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2009年12月

2009年12月31日 (木)

はたらけど

     

     はたらけど

     はたらけど猶わが生活楽にならざり

     ぢつと手を見る

<ルビ>猶=なほ。生活=くらし。作歌は1910年(明43)7月26日。初出は東京朝日新聞同年8月4日。

持てあましていた「利己の一念を」吹き飛ばしたのが、大逆事件発覚(5月31日)の報(啄木が知ったのはおそらく6月2日)だったことは、ブログ「かなしきは(飽くなき)」ですでに見ましたが、間もなく啄木は幸徳秋水と大逆事件の思想的背景を知るべく社会主義・無政府主義の研究を始めます。そして研究に一区切りついたところで、掲出歌を作ります。

わたくしは2009年9月1日の「しんぶん 赤旗」に「石川啄木とプレカリアート*」と題する文章を寄稿しました。(*プレカリアート:1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用労働者や失業者の総称。)そのほぼ全文を以下に引きます。

20世紀初め、今から100年前の1910年(明治43)7月15日啄木はつぎの3首をつくり、歌稿ノートに書きつけた(いずれも『一握の砂』未収録)。

  夏の町かしらあらはに過ぎ去れるあとなし人をふりかへる哉

  垢づける首うち低れて道ばたの石に腰かけし男もあるかな

  かゝること喜ぶべきか泣くべきか貧しき人の上のみ思ふ 

1首目と2首目は今で言う「ホームレス」をうたっている。啄木は同情に満ちた目でかれらを見ている。

3首目の「貧しき人」はホームレスの人たちだけを指すのではない。啄木はこれらの歌を作るまでの約1ヵ月間集中的に社会主義・無政府主義を研究した。5月末に発覚した大逆事件によって衝撃を受けたからだ。かれの思想家としての天才はわずか1ヵ月の研究でマルクス・エンゲルスの社会主義を選びとった。

かれが読んだ「共産党宣言」「科学的社会主義(空想から科学へ)」では資本主義が必然的に生み出す巨大な貧困の問題も論じられている。

さらに啄木がもっとも影響を受けた日本の思想家・幸徳秋水は『平民主義』の中でこう述べている。漢文調でむずかしいかも知れないが、内容は現代日本のプレカリアートを論じているとしか思えないほど今日的である。

労働すといへども質朴なる者は困す、不徳の人にあらざるも業(職業)を得ること難くして飢餓す、罪悪の行ひ有るに非ざるも職を失ふて流離す、かくの如くんば社会を組織し国家を形成するゆゑん(ゆゑんく)の効果いづくに在るや……我等多数の平民は唯だ職業を要求す、唯だ生活の権利を回復せんことを要求す。

啄木はマルクスやエンゲルスや秋水の説を踏まえて3首目の歌を作ったのである。したがって有名なつぎの歌も決して自分一人のことをうたっているのではない。自分の生活実感を通して幾百千万の働く人々の生活実感と重ねてうたったのだ。

 はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る

100年後の今日、啄木の歌の思想を踏まえ、1700万人とも言われるプレカリアートの怒り・悲しみを満身に体し国会で代表質問した人は誰か、その人の名は記すまでもあるまい。(注:「その人」は共産党の志位和夫委員長。)

啄木がプレカリアートの明日に向けて呼びかけるとしたら、どんな言葉を発するだろう。

<解釈>週6日の出勤、その上3日に1度は夜勤、その他に二葉亭全集の校訂・編集、その他に(小説、評論、短歌などの)原稿書き、こうして働いてもそして働いても、わたしと家族の生活は楽にならない。家族が5人であること、返済中の借金があることなど、自分には特殊な事情もある。それにしてもこの「楽にならなさ」はどうだ。そう思って給料を稼ぎ出すわが手をじっと見つめていると、マルクス・幸徳らの説いているのが思い起こされる。貧乏は資本家的生産の社会で働く人々に共通の大問題なのだ、と。

