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2009年11月

2009年11月28日 (土)

一度でも我に頭を下げさせし

     一度でも我に頭を下げさせし

     人みな死ねと

     いのりてしこと

<語意>いのりてし=祈っちゃった(てし=完了の助動詞「つ」の連用形+過去の助動詞「き」の連体形)。

初出『一握の砂』。したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

「頭を下げさせし人」には、感謝や哀悼の意を表してあるいは日常の挨拶などで、頭を下げた相手はまったく含まれません。なんらかの力を背景に啄木に頭を下げざるを得なくした人、つまり屈辱を強いた人たちが含まれます。

日記を読み返して歌を作っている内に過去の自分の切ない記憶をよみがえらせたのでしょう。まさに掲出歌の内容を。

見開きのここまで3首は、飢え→飢え→寒さと来ましたから、4首目である掲出歌も飢えや寒さと関わる歌ととるべきでしょう。

啄木に「頭を下げ」させた人たちとしてまず浮かぶのは、いくつかの下宿の主人たち。たとえば第一次上京中(1902年11月~03年2月)の03年1月半ばに厳寒の東京市中に着の身着のままで追い出した女主人。そこまで追い込まれるまでに相当の屈辱を強いられたことでしょう。

第二次上京時(1904年11月~05年5月)もほとんど借金と寄食で過ごしたのですから、いくら天才主義を貫徹したとしても、屈辱的なこともいろいろあったでしょう。

最後の上京(1908年4月末)以後も下宿赤心館、蓋平館で下宿料滞納を責められ死ぬほど苦しんだのは、われわれのすでに何度も見ているところ。

借金でも苦しめられたかと思い、例の借金メモを検討してみると、啄木に「頭を下げ」させたと推測しうる人はほとんどいません。いい人たちがほんとうに多い。

啄木はいつの時点でか、「一度でも我に頭を下げさせし人」たちを思い出し、押し寄せてくるような数々の屈辱の記憶に苛まれつつ、「あいつらみんな死んじまえ」と念じたのでしょう(神仏を信じない啄木には祈りを捧げる対象がない)。

<解釈>飢えや寒さの恐怖をちらつかせて、一度でもおれに頭を下げさせたやつら、みんな死んじまえ! と念じちゃったこと(があったな)。

2009年11月26日 (木)

かなしきは(喉の)

     かなしきは

     喉のかわきをこらへつつ

     夜寒の夜具にちぢこまる時

<ルビ>喉=のど。夜寒=よざむ。夜具=やぐ。

<語意>かなしきは=どうにも切ないのは(ブログ「かなしきは(飽くなき)」参照。夜寒=夜の寒いこと。特に、晩秋に夜の寒さをしみじみ感ずること。また、その季節。よさむ。夜具=夜、寝る時に使う用具。布団・まくらなどの総称。

作歌1910年(明43)10月13日。初出『一握の砂』。

10月13日は『一握の砂』創作・編集の最終段階ですが、啄木はこの日になってまた26首を作ります。その中の16首は今読んでいる「我を愛する歌」に収められます。「新しきインクのにほひ」の歌と掲出歌は続けて作られました。おそらく「新しきインクのにほひ」の歌に触発されて、この歌ができたのでしょう。

「餓ゑ」の感覚から「かわき」の感覚へ。

見開きの歌の配列からすれば、餓え→餓え→渇き、と流れてきていますが、掲出歌の内容の重点は渇きではなく、寒さ、にあります。

ちなみに、飢えと寒さをめぐって曹洞宗の開祖道元に次の言葉があります。啄木は幼少年時父一禎から聞かされていたと思われます。

只飢を忍び寒を忍んで一向に学道すべきなり。(正法眼蔵随聞記)

<解釈>どうにも切ないのは、喉は渇くが布団を出る気にはなれぬまま、晩秋の夜の寒さが忍び込んで来る布団の中にひたすら身をちぢめている時だ。

2009年11月24日 (火)

新しきインクのにほひ

     

