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2010年2月

2010年2月28日 (日)

邦人の顔たへがたく卑しげに  その1

     

     邦人の顔たへがたく卑しげに

     目にうつる日なり

     家にこもらむ

<ルビ>邦人=くにびと。

<語意>邦人=日本人。

初出「スバル」1910年(明43)11月号。同年10月4日~16日の作ということになります。

どうして「邦人(=日本人)」の顔が「たへがたく卑しげに」見えるのか。

何10年間にわたってわたくしの判断はブレませんでした。まして作歌の時期を考えるとますます確かと思われました。啄木は大逆事件に無関心な大多数の日本人にがまんがならなかった、顔も見たくないという気分になる日もあった、と理解していたのです。

しかしここで評釈をするにあたって動揺が起きてます。小著『啄木短歌に時代を読む』(174~175ページ)の叙述を思い出したのです。今年は韓国併合100年の年です。1910年(明43)8月22日「韓国併合に関する条約」が調印され、29日「韓国併合に関する宣言」が発表され、韓国は無残にも完全に日本の植民地とされます。この時の日本人の反応についてわたくしは以下のように書きました。

三〇日の『東京朝日新聞』の第二面と三面についてはさきにふれましたが、今度は同じ日の一面を見てみましょう。トップ三段抜きの丸善の広告は二冊の朝鮮語関係図書に関するもので、ここに引くのは八行からなる広告文のはじめの三行半です。

朝鮮に行け、朝鮮に行け、朝鮮は最早外国に非ざる也、末拓の美田、未知の天産、到る処に埋もれたる国富は有為なる日本人諸君の来(きた)るを待てり、朝鮮は閉ざされたる宝庫也、今や此宝庫の富は諸君に提供せられて諸君の腕次第割取(かっしゅ)するに任す……」

これが一書店の広告です。もう一つ同じ日の第七面にゼム(口中清涼剤)の広告があります。二段抜きの大きなものです。

二千年来の懸案解決して喜ぶべし 今や日韓合併! 提灯行列==祝賀会大いに騒いで大いに飲みこの慶事を記念せよ ナンボ飲んでも食っても『ゼム』さえあれば大丈夫

この二つのえげつない、品のない広告によって当時の日本の雰囲気は推して知るべし。

以上の叙述を読み返すと、わたくし自身にも韓国併合時の「邦人の顔」が「たへがたく卑しげに」見えてきます。

以下次回。

2010年2月25日 (木)

一隊の兵を見送りて  その3

     一隊の兵を見送りて  その3

1931年(昭6)、朔太郎の言う「この重量のある機械」は満州の大地を侵略します。反戦と革命の詩人槇村浩(1912~38)の「生ける銃架――満州駐屯軍兵卒に――」の1節を引きましょう。ついでに言えばプロレタリア詩人槇村浩は作家の中でいえば小林多喜二のような位置にある人です。

白樺と赤楊(はんのき)の重なり合ふ森の茂みに銃架の影はけふも続いて行く

お前の歴史は流血に彩られて来た

かつて亀戸の森に隅田の岸に、また朝鮮に台湾に満州に

お前は同志の咽を突き胸を抉り

(うずたか)い死屍の上を血に酔ひ痴れて突き進んだ

生ける銃架。おう家を離れて野に結ぶ眠りの裡に、風は故郷のたよりをお前に伝へないのか

愛するお前の父、お前の母、お前の子、そして多くのお前の兄妹たちが、土地を逐はれ職場を拒まれ、飢えにやつれ、歯を喰い縛り、拳を握って、遠く北の空に投げる憎しみの眼は、かすかにもお前の夢に通はぬのか

この皇軍(関東軍)は満州侵略では飽きたらず、1933年2月華北地方へ侵略を開始(熱河作戦)。あの悪逆無道の日中全面戦争の序曲です。宮沢賢治はその1933年8月30日、満州派遣歩兵第三一連隊第五中隊にいる伊藤与蔵にこんな手紙を書いています。「味読」されたし。

いろいろそちらの模様に就いては、弟への度々の手紙また日報等に於ける通信記事、殊に東京発刊の諸雑誌が載せた第二師団幹部とか、座談会記録に仍て読んで居りますが、実に病弱私のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。

然しながら亦万里長城に日章旗が翻るとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返つてゐるといふやうなことは、私共が全く子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。

殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知つてゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河錦州の民が皇化を讃えて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。(中略)

