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2009年9月23日 (水)

何がなしに/息きれる

     何がなしに

     息きれるまで駆け出してみたくなりたり

     草原などを

<ルビ>草原=くさはら。

この歌を初めて読んでからすでに55年。つい2、3日前まで啄木の盛岡中学時代の感覚をうたったものだろうと、漠然と思ってきました。

ところがこのブログを書くために作歌時期を調べると1910年(明43)「8月3日夜-4日夜」とあり、初出は東京朝日新聞の同年8月14日。2句が「息切れるまで」

どうやら昔の心境ではなく、「8月3日夜-4日夜」に近い時期の心をうたったもののようです。つまりそのころ鬱屈があって、その鬱屈からほんのひと時でも脱出したくなった、その方法として「息きれるまで駆け出」すことを思いついた、という心持ちをうたったのでしょう。

そうなるとやっぱりその鬱屈がどんな鬱屈だったのかをさぐる必要が生じます。すぐ思い浮かぶのは、7月後半に「所謂今度の事」という評論を書き東京朝日新聞に寄稿しましたが(おそらく26日に)ボツになった、という事情です。

この評論執筆の目的は新聞を通じて、日本人に大逆事件の内容と思想的背景とを知らせ、あわせて厳重な取調を受けている事件の被告たち分けても幸徳秋水を間接的に弁護することにありました。もちろん権力の言論弾圧を十分に計算し、ぎりぎりのところを書いています。そのレトリックは老獪と言いたくなるほど巧みでした。(「所謂今度の事」の読み方その他については小著『『一握の砂』の研究』〈おうふう、2004年〉第Ⅱ部第三章参照)

しかし編集長代理の弓削田精一はこんな危険な文章は載せられないと判断しボツにします(注*)。その26日の夜から啄木はしばらく中断していた歌作を再開します。26日10首、27日5首、そして8月3日夜-4日夜24首。ストレスが強くなると歌が湧き出すのは啄木の特徴的なパターンです。

以上の流れからすると掲出歌に潜む「鬱屈」の内実はやはり、大逆事件をめぐる言論が圧殺されていることによって生じたストレスと言うことになりましょう。「草原などを」思いっきり駆ける、などと爽やかなイメージを伴ってうたわれるとそんな深刻な鬱屈は想像できませんが。

<解釈>なんという息苦しい時代なのだ。なんだか、息が切れるところまで思いっきり駆け出してみたくなった。それもひんやりとして緑あざやかな草原などを。

この8月の末近く啄木は「所謂今度の事」とは別の切り口の評論で闘おうと「時代閉塞の現状」を書き始めます。

心が晴れないでふさぎ込むと、その状態から脱出したくなるのは人間に普遍的な心理でしょう。そのために、散歩、ハイキング、登山などたくさんの方法が考えられています。掲出歌の方法はじつに簡単で効き目もありそうです。ただし、草原などが身近にあって、年も若いならばの話ですが。ともあれこの歌はいつの時代の誰にでも通じる心をうたっています。

注* 弓削田は「所謂今度の事」の原稿をくずかごに放り込むかわりに家に持ち帰ります。そして秘蔵します。1937年(昭12)68歳で亡くなるとき、いつか世に出て読まれることを願ってこれを友人に預けます。弓削田の願いが叶ったのは1957年のことでした。

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