     新しきインクのにほひ

     栓抜けば

     餓ゑたる腹に沁むがかなしも

<ルビ>栓=せん。餓ゑたる=うゑたる。沁む=しむ。

<語意>栓=コルクか木の栓。餓ゑたる=前歌の「語意」欄参照。も=(詠嘆の係助詞)~ことだ。

作歌は1910年(明43)10月13日夜。初出「精神修養」10年12月号。

今のインクびんの蓋は内側がネジ式になっていますが、当時のインクびんの蓋はコルク栓か木栓であったといいます(今井泰子)。

初めて栓を抜いた時の「インクのにほひ」といっても100年前のにおいは分かりませんが、60年前のインクのにおいなら記憶があります。当時使われていたブルーブラックインクは鉄分を含んでいた(現在も?)せいか、鉄くささのまじった化学薬品風のにおいがしました。鉄くささというのは、口の中を切った時血のにおいがしますが、あれに似たにおいです。インクびんを最初に開けた時のにおいは特に刺激的で印象的でした

歌の内容が、この歌の作られた時期に近い経験であるならば、「餓ゑたる」といっても前歌のように深刻に餓えた状態ではなく、相当腹が減った状態といったところでしょう。1910年は前歌のように「食物がなくて空腹に苦しむ」という貧乏はしていません。たとえば夜中まで仕事をしている時に感じる空腹、といった状態が考えられます。もちろん東京朝日新聞に就職する以前の「食物がなくて空腹に苦しんでいる」状態ともとれます。

ここでは「新しきインク」も買えていることだし、作歌時に近い経験ととっておきます。

それなら啄木は立って行って食べ物を捜して食べればいいではないか、と思う人もあるでしょうか。当時の啄木一家の食生活だと、残りの食べ物といっても釜の底のおこげ位だったろうと思われます。夜中に、家族が寝ていて鍋釜がおいてある隣の6畳間に行きごそごそやって、おこげに塩でもつけて食べるといったことは、やりにくいことでしょう。がまんするしかない情況でしょう。

<解釈>インクがなくなったので新しいインクびんを取って栓を抜くと、鉄くさいようなインクの刺激臭が鼻につんときた。とたんにそれが空腹を刺激して飢餓感を誘発した。切ないことだ。

48ページは「餓ゑたる」切なさの歌からなっていました

2009年11月21日 (土)

友よさは

     友よさは

     乞食に卑しさ厭ふなかれ

     餓ゑたる時は我も爾りき

<ルビ>厭ふ=いとふ。餓ゑたる=うゑたる。爾りき=しかりき。

<語意>さは=そのようには。乞食=生業を持たず、他人に食物・金銭などの恵みを乞うて生活する人。厭ふなかれ=きらってはいけない。餓ゑたる=食物がなくて空腹に苦しんでいる。爾りき=そうだった。

初出は『一握の砂』ですから、この歌を作ったのは1910年(明43)10月4日~16日ということになります。

「友」は特定の友人を指しているのではなく、乞食の卑しさを嫌う人達を「友」で代表させているのでしょう。

1890年代日本の貧民=下層階級に関する調査報告に、松原岩五郎『最暗黒の東京』、横山源之助『日本の下層社会』があり、ともに岩波文庫版で読むことができます。その横山源之助が1912年(明45)5月に書いた論文によると、

東京市の人口の過半数は地方からの流入者で、その大半は地方の中流生活者または中流以下の生活者からなる。その人たちが「あるいは職人の群れに入り、あるいは工場職工となり、あるいは普通労働者となり、または木賃宿に入りて、いわゆる『浮浪階級の人』となるのである。」(中川清編『明治東京下層生活誌』〈岩波文庫〉)

この下層階級の人々のうち「浮浪階級の人」たちの数も膨大で、その生活は悲惨とも凄惨とも形容しがたいものでした。上の3書で克明に生々しく報告されています。

「乞食」はその「浮浪階級」にも入れなかった、最下層の人達です。啄木の住む20世紀初頭日本の産業構造が不断に再生産する最も悲しい姿でした。したがって当時の心ある人達は乞食に同情し、乞食の悲惨を通して日本社会の構造的な悲惨を見ていました。

本ブログ「飄然と家を出でては」「ふるさとの父の咳する度に斯く」でみたように、啄木自身少年時代東京で、ホームレス状態に陥った経験がありました。もともと友人を思う心の篤い啄木でしたが、その時の経験以来、弱者・虐げられた者への同情心は非常に強くなります。

