« 2009年7月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月

2009年9月29日 (火)

あたらしき背広など着て その2

     

     あたらしき背広など着て  その2

この歌を愛した萩原朔太郎は「旅上」という詩を作ります。

   ふらんすへ行きたしと思へども

   ふらんすはあまりに遠し  

   せめては新しき背広をきて

   きままなる旅にいでてみん。

   汽車が山道をゆくとき

   みづいろの窓によりかかりて

   われひとりうれしきことをおもはむ

   五月の朝のしののめ

   うら若草のもえいづる心まかせに。

「みづいろの窓」についてだけ解説しておきます。環境の美しかったころ、朝と夕方に空気が美しい「みづいろ」またはうす紫になることがあったものです。五月の朝のしののめ」汽車の外の空気は「みづいろ」なので車中の人にとって汽車の窓はどれも「みづいろ」の窓なのです。

「新しき背広」といういかにも近代的な歌材が白秋の歌の中に生まれるやそれが啄木の歌に飛躍し、そして朔太郎詩を生成する。ほぼ同年齢の若き詩人たちの興味深い内的影響ぶりです。

この詩について思い出があります。成城学園中学校に務めていた時のことです。たしか中2の国語教材にこの詩がありました。

ある国語の時間に、根岸なつきさんという生徒が後ろの方でにこにこして手を挙げました。「わたしこの詩暗誦してきちゃった」

「すごい、聞かせて」というとすらすらと暗誦してくれました。

みんなは感嘆の拍手。さっそくクラス全員が根岸さんにならってその場で暗誦してしまいました。啄木の歌も朔太郎の詩も暗唱・朗誦するに足る名作です。暗誦は苦手になっている方も、口ずさんでみませんか。

2009年9月27日 (日)

あたらしき背広など着て その1

     あたらしき背広など着て

     旅をせむ

     しかく今年も思ひ過ぎたる

<語意>しかく=そのように。

作歌は前の2首と同じく1910年(明43)8月3日夜-4日夜。初出は東京朝日新聞1910年8月15日。1句「新しき」5句「思ひ過ごせる」

今回の評釈には小著『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館、2000年)の掲出歌関連部分をほぼそのまま転用します。

が、その前に40、41ページの見開きに共通するモチーフを確認しておきます。掲出歌のモチーフは日常性からの脱出願望といえますから、見開き4首に共通するのは「~からの脱出願望」と言えましょう。見開き4首ごとの啄木の仕掛、分かってくると賛嘆の外ありません。さて引用します。

短歌雑誌『創作』1910年(明43)8月号に北原白秋の歌

新らしき紺の背広を着しひとのあゆみをおもふ水仙の花

がありますが、啄木は「あたらしき背広」という近代的な歌材をおそらくこの歌にヒントをえて摂取したと思われます。

その一行目「あたらしき背広など着て」ですが、お金をはりこんで新調した洋服などをはじめて着て表に出るときの、その人だけが知るおもはゆさ、少々の晴れがましさ、そうした気分がここにこめられています。日常性からのささやかな脱出の気分です。

「旅をせむ」「旅」これこそ日常を脱して新しい土地、新しい事物、はじめての人々等に出会い心身をリフレッシュする時、「あたらしき背広」はまさにかっこうの、いわば小道具です。

「しかく今年も思ひ過ぎたる」 そのように今年も思ったがその今年も過ぎてしまった。

世紀初めの日本の庶民にとって1、2行目の願望はまことに非現実的でした。啄木自身「あたらしき背広」はおろか古い背広も持ったことはなかったのですから。したがって1首には当時の庶民の現状が巧みに映し出されているわけです。現在の日本人にとって3行目はすでに過去のものでしょうか。バブル経済のころは国内外への旅行ブームがしばらく続きましたが。

ともあれ、1、2行目の発想は100年の月日を経ても新鮮さを完全に保っています。

自分がきめた時間に自分の計画にしたがって働く農民らとちがい、資本家がきめた時間に資本家の計画にしたがって働くのが近代労働者です。労働時間の計量こそが近代生活の根幹といってよいわけです。

近代は他人によって自分の時間が管理されることを特徴としているがゆえに、そしてまた外界に関する情報が厖大化したがゆえに、日常性からの脱出という願望を普遍化しました。

