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2010年1月

2010年1月31日 (日)

こつこつと空地に石をきざむ音  その1

     

     こつこつと空地に石をきざむ音

     耳につき来ぬ

     家に入るまで

<語意>耳につく=物音や声などが気になる。

作歌1910年(明43)10月13日。初出「精神修養」10年12月号。

「石をきざむ音」石工(いしく)がせっとう(石頭)とたがね(鏨)を用いて石材を刻む音。

「耳につき来ぬ」音が聞こえ始めてからずっとそれが気になって歩いて来た。

<解釈>帰宅の途中、コツコツと空き地で石を刻む音が気になった。家に入るまでずっと気にして歩いて来た。

啄木は神経過敏になっているようです。実は10月13日に作った歌にはこういう傾向を示す歌がいくつかあります。

「どんよりと その2」でも書きましたが、13日というのは次のような日です。10月4日から12日までの間に240首もの秀歌を作ってきれいに編集し『一握の砂』はほぼできあがっていたはずなのに、13日になってまたしても26首も作り『一握の砂』の原稿を再編集したのです。うち16首を「我を愛する歌」に、1首を「忘れがたき人人」に、3首を「手套を脱ぐ時」に編集します。わざわざ26首を作ったのは「我を愛する歌」の章を充実させるためでした。

自分の最新の歌(内容的にも技巧的にも)を作ってそのうち16首を10カ所の見開きにちりばめました。今見ている56-57ページの見開きもその1つです。2、3、4首が10月13日作です。

掲出歌と似た傾向を感じさせる歌を歌稿ノートの26首から引いてみましょう。既に論じたものも入れます。

  けものめく顔あり口をあけたてすとのみ見てゐぬ人のかたるを

  どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな

  何がなしに頭の中に崖ありて日毎に土のくづるる如し

  遠方に電話の鈴のなる如く今日も耳鳴るかなしき日かな

  たんたらたらたんたらたらと雨滴がいたむ頭にひびくかなしさ 

  人みなが家を持つてふかなしみよ墓に入るごとくかへりて眠る

以下次回。

2010年1月27日 (水)

ある朝のかなしき夢のさめぎはに

     

     ある朝のかなしき夢のさめぎはに

     鼻に入り来し

     味噌を煮る香よ

<ルビ>来(し)=き(し)。味噌=みそ。

<語意>味噌を煮る香=味噌汁を作っている時に立ちのぼる味噌の香。

作歌1910年(明43)10月13日、初出「精神修養」10年12月号。昔からすごい歌だと思って来ましたが、どこがすごいのか、この評釈の中で考えてみます。

「かなしき夢」、かなしさの内容は示されていませんが、「味噌を煮る香」との対比の中で考えることができそうです。

「さめぎわ」、まだ「かなしき夢」の中にいます。その夢の中にいる作者の鼻に「香」が入ってくるわけですが、はいった瞬間は嗅覚を刺激しただけで、まだ夢の中です。それから数分の1秒か、数秒か分かりませんが「味噌を煮る香だ」と意識されます。意識された瞬間がうつつ(=現実)に入った瞬間です。

そのままうつつに移ってしまったのか、夢の名残にまどろんだのか分かりませんが、「味噌を煮る香だ」はやがて強い力で作者を現実に引き入れたことでしょう。なぜなら、「味噌」は日本の調味料の元祖であり、その臭いは当時の日本人にとってもっとも強烈な生活臭の1つでしたから。

「味噌を煮る香」は家人が朝ご飯の用意の完了間近を意味し、作者にとっての1日の開始間近を意味します。

このあまりに現実的・生活的な「味噌を煮る香」に目を覚まされる前の「かなしき夢」にもどります。夢の内容も現実的・生活的なものだったのか、それとも二つは鮮やかに対照的なものだったのか。

ここでは夢とうつつが似た内容間の移行であるよりも、全くちがう世界間の移行だったと考える方が、啄木の歌らしいと思います。後者をわたくしは取ります。

「かなしき」は「愛(かな)しき」ととることもできます。「函館の青柳町こそかなしけれ」のあの「かなし」です。

この歌を作ったのは10月13日、10月4日に妻節子は長男真一を出産。掲出歌が作歌時に近ければ「味噌を煮」ているのは母カツでしょうか。

<解釈>ある朝切ない恋の夢を見てそのさめぎわに、隣の部屋から家人が煮る味噌の香が漂ってきて、わたしを夢からうつつへと連れ出したのだった。

切ない恋の夢という視覚的幻想世界と家族の朝飯で始まる日常的現実世界、夢からうつつへの回転軸になったのは味噌を煮る香という生活臭の典型。

山本健吉の評を引いておきます。

「味噌を煮る香」に、この作者特有のウィットがきいている。芭蕉の「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」に似ている。あまりにも現実的な、生活の匂いを思わせる味噌の香に、作者は夢から引きもどされるのである。