これも「見えすぎるかなしみ」の歌に分類できるでしょう。

<参考文献>河上肇『貧乏物語』(岩波文庫)。山本茂実『ああ、野麦峠』(朝日文庫)。近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館)。

2009年12月30日 (水)

誰が見てもとりどころなき男来て

     誰が見てもとりどころなき男来て

     威張りて帰りぬ

     かなしくもあるか

初出は『一握の砂』。であれば、作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

初出が『一握の砂』であると言うことは、日記を読み直して作ったうちの1首である公算も大きいことを示します。かれが読み直した日記中でも北海道時代の日記は特別にたくさんの歌を作り出します。それらのうち「忘れがたき人人」に収めなかった幾首かを「われを愛する歌」や「手套を脱ぐ時」にまわしたと考えられます。これもそのうちの1首でしょう。

ボツにしないでこの章に入れたと言うことは、この歌に託するに足るなにかを観たからでしょう。

1908年(明41)元旦の日記にこう記しています。(ちなみに当時啄木は小樽日報を辞めて失業中。文中の「校正」は小樽日報の校正係。)

夜、校正の白田が酔払つて来た。餅を食はした所が、代議士になるといふ怪気炎を吐いた。憐れなもんだ。

「誰が見てもとりどころなき男」とは例えてみれば、底の方が縁よりも高い器のようなもの(そんな器などあるものやら)。啄木の非凡な目で見なくても「誰が見ても」この男の底は見えています。その底を常人をはるかに超えた明晰な意識で見ながら、男の大威張りを聞いているのですから、非常に苦痛だったことでしょう。「かなしくもあるか」です。

ともあれ、これも「見えすぎるかなしみ」の歌に分類できます。

<解釈>だれが見てもとりどころのない男が酔っ払って遊びに来て、怪気炎を吐き大威張りして帰っていった。底の浅さが露出しているような男の怪気炎につきあっていると、ただただ憐れさがつのる。

啄木は日記の記述に触発されてこの歌を作ったのでしょうが、同様のかなしみを少なからず経験していたのでしょう。

2009年12月28日 (月)

人並みの才に過ぎざる

     

     人並の才に過ぎざる

     わが友の

     深き不平もあはれなるかな

<初出>「スバル」1910年(明43)11月。

「わが友」がだれか分かると作品の彫り込みがいっそう見えてくるのですが、今のところ分かりません。「それもよしこれもよしとてある人の その2」でつぎの文を引きました。啄木の第2歌論「歌のいろいろ」の1部分です。再度引きましょう。

己の為る事、言ふ事、考へる事に対して、それを為ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面(まとも)に其問題に立向つて底の底まで究めやうとせずにゐられぬ心、日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾を発見して、さうして其の発見によつて却つて益々自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に対する羨みの感は私のよく経験する所のものであつた。

こうして啄木は見えすぎるほど見える人でした。自分でももてあますほど物事が見えてしまうのです。だから「わが友」の才能も底の底まで見えています。

啄木の心の姿としては「見えすぎるかなしみ」となりましょう。

<解釈>人並みの才能でしかない友の不平を聞いていると、その不平が深ければ深いほど、友の自己認識の浅さが露わになり、かわいそうになってしまう。同時に私の「見えすぎるかなしみ」も深まるのだ。

2009年12月27日 (日)

どんよりと  その2

     

     どんよりと  その2

「どんよりと その1」の冒頭に書いたようにこの歌は1910年(明43)10月13日の作です。10月4日から12日までの間に240首もの秀歌を作ってきれいに編集し『一握の砂』はほぼできあがっていたはずなのに、啄木は13日になってまたしても26首も作り『一握の砂』の原稿を再編集します。「我を愛する歌」には明治41、42年の歌が多く、43年の歌の比重が比較的大小さいので、43年10月現在の歌の比重を大きくしようとしたのです。