その傾向は強まる一方ですから啄木の発想は常に新鮮なのだと思います。

次回は掲出歌から生まれた萩原朔太郎の詩を紹介します。

2009年9月23日 (水)

何がなしに/息きれる

     何がなしに

     息きれるまで駆け出してみたくなりたり

     草原などを

<ルビ>草原=くさはら。

この歌を初めて読んでからすでに55年。つい2、3日前まで啄木の盛岡中学時代の感覚をうたったものだろうと、漠然と思ってきました。

ところがこのブログを書くために作歌時期を調べると1910年(明43)「8月3日夜-4日夜」とあり、初出は東京朝日新聞の同年8月14日。2句が「息切れるまで」

どうやら昔の心境ではなく、「8月3日夜-4日夜」に近い時期の心をうたったもののようです。つまりそのころ鬱屈があって、その鬱屈からほんのひと時でも脱出したくなった、その方法として「息きれるまで駆け出」すことを思いついた、という心持ちをうたったのでしょう。

そうなるとやっぱりその鬱屈がどんな鬱屈だったのかをさぐる必要が生じます。すぐ思い浮かぶのは、7月後半に「所謂今度の事」という評論を書き東京朝日新聞に寄稿しましたが(おそらく26日に)ボツになった、という事情です。

この評論執筆の目的は新聞を通じて、日本人に大逆事件の内容と思想的背景とを知らせ、あわせて厳重な取調を受けている事件の被告たち分けても幸徳秋水を間接的に弁護することにありました。もちろん権力の言論弾圧を十分に計算し、ぎりぎりのところを書いています。そのレトリックは老獪と言いたくなるほど巧みでした。(「所謂今度の事」の読み方その他については小著『『一握の砂』の研究』〈おうふう、2004年〉第Ⅱ部第三章参照)

しかし編集長代理の弓削田精一はこんな危険な文章は載せられないと判断しボツにします(注*)。その26日の夜から啄木はしばらく中断していた歌作を再開します。26日10首、27日5首、そして8月3日夜-4日夜24首。ストレスが強くなると歌が湧き出すのは啄木の特徴的なパターンです。

以上の流れからすると掲出歌に潜む「鬱屈」の内実はやはり、大逆事件をめぐる言論が圧殺されていることによって生じたストレスと言うことになりましょう。「草原などを」思いっきり駆ける、などと爽やかなイメージを伴ってうたわれるとそんな深刻な鬱屈は想像できませんが。

<解釈>なんという息苦しい時代なのだ。なんだか、息が切れるところまで思いっきり駆け出してみたくなった。それもひんやりとして緑あざやかな草原などを。

この8月の末近く啄木は「所謂今度の事」とは別の切り口の評論で闘おうと「時代閉塞の現状」を書き始めます。

心が晴れないでふさぎ込むと、その状態から脱出したくなるのは人間に普遍的な心理でしょう。そのために、散歩、ハイキング、登山などたくさんの方法が考えられています。掲出歌の方法はじつに簡単で効き目もありそうです。ただし、草原などが身近にあって、年も若いならばの話ですが。ともあれこの歌はいつの時代の誰にでも通じる心をうたっています。

注* 弓削田は「所謂今度の事」の原稿をくずかごに放り込むかわりに家に持ち帰ります。そして秘蔵します。1937年(昭12)68歳で亡くなるとき、いつか世に出て読まれることを願ってこれを友人に預けます。弓削田の願いが叶ったのは1957年のことでした。

2009年9月22日 (火)

よく笑ふ若き男の

     よく笑ふ若き男の

     死にたらば

     すこしはこの世のさびしくもなれ

前の歌が「もどかし」さからの脱却願望をうたったとすれば、この歌は「この世」からの脱出を空想する歌、ということになりましょうか。

初出は「スバル」1909年(明42)5月号。つまりローマ字日記のころの作品で、もう何度も出て来ている「莫復問」中の1首です。

初出の形は4、5句が「少しこの世の淋しくなれかし」。

「よく笑ふ若き男」は啄木自身ですが、これをめぐって以下の事情が見えてきます。

啄木は快活な人で自分もよく笑い人をもよく笑わせる人でしたが、この歌を作ったのは生涯で一番苦しんだローマ字日記の時期、頼みにしていた文学的天才という自信が今や崩れようとしてしていた時期でした。さすがにそうそうは笑わなかったようです。ところが4月22日の日記にこうあります。

Yoru, Kindaichi kun to katari, Uta wo tsukuri, 10ji goro mata Kindaichi kun no Heya e itte, tsukutta Uta wo yonde O-warai. San-zan huzake-chirasite, oosawagi wo [shi] kaette kite neta.