2010年1月25日 (月)

うぬ惚るる友に

     

     うぬ惚るる友に

     合槌うちてゐぬ

     施与をするごとき心に

<ルビ>惚(る)=ぼ(る)。合槌=あひづち。施与=ほどこし。

<語意>うぬ惚るる=自惚れる=自分の能力や容姿などを、実質以上にすばらしいものだと思い込んで得意になる。施与=恵み与えること。

初出「スバル」1910年(明43)11月号。

友が(おそらく文学的能力に)自惚れて語るのを聞くとき、かれ自身の思う能力と実力とのギャップを意識せざるをえなくなります。そこを突くのはかわいそうに思います。だから相手の言葉に同意のしるしを表してうなずき続けるしかないわけです。

その時の内心を思うとけっこう複雑です。1つうなずくごとに1つウソを演じていることになります。それはイヤだと思います。しかしうなずかなければ相手が傷つきます。それでは相手がかわいそう、と憐れみ情が浮かびます。うなずき続けてやるか。

そんな自分の内心をのぞき込んだ啄木は、托鉢僧や貧窮者に金品を与える行為(ほどこし=施与=布施)を連想し、自分の意識を「施与をするごとき心」と捉えたのでしょう。

こういう繊細・微妙な意識の彫りだしは啄木の独擅場です。

顧みると、わたくしも「施与をするごとき心」になったこともあったようですが、他人に「施与をするごとき心」になってもらったことの方が多いような気がします。

2010年1月21日 (木)

大いなる水晶の玉を

     

     大いなる水晶の玉を

     ひとつ欲し

     それにむかひて物を思はむ

<ルビ>欲(し)=ほ(し)

作歌は1910年(明43)7月26日夜。初出は東京朝日新聞10年8月4日「手帳の中より」で、掲出歌はその5首のうちの最後の1首。

7月26日夜に作ったのは10首ですが、3首目から9首目まですべてが大逆事件関係の歌です。10首目である掲出歌も同様の作品と見られます。さらに初出の「手帳の中より」でも最初から4首が大逆事件関係の歌ですから、5首目である掲出歌も同様と見なしうるでしょう。

さて、「大いなる水晶の玉」です。日本大百科全書によると、「水晶占い」はヨーロッパ諸国では古来行われている占法1つであると言います。しかし日本では水占いはあったようですが水晶占いは確証がないとのこと。またネット上の「パワーストーンなび」からの情報ですが、「古代から世界各地で瞑想や祈祷、宗教用具に多用されて」ており、「水晶を使った予言や占いは数多く見られ」るとのこと。

ネットで大きな水晶の玉を調べてみました。直径119,5ミリの品で2,572,500円というのがありました。直径62ミリで294,000円の品も。写真を見ているだけで「切に欲し」くなりましたが、これらの値段では「海綿」を買いよせるのと違って手が届きません。こんな大きな最高品質の玉を作れるのはブラジル産の原石を用いるからなのだそうです。

啄木が水晶占いやこんな大きな水晶玉の存在を当時知っていたかどうか、今のところ未詳です。また当時の日本産水晶原石から上記のような大きな水晶の玉が作られたかどうかも分かりません。

「大いなる水晶の玉」は啄木が6月に「よろこびもてあそ」んだ小さな「水晶の玉」から想像で作り出したものではないかと思われます。

人の心の瞬間の動きから日本や世界の現在や未来まで見える啄木ですから、2,572,500円の大きな水晶の玉があって、「それにむかひて物を思」ったら、どんな不思議な心が展開されていったか想像もつきません。

かれが「大いなる水晶の玉」に向かった時まず第一に思いたかったことは大逆事件をめぐる諸問題であったことは確実です。事件の厳重な隠蔽、極秘のうちに進められる検挙・取り調べ、予想される秘密裁判、何もかもが暗黒裏に進行する事件ですから、透明の美しい小宇宙のような水晶の玉に向かったなら、隠されている諸々を見せてくれるかも知れない、と啄木は空想したのでしょう。

