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2009年9月 3日 (木)

けものめく顔あり口をあけたてす

     けものめく顔あり口をあけたてす

     とのみ見てゐぬ

     人の語るを

こんな経験のある人は少ないのではないかと思われます。私は一度だけ経験しています。もう50年も前のこと。中学・高校・大学と同じ学校の先輩と2人で飲みながら話していました。酔いが回ったのか、突然先輩の声が聞こえなくなって、ただ先輩の口が動いている(口を開け閉てしている)のです。先輩は私が聞いているものと思って話しているのですが、私は聞いている振りをしながら、なにか別世界にいるのです。

よく考えてみると、われわれは同様の心理(心の姿)を頻繁に経験しています。

対話中に対話内容とはかけ離れたことを考えている自分、あるいは一瞬とんでもないことを考えている自分、を意識することはありませんか。まして熱心に参加している振りをして朝の集まりや会議中に心の中ではなにを考えているやら。

啄木は人間にだけ特有のこうした心理を掲出歌のような経験の中にも見出してうたったのだと思われます。それは次の39ページの二つの歌にも共通のモチーフが見出せることで確かなものになります。とすると38ページの前の歌「死ね死ねと己を怒り」の歌の読みも深める必要が出て来ます。

対話中に、朝の集まりで、会議中に、あるいは何食わぬ顔で道を歩きながら、どんなことを考えたか、思い出してみて下さい。絶対に口に出来ないことが何と多いことか!

表情や行為、それとは乖離して存在する心。啄木は人間のそうした心理をみごとに意識し、歌にしたのです。

<解釈>目の前に獣のような顔があって口を開けたり閉めたりしていらあ、ということしか考えずに、人がしゃべるのを見ていた。

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