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2009年7月 1日 (水)

真剣になりて竹もて犬を撃つ

     

     真剣になりて竹もて犬を撃つ

     小児の顔を

     よしと思へり

<ルビ> 小児=せうに。

<語意> 小児=幼児。

<解釈> 真剣になって竹の棒で犬を撃つ幼児の顔は思いと行いの一致を表出している。いい顔だ。

初出は『一握の砂』。したがって1910年(明43)10月4日~16日の作。

「竹」は大人の指くらいの太さの竹の棒で長さはさまざま。昔は家の廻りなどにいくらでも置かれていました。「小児」は大きくても小学校入学以前の子ども。「犬」は小児の家の飼い犬でしょうか。

幼児の表情に「撃とう」とする思いと「撃つ」という行為が一体化した一途さを認め、「よし」と思ったのです。啄木にはこの小児のように一途に思いと行いを統一できない悩み(二重性の悩み)があるのでしょう。

前の歌では犬のあくびに自分の内部の屈託を気づかされたのでしたが、この歌では犬を撃つ幼児の一途さに自分の二重性の悩みを写されています。

28-29ページの見開き、30-31ページの見開き、そしてここの見開きを見てきて気づいたのですが、3首目に幼少年の歌を配置しています。漢詩の起承転結の「転」を意識して啄木は配置していると思われます。

であればつぎの歌は「結」でしょうね。

なお掲出歌の解釈にあたっては、今井泰子・木股知史両氏の解釈が大変参考になりました。記して謝意を表します。

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