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2009年10月

2009年10月27日 (火)

路傍の切石の上に  その2

     路傍の切石の上に  その2

銀座の切石の鋪道の脇に立ち止まり、人の行き過ぎるのをよそに、腕を拱んで空を見上げている男があった、いうのでしょう。

ところで今読んでいるのは「我を愛する歌」という章です。この章では11ページの「わが泣くを少女等きかば」以下の全ての歌は啄木自身の「心の姿」をうたっているはずなのです。

と言うことはこの「男」は啄木自身であり、歌は啄木の自画像(啄木の心の姿の1つ)と理会すべきことになります。作歌時の啄木の心を探ってみる必要が出てきます。

「学生」1910年(明43)6月号に載った歌ですから、作歌は5月でしょう。そのときのかれは深い思想上の悩みにさいなまれていました(本ブログ「かなしきは/飽くなき」その1とその2をもう一度お読みください)。この歌の「男」=啄木はおそらくその同じ悩みをもてあまし、出勤時か退社時の銀座の鋪道の上に立ち止まってしまったのでしょう。そして腕を拱んで空を見上げてしまったのでしょう。

<解釈>銀座の敷石の歩道の脇で、通り過ぎる人々をよそに、腕を腕を拱んで空を見上げている男があった。その男はつきまとう「利己の一念」をもてあまして思い悩むわたし自身であった。

学生時代食費がなくて昼飯が食えず、下宿を出てアスファルトの道に目を落としてほっつき歩いていた時のことを今ふっと思い出しました。あちこちの電柱には「ご皇孫(現皇太子)ご誕生」のビラが貼ってある日でした。突然質屋の前に出て、「そうだ、このオーバーがある!」と気づき質屋ののれんを分けました。そのコートを質草に昼飯にありつきました。空を見上げるどころか、腕を拱むどころか、思想上の悩みを悩むどころか、ただひもじくて歩いていたのですが、この歌を解釈しているうちに、なんだかその日を思い出しました。

<付記>木股知史氏がすでに、「切石」は「敷石」であること、歌は「街歩きの歌」であることを読み取っておられ、また「街で放心を感じる自己像をとらえたとすることもできる」との解釈を示しておられます。木股知史注釈「一握の砂」(『和歌文学大系 77』〈明治書院、2004年〉)37ページ。

2009年10月26日 (月)

路傍の切石の上に  その1

     路傍の切石の上に

     腕拱みて

     空を見上ぐる男ありたり

<ルビ>路傍=みちばた。切石=きりいし。拱み=くみ。

<語意>切石=敷石。石畳。

「切石」の意味を調べることなく、道路際の空き地に置いてある複数の四角の石材の1つだろうと、永年にわたって読んでいました。しかし「切石の上に」は「切石の上に腰かけて」か、「切石の上に立って」かと考えているうちに、はたと疑問が生じました。

どちらにせよ「腕拱みて」と合う動作でなくてはなりません。本ブログ「浅草の凌雲閣のいただきに」でも述べましたが、「腕拱みて」は何もしないための動作あるいは何もしないことを表す動作です。そうすると「切石の上に立って」では合いません。わざわざ切石の上に立ってぼんやりと腕を拱むのでは絵になりません。

「切石の上に腰かけて」でも合いません。「空を見上」げようとすると、背筋が伸びる姿勢となります。「腕拱みて」と合わないのです。

そこでようやく愛用の新潮現代国語辞典を開きました。「切石」の語釈の③に「敷石」とあり、用例として「路傍の―の上に腕拱みて〔一握の〕」とあるではありませんか。これで解決です。「男」は(敷石で舗装した)道路の脇の敷石の上に立っているのです。

ところで当時の街路には敷石の道路がそうそうあるものではないようです。ここで、確認に3時間近くかかりましたが、次のようなことが分かりました。

銀座がもっとも早く車道と歩道に分けたこと(歩車分離)。その歩道には「煉瓦石」を敷き詰めたこと。その歩道はまもなくみすぼらしくなったこと(以上野口孝一『銀座物語』)。明治44年頃の銀座4丁目付近の歩道(写真)は明らかに煉瓦ではない敷石が使われていること(林順信『東京・市電と街並み』)。丸の内新市街三菱2号館にも立派な敷石の歩道があること(玉井哲雄・石黒敬章『よみがえる明治の東京』)など。