この時大笑いした歌というのはたとえば次のような歌でしょう。

今日も亦をかしき帽子うちかぶり浪漫的(ロマンテイツク)が酒のみに行く

暇あれば若き女の顔を画く男なりしが博士になりぬ

上は吉井勇を、下は平野万里をおちょくった歌と思われます。場の雰囲気で一旦笑い出すと笑いの連鎖が起きてとまらなくなる時があります。この時も啄木のへなぶり歌が次々と飛び出し、二人の間に O-warai の連鎖が起きたのでしょう。

部屋に帰って床に入れば、小説を書けなくて懊悩する自分にもどります。さっきのよく笑いよく笑わせた自分が空しくなります。そこでふっと自分の死(自殺)=「この世」からの脱出を想像します。今の自分が死んだと仮定しても、父母や妻や友人がかなしんでくれるかも知れないが、「この世」にとっては何事でもないだろう、と思います。

翌日掲出歌(初出の形)を作ります。

<解釈>よく笑いよく人を笑わせる、才能もけっこうある若い男、と見られている自分だけれど、もしここで自殺したらどうなるだろう。「この世」における自分の存在感の希薄さからすれば、死んでも「この世」は何にも思わないだろうな。「少しは・・・さびしくもな」ってくれよ。

「もしも自分が死んだら・・・・」と空想することありません?

2009年9月20日 (日)

目の前の菓子皿などを

     目の前の菓子皿などを

     かりかりと噛みてみたくなりぬ

     もどかしきかな

<ルビ>噛み=かみ。

<語意>もどかし(き)=事態が期待通りに進行・実現しなくていらいらする。

まさか南部煎餅をかりかりと噛むようには行かないでしょう。目の前の皿に噛みついたら前歯の損傷はまちがいなし。

この歌の初出は東京朝日新聞1910年(明43)3月31日。3句の「かりかりと」の2つ目の「かり」はくの字の踊り字(このブログでは使えない)。4句は「噛みたくなりぬ」。定型の7文字を『一握の砂』ではわざわざ2文字の字余り・9文字の「噛みてみたくなりぬ」にかえています。なぜだと思いますか。

「もどかし」さはどんな具体的内容なのか、それが分かれば鑑賞はぐっと深まるのですが、実際に内容を考察しようとすれば、また何日もかかりそうな予感がします。今回は逃げることにします。

この歌は「もどかしい」心をうたったのか、「もどかしさからの脱却願望」をうたったのか。この歌に始まる40、41ページの見開き4首を見渡すと後者となりそうです。

<解釈>目の前の菓子皿などをかりかりと噛んでみたくなった。ああ、もどかしい! かりかりと噛めるものならこのもどかしさからちょっとは脱却できように。

ところでこの歌の初出が定型であったのを『一握の砂』に編集する時になぜ2字余りの歌に変えたのか。この問題にちょっと触れておきましょう。

大室精一さんの論文に「啄木短歌の形成(1)――『一握の砂』の音数律について――」(佐野国際情報短期大学 研究紀要 第8号、97年3月)という労作がありますが、これによると『一握の砂』全551首の約40%の219首が字余り歌です。また一行書きの時に定型であった歌を『一握の砂』に三行書きで収める時に、わざわざ字余り歌へと推敲した歌数が32首もあります。掲出歌もそのうちの1首です。

57577の名人啄木は三行書き短歌を創出するにあたって、意識的にワンパターンをくずそうとしたのです。

「かりかりと噛みたくなりぬ」を「かりかりと噛みてみたくなりぬ」と推敲することでどんな効果が表れるか。「目の前の菓子皿などを/かりかりと」は言葉の響きと異様な内容が相まって、ひどく切迫した調子に読者を引き込みます。ところが急に「噛みてみたくなりぬ」と2字もの字余りで引き延ばされ、一瞬もどかしくなります。そこへ「もどかしきかな」という落ちが来るわけです。