<解釈>大きい無色透明の水晶の玉をひとつ欲しい。それに向かって物を思ったならば、暗黒裏に進行する幸徳事件の真相が見えてくるかも知れないから。

54、55ページの見開きの3首で「心の不思議な動き」をうたってきた啄木は、「大いなる水晶の玉」があったなら、すごい心の不思議が起こることだろうと暗示しつつ、見開きを閉じたのだと思われます。

2010年1月16日 (土)

事もなく

     

     事もなく

     且つこころよく肥えてゆく

     わがこのごろの物足らぬかな

作歌1910年(明43)8月3日-4日。初出東京毎日新聞同年8月31日。

「事もなく且つこころよく肥えて」ゆくのであれば、もう言うことなしの毎日でしょうに、かえって「物足らぬ」と不服を感じる心の勝手な動き。

54ページ右の歌が、英書を買う金が欲しいと日頃感じていたのだけれど、突然「今日」という日に「切に」その金が欲しい!と思う心の動きをうたっていました。

54ページ左の歌は、水晶の玉1個で日頃の張り詰めた思索から解放される心の動きをうたいました。

どうやら啄木はこの見開きで「心の動きの不思議」をうたっているようです。その不思議は万人共通のものでしょう。自分の心を意識して観てみると啄木がなんとみごとに心というものを掬いとっていることかと、感嘆するばかりです。

<解釈>取り立てて言うべき事件もなくそれとともに気持ちよく肥ってゆくこのごろの生活を、私の心は満足するのではなく、かえって物足りないと感じている。不思議なことだ。

2010年1月14日 (木)

水晶の玉をよろこびもてあそぶ

     

     水晶の玉をよろこびもてあそぶ

     わがこの心

     何の心ぞ

<語意>もてあそぶ=こころの慰めとして愛する。

初出東京朝日新聞1910年(明43)6月18日。

初出は「水晶の玉をよろこび弄そぶ我がこの心ひとり嬉しむ」。この場合は「我がこの心」をうれしく思っているわけです。

まず初出の方を考えてみます。この年の6月と言えば啄木の一生でもっとも重要な思想上の変革期。今かれは最後の最高の小説「我等の一団と彼」を執筆しながら、他方で久津見蕨村『無政府主義』を読み終え、幸徳秋水の代表作『平民主義』を読んでいる(あるいは読み終えた=6月14、15日)ころです。函館の岩崎正あてにかの重要な手紙を書いたのは6月13日。(以上のくわしいことは小著『『一握の砂』の研究』〈おうふう、2004年〉第Ⅱ部第三章参照)

啄木が時代の先端を疾駆する思想家に変わろうとしているまさにそのとき、かれは緊張した思索の日々を送っています。その様は上記岩崎あて書簡にも表れています。

そうした日常のひととき、水晶の玉を見つけてよろこび、こころの慰めとして愛し、それによってしばし無心になり得たことをうれしく思う、と初出歌はいうのでしょう。

『一握の砂』に収める時啄木は「ひとり嬉しむ」を「何の心ぞ」に変えます。これによって歌は、小さな水晶の玉1個によって緊張した思索から解放される心の不思議をうたったものに変わります。

<解釈>水晶の玉を見つけてよろこび、それを掌に乗せてもてあそんでいると、いつの間にか緊張した思索から解放されている。この小さな透明の玉によってこう変化する心って、いったいどういう心なんだ?

54ページ右の歌とのある共通のモチーフが見えています。

2010年1月11日 (月)

とある日に  その2

     とある日に  その2

02年(明35)の第1次上京の時、義兄山本千三郎から送金があるや下宿代も考えず丸善と中西屋(中古の洋書専門店)に行って英書を買いあさった啄木、心身病んで敗残の帰郷となった翌03年(明36)2月、父親のなけなしの財布から2円35銭出させてWagner を買ってもらった啄木、父堀合忠操によって監禁中の節子を動かしてSurf and Wave を買ってもらった啄木、啄木の英書を欲する気持ちはかれの天才が欲求するのであって、凡人には推知し得ない体のものです。啄木端倪すべからず。

