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2009年9月22日 (火)

よく笑ふ若き男の

     よく笑ふ若き男の

     死にたらば

     すこしはこの世のさびしくもなれ

前の歌が「もどかし」さからの脱却願望をうたったとすれば、この歌は「この世」からの脱出を空想する歌、ということになりましょうか。

初出は「スバル」1909年(明42)5月号。つまりローマ字日記のころの作品で、もう何度も出て来ている「莫復問」中の1首です。

初出の形は4、5句が「少しこの世の淋しくなれかし」。

「よく笑ふ若き男」は啄木自身ですが、これをめぐって以下の事情が見えてきます。

啄木は快活な人で自分もよく笑い人をもよく笑わせる人でしたが、この歌を作ったのは生涯で一番苦しんだローマ字日記の時期、頼みにしていた文学的天才という自信が今や崩れようとしてしていた時期でした。さすがにそうそうは笑わなかったようです。ところが4月22日の日記にこうあります。

Yoru, Kindaichi kun to katari, Uta wo tsukuri, 10ji goro mata Kindaichi kun no Heya e itte, tsukutta Uta wo yonde O-warai. San-zan huzake-chirasite, oosawagi wo [shi] kaette kite neta.

この時大笑いした歌というのはたとえば次のような歌でしょう。

今日も亦をかしき帽子うちかぶり浪漫的(ロマンテイツク)が酒のみに行く

暇あれば若き女の顔を画く男なりしが博士になりぬ

上は吉井勇を、下は平野万里をおちょくった歌と思われます。場の雰囲気で一旦笑い出すと笑いの連鎖が起きてとまらなくなる時があります。この時も啄木のへなぶり歌が次々と飛び出し、二人の間に O-warai の連鎖が起きたのでしょう。

部屋に帰って床に入れば、小説を書けなくて懊悩する自分にもどります。さっきのよく笑いよく笑わせた自分が空しくなります。そこでふっと自分の死(自殺)=「この世」からの脱出を想像します。今の自分が死んだと仮定しても、父母や妻や友人がかなしんでくれるかも知れないが、「この世」にとっては何事でもないだろう、と思います。

翌日掲出歌(初出の形)を作ります。

<解釈>よく笑いよく人を笑わせる、才能もけっこうある若い男、と見られている自分だけれど、もしここで自殺したらどうなるだろう。「この世」における自分の存在感の希薄さからすれば、死んでも「この世」は何にも思わないだろうな。「少しは・・・さびしくもな」ってくれよ。

「もしも自分が死んだら・・・・」と空想することありません?

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