2009年9月15日 (火)

かの船の  その2

    

   かの船の  その2

<解釈>渋民村を「石をもて追はるるごとく」出て来た私は今日ふるさとを失った。もう帰るところがない。傷心の私をやさしく迎え、抱きとめてくれる場所を永遠に失ったのだ。ほんとなら東京に出て文学に打ち込むべきなのに、行く手は内国植民地北海道。どんな生活が待っているのやら心細さは限りがない。ああいっそ黒い海に飛び込んで死んでしまおうか。あのとき舟の甲板で海をのぞき込みながらそう思っても死ねなかったのは、船客の一人である私だった。

こうしてふるさとと身を引きちぎられるように別れて以後、啄木はふるさとに帰ることが叶いませんでした。だからこそかれの思郷の念は強く、強く、そのゆえにこそ数々の思郷の名歌を生み出すこととなります(「煙 二」)。

20世紀初頭の日本は産業革命の完了期・資本主義の全面的展開期でした。農村から、地方から、無数の人達が職をもとめて大都市に集中してきます。幾千万の人達の望郷の念はほとんど病のように強いものとなります。

啄木はやがてその人たちの思いをうたうチャンピオンになるわけです。

38ページ39ページの見開きに共通のモチーフを見出せるでしょうか。いくら啄木でも4首1組ごとに共通のモチーフで編集するということはできなかったか、と思われます。これまで見てきた見開きがあまりによくできていたのだと思います。起承転結の見られる見開きがいくつもありました。奇跡のような編集ぶりです。

さて、今回の見開きです。敢えてモチーフを見ようとすれば、ですがこうは言えるかと思います。

まず2首目(けものめく)と3首目(親と子と)は「場から乖離した心」を歌っている点で共通しています。今見た「かの船の」はどうか。「船客」としてはみな函館に渡ろうとしています。ところがこの「船客の一人」は「死のうか」という場違いな心を抱いています。この点で上の2首と共通して来ます。

1首目はもっとも共通性を見難いのですが、この世から乖離する心をうたっていることは確かです。(乖離=そむきはなれること。新潮現代国語辞典

2009年9月14日 (月)

かの船の  その1

     かの船の

     かの航海の船客の一人にてありき

     死にかねたるは

<ルビ>船客=せんかく。

テキストの脚注では「1908年(明治41)4月、自分の文学的運命を試そうと北海道を脱出、船で上京した時のことであろう。」としてありますが、どうやら間違えたようです。読者のみなさんに謹んでお詫び申し上げます。

注の基にしたのは吉田孤羊『啄木研究』(改造社、1939年)の44ページでした。吉田は啄木が「函館から上京途中の船旅に、幾度か思ひつめて投身自殺を企ててゐる」云々と書いてます。実際はこれを証拠立てる啄木の記述はないのですが、分かっている限りの啄木の「航海」に関する記述でいちばん悲愴なのがこの時の航海の記述であるため、わたくしは吉田説を受け入れたのです。

しかし小説のかたちとは言え啄木自身が自殺を思った航海のことを描いていました。「しつとりと/なみだを吸へる」の歌の時に見た「漂泊」の叙述がそれです(ブログ「しつとりと」参照)。

これが分かってみると、吉田の言う「函館から上京途中の船旅」は自己の「文学的運命を極度まで試験する決心」(向井永太郎宛明41.5.5)で船に乗っているのですから、「犬コロの如く丸くなつて三等船室に寝た」(明治四十一年日誌)航海とはいえ、自殺衝動は考えにくいのでした。

掲出歌は『一握の砂』初出ですから1910年(明43)10月4日~16日の作。日記を読み返しながら作ったうちの1首です。

歌の素になった07年(明40)5月4日の日記を抜粋しましょう。この日「石をもて追はるるごとくふるさとを」出て夜の9時半頃青森港に着き、陸奥丸に乗り込みます。出港は翌午前3時。

夜は深く青森市の電灯のみ眠た気に花めきて、海は黒し。舷を洗ふ波の音は、何か底しれぬ海の思ひを告げむとするにやあらむ。……予は一人甲板に立ちつくしつ。陸も眠り海も眠り、船中の人も皆寝静まれるに、覚めたるは劫(ママ)風と我とのみ。(「海は黒し」についてはブログ「しつとりと」参照。このとき啄木が思うのは・・・・故郷)