その心と社会主義思想が結びついたのが、1910年の6~7月、この歌を作っている10月にはその結合は確固としたものになっています。

掲出歌の訳はこうしたことを踏まえてなされる必要があります。

<解釈>友よ、乞食の卑しさをきらってはいけない。かれは好き好んでああなったのではない。日本の社会組織・経済組織によって生み出されたのだ。かれも人間ぼくも人間。ぼくだって食物が無くて空腹に苦しんだ時は卑しくならざるをえなかった。

2009年11月13日 (金)

ただひとり泣かまほしさに  その2

     

     ただひとり泣かまほしさに  その2

この歌こそ軽く読むしかないだろう、先行文献にすぐれた解釈があるから、それを借りてお茶を濁そうと思って始めたのでしたが、そうは問屋が卸さない。

歌が作られた時期によって、似たモチーフのようでも内容が全く違ったり、同じ言葉でも含意が全く異なることがあります。探っているうちにご覧のように込み入った事情が歌の内部に見えてきました。訳して見ましょう。

<解釈>自分の時間のほとんどを家族扶養のために用いる自分と、文学に全力を傾注したい自分とを統一しようと、ここ3、4ヵ月がんばって見たが結局不可能だった。一家の主として生活するということは、文学者としての自分をワナにかけるようなものだ。ワナからのがれる道は無いか・・・・。無い。こう考えたら一人きりになって泣いてみたくなった。そこで家に帰らずに宿屋に泊まることにした。その宿の夜具のこころよかったこと!

今井泰子氏が言われたように、この歌の「主題は最後の一句にあり」ます。「ただひとり泣かまほしさに」の分析に力を注いできたのですが、作者がうたいたかったのは宿屋の夜具によって湧いてきた意外な「こころよさ」です。

また今井氏のようにとることで46、47ページの見開き4首もきれいに決まります。

「気になる心」の歌→「逃げ去る心」の歌→「入ってくる心」の歌→「湧いてきた心」の歌と配列されていることになります。

この歌を解釈しているうちにある重要な事情に気づきました。啄木短歌成立にかかわる事情です。

啄木には奇妙なメカニズムの働くときがあります。精神に重圧がかかると、歌が湧き出すというメカニズムです。行き詰まると歌に逃げ道を求める癖がある、と言いかえることもできます。かれ自身詩論「弓町より (四)」(1909年〈明42〉12月4日)でこう書いています。

恰度夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱つたり虐めたりするやうな一種の快感を、私は勝手気儘に短歌といふ一つの詩形を虐使する事に発見した。

「『生活それ自身がワナだ!』さう思ひ到つた時、僕は急にこの世から逃げ出したかつた」と郁雨宛に書いたのは3月13日でした。つまりそのころ啄木はまた行き詰まっていたのです。啄木が東京毎日新聞に初めて新調の短歌を投稿したのは3月10日、東京朝日新聞に投稿したのは3月18日です。両新聞への短歌の投稿(短歌制作)は行き詰まりの産物でもあったということになります。

啄木調短歌の成立はこの3月から4月にかけて(発端は3月上旬、確立は4月下旬)のことですから、なぜこの時期に啄木調短歌が始まったのか、という問いに対する1つの答えが見つかったと言えます。

2009年11月11日 (水)

ただひとり泣かまほしさに  その1

     ただひとり泣かまほしさに

     来て寝たる

     宿屋の夜具のこころよさかな

<語意>泣かまほしさに=泣きたいばかりに。夜具(やぐ)=夜、寝る時に使う用具。布団、まくらなどの総称。

前歌と同じく初出は「創作」1910年(明43)5月号の「手を眺めつつ」。作歌も同じく4月中下旬でしょう。

似たような歌がありました。すでに読んだ22ページ左の「空屋に入り」の歌です。これはローマ字日記の時期の作です(09年4月)。その頃自分にからみつくあらゆる人間関係からのがれたいとの思いがうたわれていました。

198ページ右にもあります。

  今夜こそ思ふ存分泣いてみむと/泊りし宿屋の/茶のぬるさかな

これは1908年(明41)1月厳寒の北海道旭川の旅館に泊まった時のことをうたっています。小樽で失業しさいはての駅の町釧路に落ちて行くときの落魄がかれを泣かせようとします。