十月は御凱旋の趣、新聞紙上にも発表ありましたが、そちらとしてもだんだん秋でもありませうし、どうかいろいろ心身ご堅固に祖国の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかつたといはれる此の度の激しい御奉公を完成せられるやう祈りあげます。

ナチズム、ファシズムとならんで世界史上に悪名高い天皇制軍国主義を賛美するこの賢治を見よ。幸徳-啄木-朔太郎-槇村とは正反対の賢治がここに見えるでしょう。この手紙を書いて3週間後の9月21日賢治は亡くなります。賢治の天皇崇拝と天皇制軍国主義賛美は、田中智学の法華経と結びつきつつ、青少年時代から死にいたるまで一貫しています。

賢治研究者はわずかの例外を除いてこの事実には完全に眼を塞ぎます。賢治研究分野には、あってはならないことですが、いろいろタブーがあります。

わたくしは賢治の作品が総じて好きです。宮沢賢治の全作品を整合的に読み取る堂々たる研究の出現を強く望みます。

2010年2月23日 (火)

一隊の兵を見送りて  その2

     

     一隊の兵を見送りて  その2

「一隊の兵」は朔太郎の理解のとおり、「巨きな集団の機械」の行進と見てよいでしょう。その部品をなすのが個々の兵士たち。時は日露戦争終結後5年目(4年後には第一次世界大戦が始まります)。かれらのどの一人も行進に集中する以外何も考えることは許されません。行進中は愁い(嘆きや心配事)とは無縁です。「彼等」は「うれひ無げ」であるしかないのです。

なぜ「かなし」いのか。この歌を作るひと月半前啄木は幸徳秋水の主著『平民主義』を読んで強烈な衝撃を受けています。そこには日露戦争をめぐる「非戦論」もありました。16編収録されています。たとえば「戦争来」「吾人は飽くまで戦争を非認す」「兵士の謬想」など。「戦争来」から引きましょう。

行矣(ゆけ)従軍の兵士、吾人(ごじん)今や諸君の行(こう)を止むるに由なし。諸君今や人を殺さんが為めに行く、否(しから)ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希(ねが)ふ所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、……(中略)……嗚呼(ああ)吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為めに、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北(さくほく)の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向つて奮進せん、諸君若し死せば諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與(とも)に為さん。

まさに日本国憲法第九条につながる思想です。が、こうして日露戦争に赴く兵士たちのために身体をはって闘った人は、今大逆事件でとらえられ獄中にいます。しかし、兵士たちは「一個の自動機械」と化していて秋水等の闘いとは無縁です。

それがたまらなく切ない(かなしかり)と言うのです。わたくしはそう解します。

<解釈>行進して行く兵士の一隊を見送って私はかなしかった。かれらの表情には何の愁いもなさそうに見えたから。(人が兵士にされて人を殺したり、自分が殺されたりすることの無いようにと、命をかけて闘った人はいま獄に繋がれている。それなのに兵士たちは一個の自動機械に化していた。)

58-59ページ見開きのモチーフは「かなしい心四態」と言えるでしょう。

この歌をめぐって書いてきて槇村浩と宮沢賢治にも触れたくなりました。次回に「その3」を追加します。

2010年2月21日 (日)

一隊の兵を見送りて  その1

     

     一隊の兵を見送りて

     かなしかり

     何ぞ彼等のうれひ無げなる

<ルビ>何ぞ=なにぞ。

<語意>何ぞ=どうして。

作歌1910年(明43)8月3日夜-4日夜。初出東京朝日新聞1910年8月14日。

「一隊の兵」は隊伍を組んで行進する兵士たちでしょう。作者はそれを見つめそして見送ります。

「かなしかり」、何がかなしいのか。「彼等」が「うれひ無げ」だから。

啄木の歌はここからがむずかしい。「うれひ無げ」だとどうしてかなしいのか、歌は読者の思索を誘ったままで閉じられます。

萩原朔太郎はこの歌の継承者です。詩集『青猫』(1923年1月)の中の「軍隊 通行する軍隊の印象」という詩の中でうたいます。その第1連だけを引きましょう。

  この重量ある機械は

  地面をどつしりと圧へつける

  地面は強く踏みつけられ

  反動し

  濛濛とする埃をたてる。

  この日中を通つてゐる

  巨重の逞ましい機械をみよ

  黝鉄の油ぎつた

  ものすごい頑固な巨体だ

  地面をどつしりと圧へつける

  巨きな集団の機械だ。

   づしり、づしり、ばたり、ばたり

   ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

この詩の全体はたとえば岩波文庫『萩原朔太郎詩集』でも読む事ができます。その後の歴史を考えると、一種の予言詩となっています。

あとは次回にまわします。

2010年2月16日 (火)