雲に閉ぢたる故郷の空を*(せん)望(せんぼう=はるかに仰ぎ見る)して、千古一色の夜気を胸深く吸へば、ああ、我が感慨は実に無量なりき。この無量の感慨、これを披瀝するとも、解するもの恐らくは天が下一人も無けん。(世界で誰一人理解できないほどの故郷への思い!)・・・・

とぢたる目に浮ぶは、浅緑の日暖かき五月の渋民なり。我涙は急雨の如く下れり。

こうして渋民村への思いを綿々と綴って行きます。

啄木にとって乳幼児期の母、少年期の父母はかれの全ての要求を容れ、かつ保護してくれる絶対的な存在、最終の拠り所、なのでした。父母が年を取り、そんな力が無くなってくると、それに代わったのが故郷でした。故郷こそ苦闘する青年啄木をやさしく受け入れ、抱き、癒やしてくれる最終の拠り所でした。しかしとうとうかれを包容し、癒やし、甘えさせてくれる拠り所を永久に失ったのです。少なくともこの日のかれはそう思いこんでいます。

だからこの日の「感慨は無量」なのであり、誰にも分かってもらえないほどのものなのです。この絶望的な喪失感、孤独感の中でかれが考えるパターンの1つが「死のうか」です。

解釈と38、39ページ見開きの読み方については明日記します。                                                   

2009年9月10日 (木)

親と子と  その2

     親と子と  その2

初出の4、5句は「食卓に就く気拙かりけり」でしたが、掲出歌の中からは「食卓」のイメージを取り除いた方がいいでしょう。食卓であれ、お茶を飲む時間であれ、浅草に連れて行っているある場面であれ、まわりに家族や大勢の人がいてもいなくても、父と子が二人になったと感じる場面であればいいでしょう。

父と子が仲良く談論風発、などというのはうらやましくなるような光景ですが、一禎・啄木親子の場合は悲劇的です。その因って来たるところは前回見たように啄木自身があざやかに書いています。ただし啄木には自明の事でも読者に分からない事があります。父一禎の事です。

すでに「飄然と家を出でては」や「ふるさとの父の咳する度に斯く」の歌のところで一禎について少し書きました。必要と思う方はもう一度読んでみて下さい。

一禎は数え年5つで実家と地続きの寺・大仙院に預けられたと言われています。満年齢でいえば3つか4つで、裏の家には母親がいるのは分かっているでしょうに、寺に預けられた幼児。その不憫さに涙が出ます。さいわい後に葛原対月という僧に可愛がられ、その妹カツを妻としますが、一禎が知っているのは僧侶としての考え方・生活の仕方だけです。しかも時代に取り残されたような岩手県の寒村にある寺の僧侶でした。

ただし宝徳寺の住職として村で暮らしている限りは、勢力もあり貫禄もある文人僧侶だったようです。しかし寺を追われて東京に出てくれば陸に上がった河童も同然でした。二階二間の一部屋に家族とともに1日暮らしても、することは無く、考えるべきことも無く、外に出ることもできず。おまけに一禎という人は酒と女と肉が好きという生臭の面も色濃く持っていますから、1日の楽しみは当時の日本人には非常な贅沢である晩酌。

このような父と、時代閉塞の現状との対決に進み出ようとする息子とが、日本史上でもっとも急激な変化の時代の集約点である東京で「静かに対ふ」ときの「気まづさ」。

その様子を啄木がこれ以上ないくらい深く鋭く活写しているのをすでに見ました。

ロシアの作家ツルゲーネフに「父と子」という小説があります。父の代の旧弊を容赦なく批判し嘲笑うニヒリストのバザーロフが主人公です。啄木が歌で「親と子」といい、日記で「父と子」という時この小説が念頭にあることは明らかです。

啄木は「気まづさ」の原因を知り尽くしています。しかし歌では原因を読者に考えてもらおうとします。父がこの歌を読んだ時に父を傷つけないように「親と子」とぼかしたのであろうと思われます。

