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2010年1月14日 (木)

水晶の玉をよろこびもてあそぶ

     

     水晶の玉をよろこびもてあそぶ

     わがこの心

     何の心ぞ

<語意>もてあそぶ=こころの慰めとして愛する。

初出東京朝日新聞1910年(明43)6月18日。

初出は「水晶の玉をよろこび弄そぶ我がこの心ひとり嬉しむ」。この場合は「我がこの心」をうれしく思っているわけです。

まず初出の方を考えてみます。この年の6月と言えば啄木の一生でもっとも重要な思想上の変革期。今かれは最後の最高の小説「我等の一団と彼」を執筆しながら、他方で久津見蕨村『無政府主義』を読み終え、幸徳秋水の代表作『平民主義』を読んでいる(あるいは読み終えた=6月14、15日)ころです。函館の岩崎正あてにかの重要な手紙を書いたのは6月13日。(以上のくわしいことは小著『『一握の砂』の研究』〈おうふう、2004年〉第Ⅱ部第三章参照)

啄木が時代の先端を疾駆する思想家に変わろうとしているまさにそのとき、かれは緊張した思索の日々を送っています。その様は上記岩崎あて書簡にも表れています。

そうした日常のひととき、水晶の玉を見つけてよろこび、こころの慰めとして愛し、それによってしばし無心になり得たことをうれしく思う、と初出歌はいうのでしょう。

『一握の砂』に収める時啄木は「ひとり嬉しむ」を「何の心ぞ」に変えます。これによって歌は、小さな水晶の玉1個によって緊張した思索から解放される心の不思議をうたったものに変わります。

<解釈>水晶の玉を見つけてよろこび、それを掌に乗せてもてあそんでいると、いつの間にか緊張した思索から解放されている。この小さな透明の玉によってこう変化する心って、いったいどういう心なんだ?

54ページ右の歌とのある共通のモチーフが見えています。

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