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2009年7月16日 (木)

空寝入生呿呻など  その1

     空寝入生呿呻など

     なぜするや

     思ふこと人にさとらせぬため

<ルビ> 空寝入=そらねいり。生呿呻=なまあくび。

空寝入、生呿呻などをするのは、今思っていることを人に知られないためですから、傍に「人」のいることが前提です。その「人」は、単数で向かい合って居るか隣に居る場合、複数で座談や小集会(たとえば歌会)のような場合が考えられます。

初出は『一握の砂』ですから、作歌は1910年(明43)10月4日~16日。日記などを読み返していて、触発されて作ったものと推定されます。

歌にあるような意味での「空寝入生呿呻など」は職場ではしないでしょう。かれの家族関係では家庭でも考えにくいことです(節子夫人に、この歌の「君」は誰のことですかなどと尋ねられれば別ですが)。

<解釈> 人前で空寝入生呿呻などをなぜするのか?  ほんとうに自分の言いたいことを押し隠すためだ。

石川啄木全集に「空寝入」の例は今のところ見つかっていませんが「生呿呻」は3箇所にありました。それも同じ「生呿呻」を日記で1回、手紙で2回書いているのですから会心の(?)「生呿呻」なのでしょう。啄木はおそらく日記でこの「生呿呻」の件(くだり)を読み返したことに触発されて、掲出歌を作ったのだと思われます。

事情を簡潔に書きましよう。

1908年(明41)11月、新時代を画した文芸雑誌「明星」は100号をもって廃刊となります。平出修の出資・後援、森鴎外・上田敏らの支援を得て、石川啄木・平野万里・吉井勇が中心となって、1909年1月文芸雑誌「スバル」が創刊されます。

3人の中では雑誌の刊行・編集に経験のある啄木が圧倒的な力を発揮しました。かれが編集兼発行人となります。編集は3人の回り持ち(これも啄木の発案)。

創刊号は平野の編集でしたが廃刊になった「明星」風を色濃く踏襲します。

2号の当番になった啄木はこれに対し斬新な編集をおこないます。その方針の最たるものは散文重視、短歌の軽視でした。戯曲・評論・小説および詩は大きい5号活字で組み、短歌はすべて小さな6号活字で組みました。死んだ恋人玉野花子への痛哭の歌々をふくむ「我妹子」(52首と短詩1編)を6号活字で組まれた平野は校正段階でこれを知り、仰天し、激怒します。平野はすぐさま「抗議」を書き啄木はさっそくこれを2号に載せて、自分の見解は「消息欄」に書き、平野の抗議を一蹴します。(勝負は啄木の圧勝でした。平野編集の創刊号は9月になっても売れ残り、啄木の編集した2号は6月には売り切れました。)

さて、1909年(明42)1月27日の啄木の日記です。文中の「三秀舎」は印刷所、「平出」は「スバル」の出資・後援者平出修(翌年大逆事件の弁論で大活躍する弁護士)です。

それから・・・・三秀舎にゆき、(足跡)の原稿をわたす。平野がゐた、一寸校正して、二時間許(ばかり)帰つた、そのあとに平野が歌の六号になつてゐるのを発見して周章して平出のところへとんで行つたのだ。/二時頃またゆくと間島君が来てすけてゐた。二人でやつてるとやがて平野が来た。そして夕方かへりの電車で六号活字問題を持出して、ブリブリしてゐた。予は生アクビを噛みながら返事した。

これが問題の「生呿呻」です。この「生アクビ事件」には伏線があります。次回にまわします。

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