« 剽軽の性なりし友の死顔の | トップページ | 龍のごとくむなしき空に躍り出でて »

2009年7月 7日 (火)

気の変る人に仕へて

     気の変る人に仕へて

     つくづくと

     わが世がいやになりにけるかな

<語意> わが世=世の中で生計を立てること。なりわい。

<解釈> 気の変わる社長に仕えて、つくづく自分の今の仕事がいやになってしまったことだ

作歌は1910年(明43)10月4日~16日。この時の啄木は東京朝日新聞にいて主筆池辺三山をはじめとする上司との関係は良好であったから、「気の変わる人」は東京朝日の人ではないでしょう。

啄木の職場とその上司をすべて見てきても、渋民小学校(遠藤校長)・函館弥生小学校(大竹校長)・函館日々新聞(斎藤大硯)・小樽日報(白石社長)・釧路新聞(白石社長)・東京朝日新聞、これだけです。

遠藤校長に「仕え」たなどと啄木は思っていません。大竹校長とは短いがいい関係でした。斎藤大硯主筆の新聞社には1週間ほどしか勤めていません。こうして1人の人物だけが浮かび上がります。

小樽日報・釧路新聞社長白石義郎です。6ヵ月にわたる啄木・白石関係の分析は他日に譲り、1908年(明41)3月28日の日記から引いておきましょう。3月23日突然「不平病」を発した啄木は釧路新聞社を欠勤し続けます。当時の啄木はきわめて有能ですがきわめて扱いにくい記者でもありました。

今日も休む。今日からは改めて不平病。/十二時頃まで寝て居ると、宿の下女の一番小さいのが、室の入口のドアを開けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。/”ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ”/歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。

こうして啄木は釧路新聞と釧路を飛び出します。啄木から見ると白石社長が「気の変る人」だったようですが、そのころの啄木の方がよっぽど気の変わる人だったようにも思われます(頭の中は東京に出て小説を書きたい一心が渦巻いていた)。

ともあれ、産業革命以後プレカリアートの苦しむ現代に至る100年間、上司への不満をかこつ(あるいは苦しむ)勤め人がどんなに多かったかまた多いかを考えると、この歌の価値は輝きを増してきます。

「勤め人の心の屈折をとらえた歌は本歌集(『一握の砂』)の一特色といっていいだろう。」(木股知史)

« 剽軽の性なりし友の死顔の | トップページ | 龍のごとくむなしき空に躍り出でて »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/45555319

この記事へのトラックバック一覧です: 気の変る人に仕へて:

« 剽軽の性なりし友の死顔の | トップページ | 龍のごとくむなしき空に躍り出でて »