傍証を1つ引用しましょう。1909年(明42)3月2日宮崎郁雨に出した手紙の一部です。希有のことですが2月26日啄木の懐に5円札が4枚も入っていました。

そしてフラリと中西屋――書肆――へ入つた。君、背皮の金文字が燦爛として何千冊の洋書の棚に並んでゐる前に立つたとき、僕は自分の境遇を忘れ、函館(函館にいる老母妻子―近藤)を忘れ、下宿屋のツケを忘れ、三秀舎を忘れ、・・・・・何もかも忘れた。忘れたのではない、それらを圧倒する或新しい気持に今が今までの堅い心を破られた。オスカーワイルドが最近英国詩人中の異彩であつたこと、その思想の世紀末的空気に充ちてゐることは多少聞いてゐた、そのワイルドの思想を覗ふべき一冊の紫表紙の本が鋭くも僕の目を射た、『高いに違ひない。馬鹿な、止せ、止せ、』と胸の中で叫びながら、僕は遂に番頭に言つた――

『これはいくら?』『三円五十銭でございます。』

『それその通り高い!』と僕は胸の中で言つた。その癖、殆んど本能的に僕は財布を出して、五円札一枚を番頭の手に渡した! 君、許してくれ。既に何年の間、本といふ様な本を一冊も買ふことの出来なかつた僕の、哀れな、憐れな、愍れな欲望は、どうしても此時抑へることが出来なかつたのだ、・・・・僕はその時、函館の商工会議所でエンサイクロペヂア、ブリタニカの臭ひを嗅ひだことを思出した。そして何か悪事でも働いた時の様な気持で中西屋を出たのだ――

まして1910年7月の啄木がどんなに英書が欲しかったか、推察できるでしょう。

しかしこの歌は英書を買う金が欲しいとうたっているのではありません。この日頃その金が欲しいと思っていたけれど、「今日」になって突然「切に」そう思うわが心の不思議な動きをうたっているのです。初出は4句が「今日は我切に」となっていて、「今日」を強調したい啄木の気持ちがよく出ています。

<解釈>このところ英書を買う金が欲しいと思っているわたしだが、ある日突然無性に酒が飲みたくなるように、今日突然心底から英書を買う金が欲しい!と思うことだ。

ちなみにつぎの歌は上の函館商工会議所での思いをうたったものです。

  あたらしき洋書の紙の

  香をかぎて

  一途に金を欲しと思ひしが

2010年1月10日 (日)

とある日に  その1

     

     とある日に

     酒をのみたくてならぬごとく

     今日われ切に金を欲りせり

<ルビ>切に=せちに。欲り=ほり。

<語意>切に=心の底から願うさま。

作歌1910年7月26日夜。初出東京朝日新聞1910年(明43)8月4日。初出では4句が「今日は我切に」と「は」が入っている。

岩城之徳氏はこの歌に「金欲しさの痛切な訴え」を見、今井泰子氏は「金ほしさ」という「欲望の悲しさ、いやらしい心の飢え」を見ています。上田博氏は「ふいに欲しいと思ったのである.人にはいろいろな衝動がある」と言います。木股知史氏は「生活者の金銭に対する痛切な欲望」を見ています。

啄木と言えば貧乏、貧乏と言えば啄木、みたいなところがありますが、かれは金があればあきれるくらい気前よく遣い、無いとずいぶん辛抱し、切羽詰まると借金する、のパターンを繰り返します。

つまり啄木は本来的には金に執着しないのです。大乗仏教では「施す者も、施される者も、施物も本来的に空であるとして、(布施は)執着の心を離れてなされるべきものとされた」(『岩波仏教辞典』)そうですが、僧家の出の啄木の金銭感覚にはこの布施の観念が流れているような気がします。

その啄木が金をこんなにほしがるのはむしろ異常です。

ここで20数年来の疑問がよみがえりました。啄木は大逆事件後社会主義・無政府主義の研究を始め、日本語で読めるものはほとんどすべて読みました。しかし英書で読んだ形跡はこれまでのところ見えません。なぜなのか。

掲出歌と結ぶとこの謎が解けます。かれの猛烈な知的好奇心は常人の理解を絶します。第1次上京時の英書漁りに始まるかれの英書購入をめぐるエピソードはドラマチックです。

作歌の日が7月26日であることの意味については本ブログ「かなしきは(飽くなき)」と「何がなしに」を再読されてご確認ください。この日に近いある日英書を買う金が無性に欲しくなるのは必然的と言っていいくらいです。