さて啄木の日常生活において敷石の街路(神社仏閣の道路ではなく)を歩くとすれば職場・東京朝日新聞社のある銀座の歩道と考えてよいかと思います。調べている内に思いついて啄木のエッセー「きれぎれに心に浮んだ感じと感想」を繙きました。つぎの1文がありました。場所は銀座です。

並木! 私は並木が好きだ。/ と、其並木の下を、高価な焦茶色の外套を着た一人の老紳士が、太目の洋杖(ステツキ)を鋪石(しきいし)に鳴らしつつ、静かに行きつ戻りつしてゐた。

以下次回のまわします。

2009年10月23日 (金)

つかれたる牛のよだれは

     つかれたる牛のよだれは

     たらたらと

     千万年も尽きざるごとし

作歌は1908年(明41)10月23日。新詩社で「つかれ」という席題が出ていて、それに合わせて作ったようです。

牛の胃は4つに分かれていて、食べたものは第1の胃と第2の胃に入り、これをもう1度口に戻してかみ直し(反芻)、そのあと、第3の胃、第4の胃に送られます。第4の胃が胃液を分泌する本来の胃なのだそうです。したがって牛は「つかれた」から「よだれ」を垂らすのではなく、反芻に伴う生理現象としてよだれを垂らすのです。

しかし啄木は「つかれ」という題から、つかれた牛→垂れ続けるよだれ、を連想したようです。したがってこの歌には「つかれ」のイメージが込められていることになりましょう。

初出は佐佐木信綱の主宰していた「心の花」の08年12月号。2句「牛の涎は」、5句「つきざる如し」となっています。

この歌を、啄木はよほど気に入っていたと見えて、そのあと、「敷島」(09年2月号)、「スバル」(09年5月号)にも載せています。つまり3つの雑誌に載せて、最後に『一握の砂』に収めたということです。

今読んでいる「我を愛する歌」という章には、「日常生活における啄木の心の姿百態が集められている」のでした(テキスト2ページ)。したがってこの歌も牛を通して自分を、それも自分の心を、うたっていることになります。

今井泰子さんの次の訳が非常に参考になります。「あれこれ悩み思惟しているつもりでも結局はさして変化も意味もなく、ただだらだらといつまで続くか果ても知れない俺の心よ。」

3つの雑誌にこの歌を載せたころの啄木の心の姿がよく写された訳だと思います。

<解釈>もう考えることにも小説を書くことにもつかれてしまったぼくは、何をしても何を試みてもマンネリズム。つかれた牛のよだれと同じで際限もなく似た考え、似た試みが出てくるだけだ。

牛のよだれのイメージによって自分の心の姿を自覚した、とも言えましょう。

人間誰しも思考や試行の堂々めぐりに苦しむことがあるもの。そんな時この歌のようにユーモラスに自らを嘲ってみるのも、マンネリ脱出の一法かも知れません。

2009年10月20日 (火)

とかくして家を出づれば

     とかくして家を出づれば

     日光のあたたかさあり

     息ふかく吸ふ

<ルビ>出づれ=いづれ。

<語意>とかく=なにやかや。

初出は東京毎日新聞1910年(明43)4月24日。作歌も4月中下旬でしょう。

「とかくして」によって、まず家の中にいた時作者はなにやかやと用事をしていたことが分かります。

家を出たとたん、作者は日光の明るさ・暖かさを全身に感じ、それを胸一杯に吸い込みます。その明るさ・暖かさは、なにやかやしていた時の家の中には無いものであることを、反射的に自覚させたのでしょう。だからこそ、「息ふかく吸」ったのでしょう。

上田博氏の鑑賞を引かせていただきます。

心身のこの上ない快感が、一、二句に暗示される室内の、何かごたごたした、雑多な、心を煩わすことと対照的に提示されて、具体的な出来事の一片をも描くことなく、ある生活上の陰影を表すことに成功しているのである。戸外での身体のぐっと伸びするイメージが、暗い室内で思い屈する心の様子と同時に喚起されるのである。

今井泰子氏は歌の中の「家」に「作者を拘束する暗い現実」を見ていますが(上田氏も「思い屈する心の様子」を見ています)、うがった読み方で魅力的です。たしかに、床屋の2階の6畳2間に5人家族が住む家で、家族のトラブルに捲き込まれたかして、それから家を出たということも考えられます。