<解釈>父と息子が離れ離れの心をいだいて、ものも言わず向かい合う時、気まずい空気が生ずるのはどうしてだろう。

急激な変化の時代には特に、世代間の考え方に落差が生じます。啄木の時代同様現代もまた変化が急激です。まったく同じ問題が生じています。一見啄木一家の問題のように見えるこの歌は、実は歴史を貫通して普遍的な問題特に現代とは深く共通する問題を孕んだ歌なのです。

啄木短歌のすごさをまたしても実感させられました。

2009年9月 5日 (土)

親と子と

     親と子と

     はなればなれの心もて静かに対ふ

     気まづきや何ぞ

<ルビ>対ふ=むかふ。何ぞ=なぞ。

初出は1910年(明43)4月7日の東京朝日新聞。「親と子とはなればなれの心もて食卓に就く気拙かりけり」が初出のかたちです

「親と子」は啄木と京子、母と啄木、父と啄木、父母と啄木の4通りが思い浮かびますが、京子はまだ満3歳と4ヵ月。これは外してよいでしょう。父母対啄木、これも考えにくい構図です。外しましょう。

母と啄木。これは考えられる関係です。上田博氏はそう考えていますが、わたくしも漠然と今日の今日までそう考えて来ました。しかしいつも微かに引っかかるものがありました。啄木と母はたとえば妻・嫁の節子を間にした争いになっても、二人が「はなればなれの心もて静かに対ふ」という構図にはなりにくい気がするのです。

岩城氏の解釈がよいヒントをくれました。こう書いています。

食卓に向かう家族のある日の気まずさを歌ったもの。この歌の作られた当時は父一禎が野辺地より上京していたので家族は五人となり、狭い二間の生活になにかと気まずい空気が流れていた。両親と同居する貧しい間借生活の哀歓がにじみ出ている。

わたくしの念頭に父の上京はまったくありませんでした。しかしこの歌を作った当時、確かに父が前年末に上京し、以後同居していました。「親と子」を父と子と考えるならこの歌はすらすらと解けます。

岩城氏は「家族」5人(ないし4人)の関係と解釈していますが、啄木は「親と子」と限定していますから、ここは「父と子」と考えるべきでしょう。

日記「明治四十三年四月より」の4月1日の記述によると啄木はこの日の夜、父と妻と子を浅草につれて行きたっぷり遊ばせます。そしてこう記します。

父が野辺地から出て来てから百日になる。今迄に一度若竹へ義太夫を聞きにつれて行つたきりだ。今夜は嘸面白かつた事だらう。――悲しい事には。/人間が自分の時代を過ぎてかうまで生き残つてゐるといふことは、決して幸福な事ぢやない。殊にも文化の推移の激甚な明治の老人達の運命は悲惨だ。親も悲惨だが子も悲惨だ。子の感ずることを感じない親と、親の感ずることを可笑がる子と、何方が悲惨だかは一寸わからない。/物事に驚く心のあるだけが、老人達の幸福なのかも知れない。/母の健康は一緒に散歩に出るさへも難い位に衰へた。

4月3日の日記には

喜劇『父と子』(一幕二場)の概略の筋出来上がる。

と記し、さらにその「概略の筋」を記した後にこう書いています。

古い教育を受けた人達は笑はねばならぬ。同時に又、それらの人達に反抗する子も笑はれねばならぬ。笑つて笑つて此の喜劇の幕が下りた時、真の明治の文化が幕を明けなくてはならぬ。/明治に於ける最初の真の喜劇は時代の一切を笑ふ事だ。

掲出歌を作った時とこれらの日記を記したのはほぼ同時と思われますから、「親と子」は「父と子」であること、1日と3日の日記は歌の解釈の有力な資料であることを確認してよいでしょう。

続きは次回にまわします。わたくしは9月5日~7日国際啄木学会函館大会に参加します。そのあと乙部町に行きますので、帰宅は8日夜となります。したがって次回の記事は9日か10日になると思います。

2009年9月 3日 (木)

けものめく顔あり口をあけたてす

     けものめく顔あり口をあけたてす

     とのみ見てゐぬ

     人の語るを

こんな経験のある人は少ないのではないかと思われます。私は一度だけ経験しています。もう50年も前のこと。中学・高校・大学と同じ学校の先輩と2人で飲みながら話していました。酔いが回ったのか、突然先輩の声が聞こえなくなって、ただ先輩の口が動いている(口を開け閉てしている)のです。先輩は私が聞いているものと思って話しているのですが、私は聞いている振りをしながら、なにか別世界にいるのです。