これを前提とするとつぎの事が見えてきます。

A、9月上旬に「時代閉塞の現状」を書き上げた啄木は今、『一握の砂』完成の直前にいる。つまり啄木の文学上・思想上の絶頂期にいる。

B、この時期の心をうたったとすれば、ただの殺人衝動(まして秋葉原の無差別殺傷のような)は考えにくい。

C、そして「見開き」の問題。1~3首だけを見るなら啄木が「友」の中に自分を見た歌、ともとれる。しかし4首目「どんよりと」が入るとその見方はこわれる。

D、しかも啄木は「我を愛する歌」という章では自分の「心の姿」をうたっているのだった。このこととCとを合わせ考えると、啄木がこの見開きでうたったのは「自分の中に他人を見出す心」だったと思われる。

E、10月13日作と見なしうる歌につぎの2首がある。

  人がみな恐れていたく貶すこと恐れえざりしさびしき心

  雄々しくも死を恐れざる人のこと巷にあしき噂する日よ

「人がみな恐れていたく貶すこと」とは大逆事件のテロリズムを指す。「雄々しくも死を恐れざる人」は幸徳秋水を指す。

以上を整合的に取り込めばつぎの解釈になるしかないようです(「人」は、結局「3、その他」になります)。

<解釈>どんよりとくもった空を見上げていたら、「我々青年を囲繞(ゐぜう)する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた」時代閉塞の現状と重なってきて、自分の中にテロリストの心が動き出し、強権の担当者を殺したくなってしまったことよ。

8ヶ月後啄木は詩「ココアのひと匙」でうたいます。

  われは知る、テロリストの

  かなしき心を――

  言葉とおこなひとを分かちがたき

  ただひとつの心を、

  奪はれたる言葉のかはりに

  おこなひをもて語らむとする心を、

  ・・・・・・

2009年12月23日 (水)

どんよりと  その1

     

     どんよりと

     くもれる空を見てゐしに

     人を殺したくなりにけるかな

作歌1910年(明43)10月13日。初出「精神修養」同年12月。

非常にむずかしい歌です。このぶっそうな歌を啄木はあろうことか「精神修養」という雑誌に寄せた「崖の土」21首の中に入れています。作ったのも10月13日ですから『一握の砂』編集・割り付け完了のまさに寸前です。

「人」とはどういう人を指すのか。歌を何度読み返してもまったく見当がつきません。1、家族・友・上司など身近な人。2、人ならだれでもよい。3、その他。

1は論外でしょう。啄木の精神動向の中に「殺人」の衝動を見るのはこの歌だけですが、その衝動が家族や上司に向けられることはまったく考えられません。つまり資料的に裏づけるものは皆無と言えます。

ただ友について言えばローマ字日記時代に小説が書けなくて狂気を発し、金田一京助に向かってナイフを振り上げたことがありました。それを啄木が「尋常のおどけならむや/ナイフ持ち死ぬまねをする/その顔その顔」とうたったことはすでに見たところです。しかしあれは瞬間の発作でなかば芝居がかかった行動です。

(殺人の「衝動」ではなくて殺人の「妄想」なら啄木にももちろんありました。啄木は異常な空想力の持ち主だけにかれの「妄想」はすごいものだったでしょう。例:ローマ字日記4月10日の終わりの方。)

ところで42、43ページの見開き第1・2・3首は「友」をうたっています。したがって掲出歌の「人」が「友」の可能性は一考の余地を残します。そのためわたくしは3週間近くも悩みました。しかしどう考えても「友」の線は資料的に出てきませんでした。友ではない、とすると今度は第1・2・3首のモチーフも「友」とは直接関係ないということになります。モチーフが消えそう! これは別の隘路でした。

2について。今回ブログでこの歌を考える時までのわたくしは「人ならだれでもよい」の線でこの歌を読んでいました。だから去年(08年)6月8日「秋葉原無差別殺傷事件」が起きたときとっさに浮かんだのがこの歌でした。