しかしもう少し軽くとるのもいいと思います。啄木は校正という仕事の性質上昼頃家を出て出勤すればよかったので、午前中家でいろいろ仕事をする(あるいは用をたす)時間がありました。つまり「とかく」する時間がありました。

<解釈>なにやかやと用事をして(たとえば手紙を書くとか、歌を作るとか)、家を出ると、春の太陽が明るく暖かくわが身に降り注ぐ。わたしはそれを胸一杯に吸い込む。思えばこの明るさ・暖かさはわが家の中には無いものだった。

前の歌とのモチーフの共通性をいうなら、「・・・の自覚」とでも言えましょうか。

2009年10月18日 (日)

時ありて

     時ありて

     子供のやうにたはむれす

     恋ある人のなさぬ業かな

<ルビ>業=わざ。

<語意>時ありて=何かの拍子に(近藤の意訳)。恋ある人=恋をしている人。

初出は東京朝日新聞1910年(明43)3月19日、3句「戯(たはぶ)れす」。

啄木は時に24歳。当時にあっては押しも押されもせぬ一人前の男、しかも5人家族の主です。それが時として子供のようにふざけたりするのです。そのたびに自分の中に潜む軽薄さを自覚し、少し反省するのでしょう。

<解釈>何かの拍子にいい年をした男が子供のようにふざけたりする。どうして年甲斐も無いことをするんだ? 私に軽薄さがあるからだ。たとえば恋をしている男なら恋人を鏡として、軽薄さが表れないように自分を持するだろう。ところがどうだ、私のこの軽さは。

「ああ、馬鹿なことをした、年甲斐もない」とひそかに嘆くのは私のような小人にはよくあること。そのたびに自分のそうした面を自覚させられるのですが、直せない。

2009年10月16日 (金)

こそこその話がやがて高くなり

     こそこその話がやがて高くなり

     ピストル鳴りて

     人生終る

初出は前歌と同じ。2句目は「話声(はなし)が」。

全くの空想歌です。誰の「人生(が)終る」のか。自分の人生が、です。つまり自殺の歌です。では誰と「こそこその話」をしているのか。前の歌との関係で言えば、友人でしょう。「おれは死ぬ」「馬鹿なことはよしなさい」のようなやり取りがあって、自分がだんだん興奮して行き、友が思いとどまらせるために必死になり・・・・、それが「やがて高くなり」でしょう。そしてついにパーン、わが人生はかくて終わった。

<解釈>ピストルをこめかみ(?)に当てて、「おれは死ぬ」。友人は驚いて「馬鹿なことはよしなさい」と止める。だんだんそのやり取りの声が高くなっていった時、自分は引き金を引く。パーン、わが人生はかくて終わる。

42、43ページの見開きにもちゃんとモチーフがありました。「思いつめる」がそれです。

1首目は「わけもなきこと」を「まじまじと」思いつめた歌。

2首目は自分の今後を思いつめた歌。

3首目は小説が書けないことを思いつめた歌。

そして思いつめた挙げ句を空想した歌。

「思いつめる」というモチーフが次第に高まるように配列してあります。みごとな編集です。

2009年10月15日 (木)

尋常のおどけならむや

     尋常のおどけならむや

     ナイフ持ち死ぬまねをする

     その顔その顔

心ならずも1週間このブログを空けてしまいました。今週はせめて2日に1回の割で出したいと思います。

さて、掲出歌ですが、初出は「スバル」1909年(明42)5月号で「莫復問」のうちの1首です。

4月16日のローマ字日記がこの歌の解釈を容易にしてくれます。以下に梗概と内容の一部を記しましょう。

4月16日、前夜3時まで貸本屋から借りた江戸時代末期の春本「花の朧夜」を筆写していた。(この春本至るところにセックス描写があり、独身生活の若い男なら興奮も頂点に達することまちがいなし。)小説が書けない苦し紛れにこんなことをしているのだ。朝いやーな気分で目が覚めると枕元に手紙がおいてある。宮崎郁雨が母と節子と娘京子を連れて上京したい、と書いてある。啄木は「死にたくなる」。自分が下宿を追い出されそうなのに家族が3人も増えてはどうなることぞ! そして会社を休んで春本の続きを筆写する。夜金田一が励ましにきてくれる。さんざんふざけちらしてかれを部屋に帰す。そして

Soshite sugu Pen wo totta.30 pun sugita. Yo wa Yo ga tôtei Shôsetsu wo kakenu Koto wo mata Majime ni kangae neba naranakatta. Yo no Mirai ni Nan no Kibô no nai koto wo kangaeneba naranakata.