さて、掲出歌は1910年(明43)4月の作。これに近い時期にまた「ただひとり泣」きたくなったりしたのだろうか。この時期の啄木にはほぼありえない、と思いました。しかし・・・・。

1910年(明43)3月13日付けの宮崎郁雨宛書簡にこうあるのを見つけました。

「生活それ自身がワナだ!」さう思ひ到つた時、僕は急にこの世から逃げ出したかつた、

と。この悩みについては26ページの歌「こころよく/人を讃めて」のブログで触れてあります(そちらを参照してください)。

「この世から逃げ出し」たくなっての「この世」とはこの場合、父母妻子4人を扶養しなくてはならない立場、を指しているでしょう。その立場を誠実に務めようとすれば、自分の文学(内部から突き上げてくる創作や思索の欲求)を押し殺して、来る日も来る日も職場に出勤するしかありません。職場を出て帰宅の途に着くと、6畳2間に4人の家族が待っています。しかもあまり和のない家庭です。帰りたくない。こうして、宿屋に逃げ込んだのかも知れません。

この歌については次回も書きます。

2009年11月 8日 (日)

おほどかの心来れり

     おほどかの心来れり

     あるくにも

     腹に力のたまるがごとし

<ルビ>来れり=きたれり。

<語意>おほどかの=おおらかな。

初出は「創作」1910年(明43)5月号。「創作」(東雲堂書店)は若山牧水が編集する文芸短歌雑誌で、3月に創刊されました。牧水に寄稿を頼まれて、啄木はこの5月号に初めて「手を眺めつつ」と題する16首を寄稿します。3月以来東京毎日新聞と東京朝日新聞に寄稿しはじめた啄木の新しい短歌に、牧水もさっそく注目したのです。

さて「おほどかの心」はどこから来たのか。この歌が5月号に載ったということは作歌は4月(それも中下旬)ということでしょう。この歌に表れる心境は4月のものと考えられます。

すでに何回も見てきた様にこの月の啄木は思想上の悩みを悩んでいます。しかしその悩みばかりで暮らす啄木ではありません。いいこと楽しいこともあるでしょう。「不平が逃げ去」った日もあるように。

特に3月以来短歌に新境地を開拓し、4月にはその境地・啄木調を確立するのですから、ある大きな自信も生まれていたはずです。

幸い10年(明43)の日記は4月分だけがあります。その中の4月2日に次のような件(くだり)があります。

渋川氏(東京朝日新聞社会部長)が、先月朝日に出した私の歌を大層讃めてくれた。そして出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて来てくれと言つた。/雨模様の、パツとしない日であつたが、頭は案外明るかつた。

「大層」褒めてくれたのです。テキスト314ページに書きましたが、まさに渋川という伯楽が、啄木に千里の馬を見出したのです。すばらしい出来事です。

掲出歌とこの出来事とを直接結ぶ資料はありませんが、歌の背景には上に述べてきたような事を置くべきだろうと思います。

「腹に力のたまる」の「腹」はいわゆる臍下丹田のこと。剣道のような武術、舞・謡いなどの芸事では臍下丹田に力をためていられるようになってこそ本物との認識があります。臍下丹田に力がたまってこそ、全身に力が満ち、必要な力が必要なときに発揮できるとされています。

<解釈>ぼくが切り開いた新しい短歌は今高い評価を獲得しつつある。渋川氏の評価はその象徴的出来事だ。そう思うと、おおらかな心がどこからかやって来て、歩く時にも下腹に力がたまって、全身に元気が満ちているような気がする。

この歌は「やって来る心」の歌です。

2009年11月 6日 (金)

心より今日は逃げ去れり

     心より今日は逃げ去れり

     病ある獣のごとき

     不平逃げ去れり

初出は「学生」1910年(明43)5月号。作歌は4月でしょう。

「病ある獣」はどういうイメージなのか。わたくしなどは病気が治るまでひっそりと外敵を避けて回復を待つ様をイメージしていました。しかしテキスト106ページにこういう歌があります。

  やまひある獣のごとき

  わがこころ

  ふるさとのこと聞けばおとなし

この歌からすると啄木のイメージする「病ある獣」は「おとなし」の反対で、荒々しく落ち着かない獣の意味でしょう。

「不平」は、「心がおだやかでないこと。不満に思うこと」と広辞苑にあります。「病ある獣のごとき不平」ですから、掲出歌の「不平」は「心がおだやかでないこと」と考えてよいでしょう。

