我にはたらく仕事あれ」の歌の時にも引きましたが、ここではローマ字で引きましょう。

Sha de wa Kimura, Maekawa no Ryô-rôjin ga yasunda no de Dai-ippan no Kôryô made Tabako mo nomenu Isogashisa.……Yo wa kaette kite Meshi ga sumu to sugu torikakatte Uta wo tsukuri hajimeta. Kono aida kara no Bun to awsete, 12ji goro made kakatte 70 shu ni shite, "莫復問七十首"to Dai-shite kokoro yoku neta.Nani ni kagirazu ichi-nichi Hima naku Shigoto wo shita ato no Kokoromochi wa tatôru mono mo naku tanoshii.Jinsei no Shin no fukai Imi wa kedashi Koko ni aru no darô!

すばらしい「仕事」観です。啄木はこうして掲出歌も「莫復問七十首」の中に編集して、上のローマ字日記を記して眠りに就いたわけですが、掲出歌の意味はここに引いたような意味にまで深められていた、ととってよいでしょう。

解釈を啄木文をそのまま引いて以下のように深めておきます。

<解釈その2> 何に限らず一日暇なく仕事をした後の心持はたとうるものもなく楽しい。人生の真の深い意味はけだしここにあるのだろう!

このような仕事のよろこび・労働のよろこびを労働者から剥奪するもの、それが「資本」であると言ったのはマルクスです(労働の疎外)。

34、35ページの見開き4首も味のある組み合わせになっていると思いますが、いかが?

2009年7月 9日 (木)

龍のごとくむなしき空に躍り出でて

     

     龍のごとくむなしき空に躍り出でて

     消えゆく煙

     見れば飽かなく

<ルビ> 龍=りよう。

<語意> むなしき空=なにもない空間。虚空(こくう)

<解釈> 龍のように勢いよく力強く大空に躍り出て、もくもくと登りついに消えてゆく煙を見ていると、飽きることがない。

作歌は1909年(明42)4月22日か23日、「スバル」5月号に「莫復問七十首」のうちの1首として載ります。

下宿・蓋平館3階に住む啄木の眼下のかなたに陸軍の兵器工場(東京砲兵工廠)がありました(今は東京ドーム球場になっています)。その工場には3本の大煙突があり、そこからから吐き出される「煙」です。

人間関係での気苦労の歌、上司への気遣いの歌につづく掲出歌はこれも「転」の歌になっています。

(おそらく真っ黒な)煙が大煙突の口から勢いよく力強く間断なく生み出され、登れるところまで登りつつ、そのまま無限の空間に消えてゆく。小説も書けなければ、金もなく、家族のことも含め八方ふさがりの作者は、あこがれにも似た気持ちで、煙を眺めていたのでしょう。

つまり鬱屈の裏返しの歌になっています。

産業革命完了直後の日本では大煙突とその煙は産業発展のシンボルのようでもありました。

啄木は同じ砲兵工廠の大煙突の煙から、のちの大気汚染を恐ろしいばかりに予言してもいます。

2009年7月 7日 (火)

気の変る人に仕へて

     気の変る人に仕へて

     つくづくと

     わが世がいやになりにけるかな

<語意> わが世=世の中で生計を立てること。なりわい。

<解釈> 気の変わる社長に仕えて、つくづく自分の今の仕事がいやになってしまったことだ

作歌は1910年(明43)10月4日~16日。この時の啄木は東京朝日新聞にいて主筆池辺三山をはじめとする上司との関係は良好であったから、「気の変わる人」は東京朝日の人ではないでしょう。

啄木の職場とその上司をすべて見てきても、渋民小学校(遠藤校長)・函館弥生小学校(大竹校長)・函館日々新聞(斎藤大硯)・小樽日報(白石社長)・釧路新聞(白石社長)・東京朝日新聞、これだけです。

遠藤校長に「仕え」たなどと啄木は思っていません。大竹校長とは短いがいい関係でした。斎藤大硯主筆の新聞社には1週間ほどしか勤めていません。こうして1人の人物だけが浮かび上がります。

小樽日報・釧路新聞社長白石義郎です。6ヵ月にわたる啄木・白石関係の分析は他日に譲り、1908年(明41)3月28日の日記から引いておきましょう。3月23日突然「不平病」を発した啄木は釧路新聞社を欠勤し続けます。当時の啄木はきわめて有能ですがきわめて扱いにくい記者でもありました。

今日も休む。今日からは改めて不平病。/十二時頃まで寝て居ると、宿の下女の一番小さいのが、室の入口のドアを開けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。/”ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ”/歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。

こうして啄木は釧路新聞と釧路を飛び出します。啄木から見ると白石社長が「気の変る人」だったようですが、そのころの啄木の方がよっぽど気の変わる人だったようにも思われます(頭の中は東京に出て小説を書きたい一心が渦巻いていた)。

ともあれ、産業革命以後プレカリアートの苦しむ現代に至る100年間、上司への不満をかこつ(あるいは苦しむ)勤め人がどんなに多かったかまた多いかを考えると、この歌の価値は輝きを増してきます。

「勤め人の心の屈折をとらえた歌は本歌集(『一握の砂』)の一特色といっていいだろう。」(木股知史)

2009年7月 6日 (月)

剽軽の性なりし友の死顔の

     剽軽の性なりし友の死顔の

     青き疲れが

     いまも目にあり

<ルビ> 剽軽=へうきん。性=さが。

<語意> 剽軽=かるがるしくて滑稽なさま。

<解釈> 剽軽な性質だった友の死顔の、青さの中に浮き出た人生の疲れが、今もはっきりと印象に残っている。友のおどけの裏には人生のやりれない辛さや悲しさがあったのだ。この自分と同じように。

