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2009年12月 8日 (火)

我に似し友の二人よ

     我に似し友の二人よ

     一人は死に

     一人は牢を出でて今病む

<ルビ>牢=らう。出で=いで。

初出『一握の砂』。作歌1910年10月4日~16日。

死んだ友は小野弘吉(1885~1909・2・20)と言われますが、わたくしにもいまのところそれ以外の人は考えられません。小野は啄木の盛岡中学時代の親友の1人、ユニオン会のメンバー。東京帝国大学農科大学(農学部)に在学中、卒業論文を書くために東北地方の農村調査に入り、病を得て夭折した人です。小野の訃報に接した時啄木は日記にこう記します。

岩手日報に、石亀守人、伊東圭一郎、小沢恒一、田鎖徹郎、阿部修一郎、柴内保次連名の小野弘吉君を弔ふ文が出てゐる。あゝ小野君! これらの人数、最も先に最も小野君と最も親しかつたのは誰か? 小野君は二月二十二日に死んで二十六日に葬られた、農科の三年だつたのだ。旅中九戸郡江刈村で病気にかゝつたのだといふ、

もう1人の友は、これまで誰か分からないとされてきましたが、はっきりしています。宮永佐吉という盛岡中学に1番で合格した秀才です。岩手県下の秀才たちがこぞって受験した盛岡中学に1番で合格したのですから、すごい秀才です。ちなみに石川一は10番、小野弘吉19番でした。3人とも秀才中の秀才といっていいでしょう。

宮永佐吉のことは『石川啄木全集』のなかに4回も出てきます。一番くわしい記述を引いておきましょう(明治四十一日誌8月25日)。

”麹町二の十鶴鳴館宮永”といふ手紙が来た。久闊を叙して逢ひたいと言ふ。宮永といふのは、中学の一年の時同じデスクに並んだ男で、その後幼年学校(陸軍幼年学校)に入つて退校させられ、東京でゴロツキの小さな親分になつてゐたのを、三十五年の十二月、渋谷からの帰りの汽車の中で見た事があつたが、その男からの消息とも思へぬ。今は毎日加賀町の東京タイムス社に出てゐるといふから何れ此方で忘れて了つた新聞時代の友人だらうと思つた。それにしても不思議なので、夕方訪ねてゆくと不在。矢張旧友の佐吉君、中学の入学試験に一番だつた宮永佐吉君であつた。

<解釈>私に似た友の二人であった小野弘吉君、宮永佐吉君。東大でまじめに勉強していた小野君は夭折し、東京でゴロツキの小親分になっていた宮永君は牢を出て今病床に伏せっている。

次ぎに掲げる102ページ右の歌ももちろん宮永佐吉の歌です。

   そのむかし秀才の名の高かりし

   友牢にあり

   秋のかぜ吹く

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コメント

「あまりある才を抱き」の解釈で、先生は「モデル詮索不要論」にも言及されていますね。実は私は極端なモデル探しや、「東海の」のような場所探しには、引く思いがありました。例えば橘智恵子のようにはっきりとしたモデルがあったとしても、それはあくまで啄木の目を通したモデルであって、必ずしも現実の人物像とは違うのではと思っていたからです。
 でもこの歌の二人の友が、小野弘吉と宮永佐吉であるとう解釈、とても面白く読みました。これは二人の性格、生涯を理解してこそ、分かる歌であり、面白さが伝わる歌だと思いました。そしてどちらの友にも自分は似ているのだという啄木の内に秘めた複雑さも理解できるように思いました。本当に、ある面では啄木は真面目な秀才でもありました。そして秀才の枠に収まりきれない「ゴロツキ」さも併せ持つ人であったと思います。だからこそその迫間から素晴らしい歌が生まれたのだろうと改めて思いました。

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