(啄木がローマ字日記の中で決して書かなかったのが、太字にした部分です。ローマ字日記の中でだだ一度、ただ一箇所書いたのがここです。「自分は結局小説が書けない!」啄木にとってこれを考えるほど恐ろしいことはありません。)

啄木はペンを捨てて金田一の部屋に行く。そしてあらん限りの馬鹿真似をする。挙げ句の果てに

soshite Saigo ni Yo wa Naifu wo toriagete Shibai no Hito-goroshi no Mane wo shita. Kindaichi kun wa Heya no soto ni nigedashita! Ah! Yo wa kitto sono toki aru osoroshii koto wo kangaete itatta ni Sôi nai!

Yo wa sono Heya no Dentô wo keshita, soshite To-bukuro no naka ni Naifu wo furiagete tatte ita! ――

Futari ga sara ni Yo no Heya de kao wo awashita toki wa, dotchi mo Ima no koto wo akirete ita. 

啄木が生涯で最大の狂気を発した時です。啄木はその事実をぐっとおとなしくして、上の歌にまとめたのです。

<解釈>あれは尋常なふざけ方だっただろうか、いやちがう。ナイフをふりあげて死ぬ(殺す)まねをした時の自分の顔、友の顔 。友はあんなに恐ろしがった。自分はそれほど恐ろしい顔をしていたのだ、小説が書けぬことを思いつめた果てに。

2009年10月 7日 (水)

浅草の凌雲閣のいただきに  その2

     浅草の凌雲閣のいただきに  その2

9月30日(水)の朝日新聞17面は「オピニオン インタビュー」のページで、有名な日本文学研究者ドナルド・キーンさん(87歳)のインタビューが載っています。記事と写真で17面のほとんど4分の3を占める大きなインタビューです。

キーンさんは平安時代から現代までの日記を博捜・研究している方でもありますが、インタビューで石川啄木に触れてこう語っています。

日本文学全体をみると、同じような形式の小説が多いのですが、日記にはそれぞれの個性や人間味が出てきます。たとえば明治時代の日記文学の傑作は石川啄木の『ローマ字日記』だと思います。啄木という個性が実に赤裸々な形で表れています。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』は、日本で同じような教育を受けていなければ、その面白さはなかなか分からない。しかし、(啄木の)日記は極めて普遍的で、人間ならみな同じようなことを感じることがあります。

(啄木の)は私が補いました。そうしないと文意が通じないからです。またキーンさんの言っておられる事は啄木の短歌にもあてはまること、このブログをご愛読のみなさんにはよくご理会いただけるでしょう。

さて、啄木は下宿に帰ってその「ローマ字日記」を綴ります、たとえばこんな風に。

Hito no inai Tokoro e ikitai to yû Kibô-ga,konogoro,toki-doki Yo no Kokoro wo sosonokasu. Hito no inai Tokoro, sukunaku to mo, Hito no Koe no kikoezu, in, Yo ni sukosi de mo Kwankei no aru yô na koto no kikoezu, tare mo kite Yo wo miru Kidukai no nai Tokoro ni, is-syûkan nari, tô-ka nari, ina, iti-niti demo han-niti demo ii, tatta hitori korogatte ite mitai.

「ローマ字日記」は岩波文庫版で読むことができます。桑原武夫の解説も非常に優れています。読む時は必ずローマ字で読みましょう。漢字かな交じり文に起こしたものを読んでも、読んだことにはなりません。ローマ字で読んでいると、そのうちに啄木が魂に刻むペンの軋りが聞こえてくるでしょう。

小著『国家を撃つ者 石川啄木』(同時代社)の第2章がローマ字日記読み方ガイドになっているのですが、もう新本はありません。興味のある方は図書館で借りるか古本を求めるかしてお読みください。

<解釈>浅草の凌雲閣の展望台で、自分の今とこれからをどうしたらいいのか腕を組んで思いつめたのだった。けれどなんの結論も出なかった。あの日下宿に帰ってから書いたローマ字の長い日記よ。

2009年10月 6日 (火)