初出は東京朝日新聞1910年(明43)5月26日で4・5句は「青き疲労(つかれ)が長く目にあり」。

この「友」については管見の限り誰もふれていませんが、考えられる人は1人しかいません。渋民日記の1906年(明39)「八月中」の終わりにある次の記述中の「沼田千太郎」です。

予は十一歳(?)の頃死んだ母方の伯父の棺に入つた死を見た外には死人を見た事がない。その時は小児の時の事だから、種々の空想を刺戟された外には別に深くも考へなかつた。今度、三十二で死んだ友人沼田千太郎の死後一時間許りのところを見て、数日の間忘るることが出来なかつた。

生前かるがるしく滑稽に振る舞っていた友の死顔には、今や隠しようもなく生きていた時の疲れが浮き出ていた、というのです。

啄木もまた日常の振る舞いの陰に潜めている、自分自身の生きる辛さや悲しさを思っています。

啄木は『一握の砂』の歌の半分を創出した1910年(明43)10月4日~16日において、全日記を読み返し活用しました。これは『一握の砂』創造の1源泉として確実で重要な事実です。わたくしは最近もう一つの時期にも日記が歌の源泉になったと推定しています。それは短歌に啄木調を確立した1910年4月5月のことです。掲出歌もその一例と言えます。

2009年7月 5日 (日)

ダイナモの

     ダイナモの

     重き唸りのここちよさよ

     あはれこのごとく物を言はまし

<語意> ダイナモ=dynamo.発電機。まし=願ってもどうにもならないことを希望する意を表す。(できれば)~たらよいのに。

<解釈> ダイナモの重々しい唸るような音の心地よさよ。言論弾圧の嵐が吹きすさぶこの時代にあって、ああ、このダイナモのように思うさま発言できたらよいのに。

「ダイナモ」は明治村などで大きな実物を見学していますが、ここでうたわれるのがどういうダイナモなのか、どうしても分かりません(ちなみに自転車前輪についている小さな発電機あれもダイナモです。もう20年以上探っているのですが。引き続き調査中です。

ともあれ、ダイナモは何ものにも妨げられないぞ、と言わんばかりに重々しい唸るような音を発して回っているのでしょう。

啄木がこの歌を作ったのは1910年(明43)8月3夜-4日夜。

(ここまで書いて7月2日-4日留守にしていました。以下につづきを書きます。)

啄木はこの年5月末の大逆事件発覚以来、事件の思想的背景としての社会主義・無政府主義研究に没頭。急速にマルクス・エンゲルスの社会主義に接近して行きます。そして7月の後半に有名な評論「所謂今度の事」を書きます。

啄木は「所謂今度の事」を書くことで、大逆事件の内容と思想的背景(=無政府主義)を読者に知らせ、あわせて厳重な取調を受けている被告たち、分けても幸徳秋水を間接的に弁護しようとしたのです。

もちろん国家権力の言論弾圧を十分に計算し、ぎりぎりのところで書こうとします。そのレトリックは巧妙(というより老獪)です。

内容をほんとうに知りたい方は「所謂今度の事」の原文を用意され、小著『『一握の砂』の研究』(おうふう)の207~210ページを手がかりとしてお読みください。すさまじい事が韜晦の文体のその裏に書かれています。

啄木は原稿をある程度まで書いて東京朝日新聞の編集長代理弓削田精一に渡します。弓削田は新聞の発禁を怖れ、掲載不可と判断します。(しかし弓削田はこの原稿を惜しんで死ぬ直前まで秘匿し、いつか世に出せる時が来たら出して欲しいと遺言して亡くなります。原稿が日の目を見たのは弓削田の死後20年目の1957年でした。)

啄木が掲出歌を作った1910年(明43)8月3夜-4日夜というのは、弓削田の掲載不可の判断の直後という事になります。

啄木は「所謂今度の事」の掲載不可に象徴されるような、言論弾圧下にあって、ダイナモの何ものにも妨げられないぞ、と言わんばかりに重々しく唸る音を聞いて、このように発言できたらどんなにいいだろう!と思ったのです。

先覚者の嘆きの歌です。

32~33ページの見開きにもあるモチーフが流れています。

32ページに窮迫した心、屈託した心、33ページには幼児ひたむきさ(自分の二重性)、表現の自由の希求、の歌が配置されています。

2009年7月 1日 (水)

真剣になりて竹もて犬を撃つ

     

     真剣になりて竹もて犬を撃つ

     小児の顔を

     よしと思へり

<ルビ> 小児=せうに。

<語意> 小児=幼児。

<解釈> 真剣になって竹の棒で犬を撃つ幼児の顔は思いと行いの一致を表出している。いい顔だ。

初出は『一握の砂』。したがって1910年(明43)10月4日~16日の作。

「竹」は大人の指くらいの太さの竹の棒で長さはさまざま。昔は家の廻りなどにいくらでも置かれていました。「小児」は大きくても小学校入学以前の子ども。「犬」は小児の家の飼い犬でしょうか。

幼児の表情に「撃とう」とする思いと「撃つ」という行為が一体化した一途さを認め、「よし」と思ったのです。啄木にはこの小児のように一途に思いと行いを統一できない悩み(二重性の悩み)があるのでしょう。

前の歌では犬のあくびに自分の内部の屈託を気づかされたのでしたが、この歌では犬を撃つ幼児の一途さに自分の二重性の悩みを写されています。

28-29ページの見開き、30-31ページの見開き、そしてここの見開きを見てきて気づいたのですが、3首目に幼少年の歌を配置しています。漢詩の起承転結の「転」を意識して啄木は配置していると思われます。

であればつぎの歌は「結」でしょうね。

なお掲出歌の解釈にあたっては、今井泰子・木股知史両氏の解釈が大変参考になりました。記して謝意を表します。

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