1910年(明43)4月当時の啄木の「不平」は、職場や経済生活に関するものではないようです。「かなしきは(飽くなき) その2」に書いたあの悩みが湧いてきた時の心理状態を「病ある獣のごとき不平」と言っているのだと思われます(5/17の当該ブログ参照)。5月に書いたと推定されるエッセー「硝子窓」の結びの方の一部を引きましょう。

恰度忘れてゐた傷の痛みが俄に疼き出して来る様だ、抑へようとしても抑へ切れない、紛らさうとしても紛らしきれない。・・・・怒らなくて可い事まで怒りたくなる。目に見、耳に入る物一つとして此の不愉快を募らせぬものはない。・・・・

まさに「病ある獣のごとき不平」です。「硝子窓」にはどんな時がこの「不平」の「逃げ去」った状態なのかも書いてあります。職場で仕事が忙しくて「不平」に悩む暇がなく、帰宅すれば仕事が待っていて「不平」に悩む暇がない状態、なのだそうです。これだとその日1日「不平」が無いわけです。

<解釈>心から今日は不平が逃げ去った。病をもつ獣のような、恰度忘れてゐた傷の痛みが俄に疼き出して来る様な、あの不平が今日は逃げ去った。

この歌は「逃げ去る心」をうたっています。

2009年11月 4日 (水)

何やらむ

     何やらむ

     穏かならぬ目付して

     鶴嘴を打つ群を見てゐる

<ルビ>穏か=おだやか。鶴嘴=つるはし。

<語意>鶴嘴=堅い地面や砂利などを掘りおこす工具。両先端がツルのくちばしのように細くとがった鉄の中央に、柄を付けたもの。(新潮現代国語辞典)

これもむずかしい歌です。10月28日から5日間考えました。11月1日になってなんとかメドが立ちました。(それから2日間また避けられぬ所用があり、4日朝書き継いでいます。)

この歌の初出は東京毎日新聞1910年(明43)4月24日。作ったのは4月の中旬か下旬でしょう。

「見てゐる」のはだれか。論者によって作者説と第三者説に大別されます。

わたくしは前歌「路傍の切石の上に・・・」が念頭にあって、作者説をとってみました。それから4日間、考えあぐねました。作者ととるとなぜ「穏かならぬ目付」を啄木がするのか、説明できなくてはなりません。当たれるかぎりの資料に当たりましたが、迷路をうろつくばかり。うろついている途中でこんな歌も見ました。1910年(明43)12月の作品です。

  真夜中の電車線路をたどり来て/鶴嘴を打つ群をおそるる

考えあぐねてこの歌を眺めているうちに、第三者説で考えてみる気になりました。その結果すっきり答えが出たように思います。

この歌の中で、啄木自身が現れるのは「何やらむ」だけです。「穏かならぬ」以下は第三者の様子です。当時土木工事などに従事する労働者は「工夫(こうふ)」と呼ばれ、地面に穴を掘ったり、電車線路の敷石を掘り起こすなどの仕事もしました。現在ショベルカーでアスファルトを掘り返しているのなどをよく見かけますが、ショベルカーの登場以前は工夫が鶴嘴を使ってああいう仕事をやっていました。したがって昔は(100年前も)あちこちで鶴嘴を打つ作業風景を見かけたものです。

ところがこの歌の時はよく見かける作業風景の中に、見慣れない光景を啄木は見たのです。ある男(たとえば現場監督のような)が、険しい目付きで作業する工夫たちを見ており、工夫たちとの間に異様な関係を感じたのでしょう。

さて、そうであるとして、啄木はこの歌でかれ自身のどんな心をうたおうとしたのか。

通りがかりの、自分に何の関係もない事柄なのに勝手に意識し、気になってしてしまう心をうたったのだと思われます。この解釈は見開き46、47ページの他の3首との関係も考慮することによって生まれました。

<解釈>なんだ? あの男は険しい目付きで鶴嘴を打つ工夫たちを見ているぞ。(考えてみると通りがかりの自分には関係ないことなのに、ついこうして気になってしまうんだなあ、このおれは。)

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