よく考えてみると、われわれは同様の心理(心の姿)を頻繁に経験しています。

対話中に対話内容とはかけ離れたことを考えている自分、あるいは一瞬とんでもないことを考えている自分、を意識することはありませんか。まして熱心に参加している振りをして朝の集まりや会議中に心の中ではなにを考えているやら。

啄木は人間にだけ特有のこうした心理を掲出歌のような経験の中にも見出してうたったのだと思われます。それは次の39ページの二つの歌にも共通のモチーフが見出せることで確かなものになります。とすると38ページの前の歌「死ね死ねと己を怒り」の歌の読みも深める必要が出て来ます。

対話中に、朝の集まりで、会議中に、あるいは何食わぬ顔で道を歩きながら、どんなことを考えたか、思い出してみて下さい。絶対に口に出来ないことが何と多いことか!

表情や行為、それとは乖離して存在する心。啄木は人間のそうした心理をみごとに意識し、歌にしたのです。

<解釈>目の前に獣のような顔があって口を開けたり閉めたりしていらあ、ということしか考えずに、人がしゃべるのを見ていた。

2009年9月 1日 (火)

ブログを再開します。 死ね死ねと

長らく中断させていただきました。1ヵ月間の中断にもかかわらず用件はさっぱり片づかず、本もほとんど読めず、疲れもあまり回復しませんでした。中断をさらに延長したいと思いました。

しかし1ヵ月前のアクセス数合計(4月-7月)が2223だったのに、中断1ヵ月後の8月31日のアクセス数合計(4月-8月)は4338に跳ね上がっていました。覚悟しました。今日から再開します。さしあたり週に2回位のペースでゆこうかと思います。

8月30日の総選挙とその開票結果は痛快でした。古人は「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と言いましたが、自民党の驕りは長かったのか短かったのか。過ぎてみると「久しからず」だったという気になります。民主党は内部に前原氏のような右の人間を抱え、小沢氏のような金権体質を抱えています。わたくしは期待と疑惑が半々というところです。でも自民党を日本国民が払い落としたのは快挙でした。

今日9月1日のしんぶん赤旗9面に「石川啄木とプレカリアート」という小文が載りました。お手近でご覧いただけるといいのですが。

     

     死ね死ねと己を怒り

     もだしたる

     心の底の暗きむなしさ

<ルビ>己=おのれ。

<語意>もだす=黙る。

再開第1首目としてはずいぶん重い歌です。初出は東京毎日新聞1910年(明43)4月24日。作ったのは4月20日前後と言うことになりましょう。このころの悩みといえば「かなしきは/飽くなき利己の一念を/持てあましたる男にありけり」の「その1、その2」で述べたような悩みでしょうが、ここの悩みはもっと暗く、1908年(明41)6月~09年6月のある時点での心の姿をうたったものと思われます。

「死ね死ね」は、自分がもう一人の自分に向かって発している言葉。初めの「自分」はこうありたいという自分でしょう。「もう一人の自分」は初めの「自分」が許せないほどにだめな自分でしょう。そういう自分とは啄木の場合「どうしても小説が書けない自分」のことです。

「どうしても小説が書けない自分」をどうしてそんなに許せないのか。

15歳ころから信じてきた自分の文学的天才、その天才実現のための7、8年間にわたる壮絶な悪戦苦闘。「小説が書けなければ」自分は天才ではなく凡才であることになり、悪戦苦闘はまったく無に帰するのです。

だから「小説が書けない自分」の存在だけはどうしても許せないのです。死ね!

前に書いたように啄木はどうしても自殺できない(自分で自分を殺せない)人間です。したがって、「死ね死ねと」小説が書けない「己」を責めても、結局黙るしかないのです。そうするとそこに残るのは・・・・

<解釈>「死ね死ね」と小説を書けないだめな自分を責め立ててみても、その自分を殺すことはできない。結局黙ってしまうしかない。黙った時に心の底にわだかまるのは暗い虚無すなわち絶望。

« 2009年7月 | トップページ | 2009年10月 »