犯人は主に派遣労働をして暮らしていた25歳(当時)の不遇の青年。

トラックではねられて殺された人3名、負傷者2名。ダガーナイフで刺され殺された人4名、負傷者8名。凄惨な殺傷事件でした。被害者の方々とそのご遺族の方々のことを考えるとお気の毒で言葉もありません。

しかし犯人が事件直前の3日間に携帯サイトに書いたという文章を読むと、現代の非正規労働者のおかれた惨状が浮かび上がり、別の涙を催します。まさに掲出歌の心境に通じるように思われるのです。

では2の線か。あとは次回で論じます。

2009年12月19日 (土)

打ち明けて語りて

     打明けて語りて

     何か損をせしごとく思ひて

     友とわかれぬ

初出『一握の砂』、したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

いつも参照させていただく4氏(岩城・今井・上田・木股氏)の評釈を見ると、この歌の受け取り方が結構異なるのにおどろきました。わたくしにとって歌の意味は自明のはずでしたが。わたくしの解釈をまず書きます。

<解釈>友と話しをしているうちに自分のとっておきの秘め事を無性に「打明けて語り」たくなった。ところがしゃべっていると相手が期待したほどの理解も共鳴もしてくれないのに気づく。この友にはしゃべるんじゃなかったとほぞをかむ。もうおそい。語り終えて後、大切なものを失ったような索漠とした思いになって、別れたのだった。

「打明ける」とは「心に秘めていたことを隠さずに話す」こと。したがって「打明け」るときは、相手(この場合は「友」)の中に自分の秘め事に理解を示し共鳴してくれる心=自分と共通する心があることを信じているわけです。つづめていえば相手の中に自分(それもとっておきの自分)を見ていると言うことです。

「損」をしたように思ったのは、その秘め事が自分にとっては大切な、価値のある事柄だったからです。それはたとえば、夢とか文学上・思想上の構想とかといったものと思われます。

わたくしの若いころにはこういうことは少なからずありました。だからこの歌は若いころから印象に残っている歌です。同様のことは今もなくはありません。

ああ、この人にはこんな大切なこと話すんじゃなかった、という思いは万人が経験しているのではないでしょうか。

ちなみに4氏の解釈を要約しておきます。

岩城之徳氏。自分の悩みを打ち明けたのにわかってもらえぬさびしさ。

今井泰子氏。どのような人にもみじめな心の内は見せまいとしている作者のかたくなな思いと、他人への軽蔑感を伝える歌。しかしそれは表現上の意味で、この歌の制作意図は、前歌までに自分の本心を語って損をしたと、読者に舌を出しているのである。

上田博氏。接触しすぎて時にデッド・ヒートすることがあるのは、「友」が自分の外側に眺められるいま一人の自分だからである。ライバルは「友」の形をした自分自身なのである;「打明けて語」って「何か損をせしごとく」思うのは、自分の目からも隠蔽しておきたいことを明るみへ引き出すことになったからである。

木股知史氏。内心の苦しみを友に打ち明けてはみたが、共感も親身の言葉も得られなかったことを「損」をしたように感じている。

50、51ページの4首のうち3首を見てきましたが、「友」という共通性は見いだせたものの、「友」に何を見ているのかが今ひとつわかりません。決定的に困惑したのが4首目の「どんよりと」の歌の解釈です。見開き4首にモチーフがまるで見えないのです。3週間悩み続け今日の午前2時ようやく解答が見えた気がしました。

この歌は5・4/3・5・7/7 となっていて、5・7・5/7・7の定型をすっかり壊していることにご注意ください。

2009年12月15日 (火)

あまりある才を抱きて  その2

     あまりある才を抱きて  その2

1911年(明44)1月14日宮崎郁雨あて啄木書簡から引きます。

新年になつてから珍らしい事が二つあつた。一つは・・・・・。も一つは大島君の手紙だつた。タイムスで余りよくない地位にゐるらしい。大島君の事を思ふと性格といふ事が強く感じられる。何故あゝまで自分をいぢめねばならぬだらうか。何故あゝまで自分の能を隠さねばならぬだらうか。同君の結婚は去年の九月だつたさうである。対手の事は何とも書いてない。さうして、「その為め前にも増して平凡軟化したるやうにて、つまらぬ事したりとコボされ候。」と書いてあつた。境遇についてはそれとなく不平を処々に洩らしてあつた。

