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2009年12月23日 (水)

どんよりと  その1

     

     どんよりと

     くもれる空を見てゐしに

     人を殺したくなりにけるかな

作歌1910年(明43)10月13日。初出「精神修養」同年12月。

非常にむずかしい歌です。このぶっそうな歌を啄木はあろうことか「精神修養」という雑誌に寄せた「崖の土」21首の中に入れています。作ったのも10月13日ですから『一握の砂』編集・割り付け完了のまさに寸前です。

「人」とはどういう人を指すのか。歌を何度読み返してもまったく見当がつきません。1、家族・友・上司など身近な人。2、人ならだれでもよい。3、その他。

1は論外でしょう。啄木の精神動向の中に「殺人」の衝動を見るのはこの歌だけですが、その衝動が家族や上司に向けられることはまったく考えられません。つまり資料的に裏づけるものは皆無と言えます。

ただ友について言えばローマ字日記時代に小説が書けなくて狂気を発し、金田一京助に向かってナイフを振り上げたことがありました。それを啄木が「尋常のおどけならむや/ナイフ持ち死ぬまねをする/その顔その顔」とうたったことはすでに見たところです。しかしあれは瞬間の発作でなかば芝居がかかった行動です。

(殺人の「衝動」ではなくて殺人の「妄想」なら啄木にももちろんありました。啄木は異常な空想力の持ち主だけにかれの「妄想」はすごいものだったでしょう。例:ローマ字日記4月10日の終わりの方。)

ところで42、43ページの見開き第1・2・3首は「友」をうたっています。したがって掲出歌の「人」が「友」の可能性は一考の余地を残します。そのためわたくしは3週間近くも悩みました。しかしどう考えても「友」の線は資料的に出てきませんでした。友ではない、とすると今度は第1・2・3首のモチーフも「友」とは直接関係ないということになります。モチーフが消えそう! これは別の隘路でした。

2について。今回ブログでこの歌を考える時までのわたくしは「人ならだれでもよい」の線でこの歌を読んでいました。だから去年(08年)6月8日「秋葉原無差別殺傷事件」が起きたときとっさに浮かんだのがこの歌でした。

犯人は主に派遣労働をして暮らしていた25歳(当時)の不遇の青年。

トラックではねられて殺された人3名、負傷者2名。ダガーナイフで刺され殺された人4名、負傷者8名。凄惨な殺傷事件でした。被害者の方々とそのご遺族の方々のことを考えるとお気の毒で言葉もありません。

しかし犯人が事件直前の3日間に携帯サイトに書いたという文章を読むと、現代の非正規労働者のおかれた惨状が浮かび上がり、別の涙を催します。まさに掲出歌の心境に通じるように思われるのです。

では2の線か。あとは次回で論じます。

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