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2009年12月19日 (土)

打ち明けて語りて

     打明けて語りて

     何か損をせしごとく思ひて

     友とわかれぬ

初出『一握の砂』、したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

いつも参照させていただく4氏(岩城・今井・上田・木股氏)の評釈を見ると、この歌の受け取り方が結構異なるのにおどろきました。わたくしにとって歌の意味は自明のはずでしたが。わたくしの解釈をまず書きます。

<解釈>友と話しをしているうちに自分のとっておきの秘め事を無性に「打明けて語り」たくなった。ところがしゃべっていると相手が期待したほどの理解も共鳴もしてくれないのに気づく。この友にはしゃべるんじゃなかったとほぞをかむ。もうおそい。語り終えて後、大切なものを失ったような索漠とした思いになって、別れたのだった。

「打明ける」とは「心に秘めていたことを隠さずに話す」こと。したがって「打明け」るときは、相手(この場合は「友」)の中に自分の秘め事に理解を示し共鳴してくれる心=自分と共通する心があることを信じているわけです。つづめていえば相手の中に自分(それもとっておきの自分)を見ていると言うことです。

「損」をしたように思ったのは、その秘め事が自分にとっては大切な、価値のある事柄だったからです。それはたとえば、夢とか文学上・思想上の構想とかといったものと思われます。

わたくしの若いころにはこういうことは少なからずありました。だからこの歌は若いころから印象に残っている歌です。同様のことは今もなくはありません。

ああ、この人にはこんな大切なこと話すんじゃなかった、という思いは万人が経験しているのではないでしょうか。

ちなみに4氏の解釈を要約しておきます。

岩城之徳氏。自分の悩みを打ち明けたのにわかってもらえぬさびしさ。

今井泰子氏。どのような人にもみじめな心の内は見せまいとしている作者のかたくなな思いと、他人への軽蔑感を伝える歌。しかしそれは表現上の意味で、この歌の制作意図は、前歌までに自分の本心を語って損をしたと、読者に舌を出しているのである。

上田博氏。接触しすぎて時にデッド・ヒートすることがあるのは、「友」が自分の外側に眺められるいま一人の自分だからである。ライバルは「友」の形をした自分自身なのである;「打明けて語」って「何か損をせしごとく」思うのは、自分の目からも隠蔽しておきたいことを明るみへ引き出すことになったからである。

木股知史氏。内心の苦しみを友に打ち明けてはみたが、共感も親身の言葉も得られなかったことを「損」をしたように感じている。

50、51ページの4首のうち3首を見てきましたが、「友」という共通性は見いだせたものの、「友」に何を見ているのかが今ひとつわかりません。決定的に困惑したのが4首目の「どんよりと」の歌の解釈です。見開き4首にモチーフがまるで見えないのです。3週間悩み続け今日の午前2時ようやく解答が見えた気がしました。

この歌は5・4/3・5・7/7 となっていて、5・7・5/7・7の定型をすっかり壊していることにご注意ください。

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コメント

 この歌のような思いは誰にでも、何歳になってもありますね。私など墓に両足半分くらい入っているのにまだ胸を痛めたり後悔したりと休まらない。
 ご本と記事のコピーを有難うございました。面白いですね。近くご連絡いたします。
 

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