この手紙は1911年1月のもの、掲出歌は10年10月の作、したがって掲出歌の直接の資料ではありません。しかしこの手紙によると啄木はこの度の大島の結婚が再婚である事を知っていながら驚いた形跡はありません。石田松江との結婚生活が破綻したことを以前から知っていたということです。つまり「妻のためおもひわづら」っていたことを知っていたことになります。また手紙は大島の「あまりある才」についても触れています。

つまりこの手紙は掲出歌のための資料たり得るのです。

1907年(明40)5月4日「石をもて追はるるごとくふるさとを」出た啄木は青森に着き港に停泊中の船に乗り込みます。夜中、甲板から黒い海を覗いて自殺しようかとまで悩んだのでした(ブログ「かの船の」参照)。そして翌5日函館に着きます。その日思いがけない歓迎をうけます。執筆中の「石川啄木伝」から歓迎の様子を引きます。

<啄木が来たと聞いて集まったのは松岡、岩崎のほかに大島経男、吉野章三、並木武雄、向井永太郎その他二、三人がいた。宮崎大四郎がいたかどうかは今一つはっきりしない。向井の追憶では、一同ソバを食べたり、余興の隠し芸をしたりし、そのうち同人の詩歌の朗読がはじまったという。大島が啄木のデビュー作「啄木鳥」を沈痛なしかも澄んだ低音で朗読した。つぎの一文はその時を回想する大島自身のものである。

客(啄木)は自分の声のこだまのやうに、旧作を旅の空に聞いて涙した。長い嘆息のあとに、「あの詩がこんなに愛誦されてゐるとは知らなかった。」とうめいた。

・・・・・啄木と大島の堅い結びつきはこの時はやくも生じたのであろう。以後啄木は終生大島に対して最大級の敬意を抱きつづける。失意の啄木の才能に対する大島の評価もまた非常に高かったらしい。大島は啄木が北海道漂泊の第1日目に出会った文字通りの知己であった。>

天才石川啄木から「あまりある才」と評価されるのは大変なことですが「友」はその条件に当てはまります。そしてこの人に対しても前歌の小野弘吉同様自分と似たものを見ているのでしょう。だから末尾の「かなしむ」も突き放した「かなしむ」ではなく、篤い同情がこめられた「かなしむ」です。そして同情してもどうにもしてもやれないという切なさもこめられています。

<解釈>あまりある才能を持ちながら、その才能を実現しようとせず、ただ奥さんとの関係を思い煩って時間を費消して行く友を、遠く離れた地にいて悲しく思うことだ。

50、51ページの見開きはモチーフが読み切れず困却しています。4首目の「どんよりと」の歌が読めないのです。1、2、3首は友をうたっているのですが。

2009年12月13日 (日)

あまりある才を抱きて  その1

     あまりある才を抱きて

     妻のため

     おもひわづらふ友をかなしむ

初出は『一握の砂』、したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

よく啄木の研究者が「モデルの詮索は無用」などと言いますが、もっと極端な場合にはモデルが分かっていても敢えて無視する研究者もいますが、わたくしはそうした考え方に全く対立しています。

もしモデルが分かった場合歌の理解が、鑑賞が、どんなに深まるか、このブログの読者のみなさんにはご納得いただけると思います。

モデル詮索不要論には、モデルが分からないから詮索ストップの言い訳もふくまれ、他方モデル詮索に寄りかかった解釈と鑑賞への批判という側面もありました。

モデルを敢えて無視するのは一昔前流行ったテクスト論の悪しき影響だと思われます。しかしテクスト論は作者やモデルに寄りかからない読みを追究するという点で旧来の安易な読みに対する1つの批判でもありました。