あとは次回です。

2010年1月 5日 (火)

何もかも行末の事みゆるごとき その2

    

     何もかも行末の事みゆるごとき  その2

この歌はまず、過去の心境をうたったものではなく、現在の「このかなしみ」をうたっています。したがって歌を作った8月8日前後の啄木を確認しておく必要があります。前歌「はたらけど」の評釈で書かれた啄木がその啄木です。もう少しくわしく書きましょう。1910年7月16日ころ、啄木は評論「所謂今度の事」を書き始めます。新聞を通じて大逆事件の内容と思想的背景とを国民に知らせ、あわせて厳重な取り調べをを受けている被告たち分けても幸徳秋水を間接的に弁護しようとしたのです。これは当時にあっては非常な知力と理性と勇気とを要する企てでした。こんな事を企てる人は当時の日本では啄木以外一人もいませんでした。そのくらい国家権力の弾圧は厳重を極めていたのです。

啄木は途中まで書いた「所謂今度の事」を東京朝日新聞の弓削田精一編集長代理のところに持って行きます。弓削田は数日間考えたようですが、7月26日(推定)に掲載不能を啄木に告げます。そしてこの26日夜から中断していた作歌を再開します。その26日夜に作った歌の1つが「はたらけど」です。その次ぎに記されている歌は「耳かけばいと心地よし耳をかくクロポトキンの書をよみつつ」です(「クロポトキンの書」はクロポトキン著幸徳秋水訳『麵麭の略取』)。合計10首作ります。翌27日も5首作ります。その中の1首に「赤紙の表紙手ずれし国禁の書よみふけり秋の夜を寝ず」があります。この「国禁の書」こそ、当時の国家権力から見て最悪の書すなわち幸徳秋水著『平民主義』です。その後8月3日-4日にも24首作ります。この頃つくる歌には大逆事件の影をおとしている作品が目立ちます。

8月29日(推定)、啄木は「時代閉塞の現状」を書き始めます。秋水が『平民主義』に描いた閉塞状況へ批判と闘いを受け継ぎ、強権すなわち国家権力との闘いを呼びかけるのです(詳しい読みは小著『『一握の砂』の研究』第Ⅱ部第三章)。

掲出歌はこうした啄木の、8月8日の作品なのです。まだ必要なもろもろの論証を省いて結論に行きます。だれの「行末」を指すのか? 大逆事件の被告たちの(分けても幸徳秋水の)行く末です。どんな「行末」を見ているのか? 秋水死刑を含む苛酷な判決が待つ被告たちの行く末です。

<解釈>大逆事件の被告たちの前途には秋水死刑を含む苛酷な判決が待っているようだ。何もかも行く末の事が見える気のするこのかなしみは、ああどうしても拭い去ることができない。

52、53ページの見開き4首には「見えすぎるかなしみ」というモチーフを読み取ることができます。

2010年1月 2日 (土)

何もかも行末の事みゆるごとき  その1

     

     何もかも行末の事みゆるごとき

     このかなしみは

     拭ひあへずも

<ルビ>拭ひ=ぬぐひ。

<語意>あへず=しきれない。も=(詠嘆の係助詞)~ことだ。

作歌は1910年(明43)8月8日昼。初出は同年8月31日の東京毎日新聞。2~4句は「行末のこと見ゆる如きこの悲しみは」。

さて、1行目の解釈です。これが分かりにくい。

まず「行末」 。

1、だれの「行末」? 自分の、他人の、日本の、人類の、などいろいろ考えられます。

2、「だれの?」に次いで、「どんな?」が待ちかまえています。

代表的な4氏の解釈を紹介します。

今井泰子-「行末」は作者自身の行末。変わるはずのない自分の力、自分の性格、楽になるはずない自分の生活という大前提を置いている。どのような夢も希望も真実のところは嘘であると思わざるをえない者の深い悲しみの歌。

岩城之徳-苦しい現実のもとでは、おそらく変わることのないであろう自己の「行末」。

上田博-漠然として、しかし確かに感じる「かなしみ」。この内面に感じられる「かなしみ」こそが自分の「行末の事」の予兆である。

木股知史-現在の延長線上に確実に予測される未来のイメージには、救いがない。現在のみならず将来まで運命に支配されてしまっていることが悲哀のもとなのである。

わたくしはどなたともちがう解釈になります。あとは次回に回します。

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