浅草の凌雲閣のいただきに  その1

     浅草の凌雲閣のいただきに

     腕組みし日の

     長き日記かな

<ルビ>凌雲閣=りょううんかく。日記=にき。

<語意>凌雲閣=テキストの脚注および補注参照。

初出は『一握の砂』。ということは1910年(明43)10月4日~16日の作ということになります。日記を読み返しながら作ったうちの1首です。

浅草→凌雲閣→長い日記、とあれば即ローマ字日記と来そうなものですが、肝心のローマ字日記に凌雲閣に登ったという記述はありません。それ以前の日記(08年の上京後の分)も読み返しましたがありません。だいたい啄木が浅草に行くのは塔下苑が目当てですから、夕方か夜。「凌雲閣のいただき」に登る時間ではなさそうです。しかし凌雲閣にまったく登らなかったとは考えにくいこと。

何らかのたしかな根拠がみつかるまで、一往「日記」はローマ字日記であるとしておきましょう。となると何を思いつめていたのか見当がつきます。「小説が書けない」から始まって、「金がない」→「下宿代が払えない」→「下宿を追い出されたらどうしよう」。あるいは→「自分一身の面倒も見きれない」→「そこへ家族が上京して来る。どうしよう」など。このときのかれは悩みのデパートみたいなものですから「思いつめる」材料に事欠かない、ありさまでした。

25ページ左に「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」がありましたが、そこの「(腕を)くむ」は「拱む」でした。その時「拱」という字について、「拱く」と表記すれば「こまぬく」と読み、「腕を組む。転じて、何もしないで見ている」意なのだと書きました。「腕を拱む」のは、何もしないための動作あるいは何もしないこと示す動作、ということでしょう。

ところが掲出歌では「組む」です。啄木は凌雲閣のいただきで、しっかりものを「思いつめる」ためにあえて意識して腕を「組んだ」と言っているのです。そういえば、考え事をする時の日本人のセットの仕草として「腕を組んで、うーむ、と考える」というがありましたね。

さて、1909年(明42)4月~5月の啄木はいくら「腕組みて」考えても、なんの解決策も出てこないのでした。考えあぐねて、「腕組み」の効果もむなしく、下宿へ帰って「長き日記」をきれいなローマ字でひたすらつづることになります。

ローマ字日記について紹介したいことを思いつきました。それと<解釈>とを次回にまわします。

2009年10月 2日 (金)

ことさらに燈火を消して

     ことさらに燈火を消して

     まぢまぢと思ひてゐしは

     わけもなきこと

<ルビ>燈火=ともしび。

<語意>まぢまぢと(正しくは、まじまじと)=視線をそらさず見つめるさま(広辞苑)。わけもなきこと=たわいないこと。

この歌を作ったのは1910年(明43)7月27日朝。初出はすぐあとの8月7日の東京朝日新聞。初出では3句以下が「まぢまぢと革命の日を思ひ続くる」となっています。

この年の6月、7月啄木はたくさんの社会主義・無政府主義関係書を読んだので、想像力の人並みはずれたかれですから「まぢまぢと革命の日を思ひ続」けるということもやったでしょう。

ところが『一握の砂』に収める時に掲出歌のようにあらためました。まったく別の歌になりました。そして42、43ページの見開き4首に共通のモチーフをもたらします。

<解釈>わざとランプを消して、暗がりの一点をじっと見つめて思っていたのは、じつはたわいのないことであった。

人は誰も思いつめた経験をたくさん持っているものです。友情、受験、就職、恋愛、結婚、子育てなどなどをめぐって思いつめる経験をしなかった人はいないでしょう。思いつめるのはまじめな事柄ばかりとはかぎりません。男が女を、女が男をめぐってとんだ妄想をひたすら追求することもあるでしょう。啄木がまじまじと思っていたのは「わけもなきこと」だったと言いますから、それでいいわけですが、あるいは「革命の日」の空想を後になって考えると「わけもなきこと」と思ったのかも知れません。

この歌に始まる42、43ページの見開きは「思いつめる心」シリーズです。

「まぢまぢ」について。すでに今井泰子さんが指摘していますが、正しくは「まじまじ」です。

いろんな辞典に当たってみると「まじまじ」のもともとの意味は「目をしばたたくさま」です。ところが新潮現代国語辞典は北原白秋の詩集『思ひ出』にある「光眺めてまじまじと」を用例として、「じっと見つめるさま」という意味を立てています。啄木の「まぢまぢ」も同様の用例でしょう。

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