さて、掲出歌の「友」が大島経男だと言えば、啄木短歌に精通している人は目をむくことでしょう。それならこの歌は「忘れがたき人人 一」に入るべきであって、「我を愛する歌」に入るはずはないと。

ところが『一握の砂』初出歌をはじめとする1910年(明43)10月4日~16日の作品には自分の全日記を読み直し、参照しながら作った歌がたくさんあるのです。「煙」や「忘れがたき人人」にはそうした作品が非常に多く入っています。そして2つの章に入れなかったが捨てきれない作品もあり、それらは「我を愛する歌」に配置しました。

たとえば39ページ左、50ページ右、52ページ右の歌などがそれです。そして掲出歌も。

大島経男については述べるべき事がたくさんありますが、173ページ左の歌の時に若干ふれます。今は通説の間違いを訂正しておきます。大島は教え子石田松江との結婚が破綻したから、1907年7月に日高に隠棲したというのが岩城之徳氏(『石川啄木伝』)以来の通説ですが、間違いです。石田松江と「結婚」したから、日高に帰ったのです。その後破綻したらしく、1910年9月には函館英語学校の卒業生桜井悳子と結婚しています(次ぎの啄木書簡参照)。

2009年12月 8日 (火)

我に似し友の二人よ

     我に似し友の二人よ

     一人は死に

     一人は牢を出でて今病む

<ルビ>牢=らう。出で=いで。

初出『一握の砂』。作歌1910年10月4日~16日。

死んだ友は小野弘吉(1885~1909・2・20)と言われますが、わたくしにもいまのところそれ以外の人は考えられません。小野は啄木の盛岡中学時代の親友の1人、ユニオン会のメンバー。東京帝国大学農科大学(農学部)に在学中、卒業論文を書くために東北地方の農村調査に入り、病を得て夭折した人です。小野の訃報に接した時啄木は日記にこう記します。

岩手日報に、石亀守人、伊東圭一郎、小沢恒一、田鎖徹郎、阿部修一郎、柴内保次連名の小野弘吉君を弔ふ文が出てゐる。あゝ小野君! これらの人数、最も先に最も小野君と最も親しかつたのは誰か? 小野君は二月二十二日に死んで二十六日に葬られた、農科の三年だつたのだ。旅中九戸郡江刈村で病気にかゝつたのだといふ、

もう1人の友は、これまで誰か分からないとされてきましたが、はっきりしています。宮永佐吉という盛岡中学に1番で合格した秀才です。岩手県下の秀才たちがこぞって受験した盛岡中学に1番で合格したのですから、すごい秀才です。ちなみに石川一は10番、小野弘吉19番でした。3人とも秀才中の秀才といっていいでしょう。

宮永佐吉のことは『石川啄木全集』のなかに4回も出てきます。一番くわしい記述を引いておきましょう(明治四十一日誌8月25日)。

”麹町二の十鶴鳴館宮永”といふ手紙が来た。久闊を叙して逢ひたいと言ふ。宮永といふのは、中学の一年の時同じデスクに並んだ男で、その後幼年学校(陸軍幼年学校)に入つて退校させられ、東京でゴロツキの小さな親分になつてゐたのを、三十五年の十二月、渋谷からの帰りの汽車の中で見た事があつたが、その男からの消息とも思へぬ。今は毎日加賀町の東京タイムス社に出てゐるといふから何れ此方で忘れて了つた新聞時代の友人だらうと思つた。それにしても不思議なので、夕方訪ねてゆくと不在。矢張旧友の佐吉君、中学の入学試験に一番だつた宮永佐吉君であつた。

<解釈>私に似た友の二人であった小野弘吉君、宮永佐吉君。東大でまじめに勉強していた小野君は夭折し、東京でゴロツキの小親分になっていた宮永君は牢を出て今病床に伏せっている。

次ぎに掲げる102ページ右の歌ももちろん宮永佐吉の歌です。

   そのむかし秀才の名の高かりし

   友牢にあり

   秋のかぜ吹く

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