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2009年10月23日 (金)

つかれたる牛のよだれは

     つかれたる牛のよだれは

     たらたらと

     千万年も尽きざるごとし

作歌は1908年(明41)10月23日。新詩社で「つかれ」という席題が出ていて、それに合わせて作ったようです。

牛の胃は4つに分かれていて、食べたものは第1の胃と第2の胃に入り、これをもう1度口に戻してかみ直し(反芻)、そのあと、第3の胃、第4の胃に送られます。第4の胃が胃液を分泌する本来の胃なのだそうです。したがって牛は「つかれた」から「よだれ」を垂らすのではなく、反芻に伴う生理現象としてよだれを垂らすのです。

しかし啄木は「つかれ」という題から、つかれた牛→垂れ続けるよだれ、を連想したようです。したがってこの歌には「つかれ」のイメージが込められていることになりましょう。

初出は佐佐木信綱の主宰していた「心の花」の08年12月号。2句「牛の涎は」、5句「つきざる如し」となっています。

この歌を、啄木はよほど気に入っていたと見えて、そのあと、「敷島」(09年2月号)、「スバル」(09年5月号)にも載せています。つまり3つの雑誌に載せて、最後に『一握の砂』に収めたということです。

今読んでいる「我を愛する歌」という章には、「日常生活における啄木の心の姿百態が集められている」のでした(テキスト2ページ)。したがってこの歌も牛を通して自分を、それも自分の心を、うたっていることになります。

今井泰子さんの次の訳が非常に参考になります。「あれこれ悩み思惟しているつもりでも結局はさして変化も意味もなく、ただだらだらといつまで続くか果ても知れない俺の心よ。」

3つの雑誌にこの歌を載せたころの啄木の心の姿がよく写された訳だと思います。

<解釈>もう考えることにも小説を書くことにもつかれてしまったぼくは、何をしても何を試みてもマンネリズム。つかれた牛のよだれと同じで際限もなく似た考え、似た試みが出てくるだけだ。

牛のよだれのイメージによって自分の心の姿を自覚した、とも言えましょう。

人間誰しも思考や試行の堂々めぐりに苦しむことがあるもの。そんな時この歌のようにユーモラスに自らを嘲ってみるのも、マンネリ脱出の一法かも知れません。

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