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2009年10月20日 (火)

とかくして家を出づれば

     とかくして家を出づれば

     日光のあたたかさあり

     息ふかく吸ふ

<ルビ>出づれ=いづれ。

<語意>とかく=なにやかや。

初出は東京毎日新聞1910年(明43)4月24日。作歌も4月中下旬でしょう。

「とかくして」によって、まず家の中にいた時作者はなにやかやと用事をしていたことが分かります。

家を出たとたん、作者は日光の明るさ・暖かさを全身に感じ、それを胸一杯に吸い込みます。その明るさ・暖かさは、なにやかやしていた時の家の中には無いものであることを、反射的に自覚させたのでしょう。だからこそ、「息ふかく吸」ったのでしょう。

上田博氏の鑑賞を引かせていただきます。

心身のこの上ない快感が、一、二句に暗示される室内の、何かごたごたした、雑多な、心を煩わすことと対照的に提示されて、具体的な出来事の一片をも描くことなく、ある生活上の陰影を表すことに成功しているのである。戸外での身体のぐっと伸びするイメージが、暗い室内で思い屈する心の様子と同時に喚起されるのである。

今井泰子氏は歌の中の「家」に「作者を拘束する暗い現実」を見ていますが(上田氏も「思い屈する心の様子」を見ています)、うがった読み方で魅力的です。たしかに、床屋の2階の6畳2間に5人家族が住む家で、家族のトラブルに捲き込まれたかして、それから家を出たということも考えられます。

しかしもう少し軽くとるのもいいと思います。啄木は校正という仕事の性質上昼頃家を出て出勤すればよかったので、午前中家でいろいろ仕事をする(あるいは用をたす)時間がありました。つまり「とかく」する時間がありました。

<解釈>なにやかやと用事をして(たとえば手紙を書くとか、歌を作るとか)、家を出ると、春の太陽が明るく暖かくわが身に降り注ぐ。わたしはそれを胸一杯に吸い込む。思えばこの明るさ・暖かさはわが家の中には無いものだった。

前の歌とのモチーフの共通性をいうなら、「・・・の自覚」とでも言えましょうか。

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