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2009年11月 4日 (水)

何やらむ

     何やらむ

     穏かならぬ目付して

     鶴嘴を打つ群を見てゐる

<ルビ>穏か=おだやか。鶴嘴=つるはし。

<語意>鶴嘴=堅い地面や砂利などを掘りおこす工具。両先端がツルのくちばしのように細くとがった鉄の中央に、柄を付けたもの。(新潮現代国語辞典)

これもむずかしい歌です。10月28日から5日間考えました。11月1日になってなんとかメドが立ちました。(それから2日間また避けられぬ所用があり、4日朝書き継いでいます。)

この歌の初出は東京毎日新聞1910年(明43)4月24日。作ったのは4月の中旬か下旬でしょう。

「見てゐる」のはだれか。論者によって作者説と第三者説に大別されます。

わたくしは前歌「路傍の切石の上に・・・」が念頭にあって、作者説をとってみました。それから4日間、考えあぐねました。作者ととるとなぜ「穏かならぬ目付」を啄木がするのか、説明できなくてはなりません。当たれるかぎりの資料に当たりましたが、迷路をうろつくばかり。うろついている途中でこんな歌も見ました。1910年(明43)12月の作品です。

  真夜中の電車線路をたどり来て/鶴嘴を打つ群をおそるる

考えあぐねてこの歌を眺めているうちに、第三者説で考えてみる気になりました。その結果すっきり答えが出たように思います。

この歌の中で、啄木自身が現れるのは「何やらむ」だけです。「穏かならぬ」以下は第三者の様子です。当時土木工事などに従事する労働者は「工夫(こうふ)」と呼ばれ、地面に穴を掘ったり、電車線路の敷石を掘り起こすなどの仕事もしました。現在ショベルカーでアスファルトを掘り返しているのなどをよく見かけますが、ショベルカーの登場以前は工夫が鶴嘴を使ってああいう仕事をやっていました。したがって昔は(100年前も)あちこちで鶴嘴を打つ作業風景を見かけたものです。

ところがこの歌の時はよく見かける作業風景の中に、見慣れない光景を啄木は見たのです。ある男(たとえば現場監督のような)が、険しい目付きで作業する工夫たちを見ており、工夫たちとの間に異様な関係を感じたのでしょう。

さて、そうであるとして、啄木はこの歌でかれ自身のどんな心をうたおうとしたのか。

通りがかりの、自分に何の関係もない事柄なのに勝手に意識し、気になってしてしまう心をうたったのだと思われます。この解釈は見開き46、47ページの他の3首との関係も考慮することによって生まれました。

<解釈>なんだ? あの男は険しい目付きで鶴嘴を打つ工夫たちを見ているぞ。(考えてみると通りがかりの自分には関係ないことなのに、ついこうして気になってしまうんだなあ、このおれは。)

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