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2009年12月15日 (火)

あまりある才を抱きて  その2

     あまりある才を抱きて  その2

1911年(明44)1月14日宮崎郁雨あて啄木書簡から引きます。

新年になつてから珍らしい事が二つあつた。一つは・・・・・。も一つは大島君の手紙だつた。タイムスで余りよくない地位にゐるらしい。大島君の事を思ふと性格といふ事が強く感じられる。何故あゝまで自分をいぢめねばならぬだらうか。何故あゝまで自分の能を隠さねばならぬだらうか。同君の結婚は去年の九月だつたさうである。対手の事は何とも書いてない。さうして、「その為め前にも増して平凡軟化したるやうにて、つまらぬ事したりとコボされ候。」と書いてあつた。境遇についてはそれとなく不平を処々に洩らしてあつた。

この手紙は1911年1月のもの、掲出歌は10年10月の作、したがって掲出歌の直接の資料ではありません。しかしこの手紙によると啄木はこの度の大島の結婚が再婚である事を知っていながら驚いた形跡はありません。石田松江との結婚生活が破綻したことを以前から知っていたということです。つまり「妻のためおもひわづら」っていたことを知っていたことになります。また手紙は大島の「あまりある才」についても触れています。

つまりこの手紙は掲出歌のための資料たり得るのです。

1907年(明40)5月4日「石をもて追はるるごとくふるさとを」出た啄木は青森に着き港に停泊中の船に乗り込みます。夜中、甲板から黒い海を覗いて自殺しようかとまで悩んだのでした(ブログ「かの船の」参照)。そして翌5日函館に着きます。その日思いがけない歓迎をうけます。執筆中の「石川啄木伝」から歓迎の様子を引きます。

<啄木が来たと聞いて集まったのは松岡、岩崎のほかに大島経男、吉野章三、並木武雄、向井永太郎その他二、三人がいた。宮崎大四郎がいたかどうかは今一つはっきりしない。向井の追憶では、一同ソバを食べたり、余興の隠し芸をしたりし、そのうち同人の詩歌の朗読がはじまったという。大島が啄木のデビュー作「啄木鳥」を沈痛なしかも澄んだ低音で朗読した。つぎの一文はその時を回想する大島自身のものである。

客(啄木)は自分の声のこだまのやうに、旧作を旅の空に聞いて涙した。長い嘆息のあとに、「あの詩がこんなに愛誦されてゐるとは知らなかった。」とうめいた。

・・・・・啄木と大島の堅い結びつきはこの時はやくも生じたのであろう。以後啄木は終生大島に対して最大級の敬意を抱きつづける。失意の啄木の才能に対する大島の評価もまた非常に高かったらしい。大島は啄木が北海道漂泊の第1日目に出会った文字通りの知己であった。>

天才石川啄木から「あまりある才」と評価されるのは大変なことですが「友」はその条件に当てはまります。そしてこの人に対しても前歌の小野弘吉同様自分と似たものを見ているのでしょう。だから末尾の「かなしむ」も突き放した「かなしむ」ではなく、篤い同情がこめられた「かなしむ」です。そして同情してもどうにもしてもやれないという切なさもこめられています。

<解釈>あまりある才能を持ちながら、その才能を実現しようとせず、ただ奥さんとの関係を思い煩って時間を費消して行く友を、遠く離れた地にいて悲しく思うことだ。

50、51ページの見開きはモチーフが読み切れず困却しています。4首目の「どんよりと」の歌が読めないのです。1、2、3首は友をうたっているのですが。

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