« 我に似し友の二人よ | トップページ | あまりある才を抱きて  その2 »

2009年12月13日 (日)

あまりある才を抱きて  その1

     あまりある才を抱きて

     妻のため

     おもひわづらふ友をかなしむ

初出は『一握の砂』、したがって作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

よく啄木の研究者が「モデルの詮索は無用」などと言いますが、もっと極端な場合にはモデルが分かっていても敢えて無視する研究者もいますが、わたくしはそうした考え方に全く対立しています。

もしモデルが分かった場合歌の理解が、鑑賞が、どんなに深まるか、このブログの読者のみなさんにはご納得いただけると思います。

モデル詮索不要論には、モデルが分からないから詮索ストップの言い訳もふくまれ、他方モデル詮索に寄りかかった解釈と鑑賞への批判という側面もありました。

モデルを敢えて無視するのは一昔前流行ったテクスト論の悪しき影響だと思われます。しかしテクスト論は作者やモデルに寄りかからない読みを追究するという点で旧来の安易な読みに対する1つの批判でもありました。

さて、掲出歌の「友」が大島経男だと言えば、啄木短歌に精通している人は目をむくことでしょう。それならこの歌は「忘れがたき人人 一」に入るべきであって、「我を愛する歌」に入るはずはないと。

ところが『一握の砂』初出歌をはじめとする1910年(明43)10月4日~16日の作品には自分の全日記を読み直し、参照しながら作った歌がたくさんあるのです。「煙」や「忘れがたき人人」にはそうした作品が非常に多く入っています。そして2つの章に入れなかったが捨てきれない作品もあり、それらは「我を愛する歌」に配置しました。

たとえば39ページ左、50ページ右、52ページ右の歌などがそれです。そして掲出歌も。

大島経男については述べるべき事がたくさんありますが、173ページ左の歌の時に若干ふれます。今は通説の間違いを訂正しておきます。大島は教え子石田松江との結婚が破綻したから、1907年7月に日高に隠棲したというのが岩城之徳氏(『石川啄木伝』)以来の通説ですが、間違いです。石田松江と「結婚」したから、日高に帰ったのです。その後破綻したらしく、1910年9月には函館英語学校の卒業生桜井悳子と結婚しています(次ぎの啄木書簡参照)。

« 我に似し友の二人よ | トップページ | あまりある才を抱きて  その2 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/46966893

この記事へのトラックバック一覧です: あまりある才を抱きて  その1:

« 我に似し友の二人よ | トップページ | あまりある才を抱きて  その2 »