死にたくてならぬ時あり

     

     死にたくてならぬ時あり

     はばかりに人目を避けて

     怖き顔する

<語意>はばかり=便所。

初出『一握の砂』。したがって、作歌は1910年10月4日~16日。これまで何度も書いていますが、歌集初出の歌の非常に多くはそれまでの全日記を読み返す中で作っています。この歌もその中の1首でしょう。

「死のうか、死のうか」と思い詰めて行くのではなく、「死にたくてならぬ」方へと思いが煮詰まって行ったのが「死にたくてならぬ時」でしょう。

「死のうか」の出発点は生きているのがつらい、でしょう。「死にたくてならぬ」の出発点は生きているのがいやになった、でしょう。

啄木の「自殺」についてはこのブログでももう何度も書いていますが、おさらいをしておきます。

1902年(明35)12月~03年2月。最初の上京の挫折時(最後の頃は真冬にホームレスにまでなった)。

1907年(明40)5月4日夜、北海道に渡る連絡船上で(故郷喪失が悲しくて)。

1908年(明41)6月下旬~7月下旬(下宿追放の恐怖の中で)。

1909年(明42)4月~6月中旬のローマ字日記の時期(小説が書けなくて)。

このうち、生きているのがいやになった、のはローマ字日記の時期です。次に引くのは啄木の詩論「弓町より(四)」(09年12月)の一節で、「森川町の下宿屋」はローマ字日記を書いていた蓋平館。つまり一節の内容はローマ字日記の時期のことです。

自分で自分を自殺し得る男とはどうしても信じかね乍ら、若し万一死ぬ事が出来たなら……といふ様な事を考へて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀(かみそり)を持つて来て夜半潜(ひそ)かに幾度(いくたび)となく胸にあてて見た……やうな日が二月(つき)も三月も続いた。

部屋で剃刀を胸に当てて見ても、自分自身をあまりに愛している啄木は、自殺などできせん。そこで剃刀を持って便所に行き「オレは本気だぞ」と怖い顔をして剃刀を胸に当ててみた。そんな一人芝居をした事もあったでしょう。

掲出歌は深刻でもありますがユーモラスでもあります。ローマ字日記が、深刻きわまりない苦悩と極限に挑戦する強靱な精神とをあわせもつのに、照応しています。啄木は常にもう一人の自分を冴えわたる目で見ています。

<解釈>小説が書けなくてこの世がいやになり、剃刀で心臓を割いて死にたいと思うが、そんなことはどうしてもできない。そこで人に見られないように便所に隠れ、剃刀を胸に当てて「オレは本気だぞ」と怖い顔をしてみたこともあった。

2010年2月13日 (土)

垢じみし袷の襟よ

     

     垢じみし袷の襟よ

     かなしくも

     ふるさとの胡桃焼くるにほひす

<ルビ>垢=あか。袷=あはせ。胡桃=くるみ。

<語意>垢じみし=垢が付いてよごれた。袷=裏のついている着物。

作歌1910年(明43)10月13日。初出『一握の砂』。

昔の着物(特に裏付きである袷)の洗濯は今とは比較にならないくらい手間がかかりました。まず着物をすべてほどきます。それから元の反物の状態に縫い直し、それを盥(たらい)で洗濯します。洗濯しすすいで濡れたままの反物状の布を板に張ります(以上が「洗い張り」)。洗い張りで、汚れが落ちてしわもなくなった布をもう一度ほどいて、今度は一針一針また縫って、もとの着物に仕立て直します。

こんな風に手間がかかりますから、そうそう洗濯などしていられません。主婦や母(洗濯してくれる人)に生活の余裕がない時には「垢じみ」たのを着ることにもなります。

人はふっと自分の襟元の匂いを嗅ぐことがあります。袷の垢じみた襟が胡桃を焼いた時の匂いを連想させます。こういう記憶わたくしにもあるように思います。この歌をはじめて読んだ50数年前からそう思っているような気がします。

さて「垢じみし袷の襟よ」にもどります。「袷」の語感は歌が秋のある時の(それも作歌時に近い10月の)感慨だろうと知らせています。しかもこの袷は2年半前に単身上京してすぐ、妻の節子が「針の一目一目に心をこめ」て縫い上げ、函館から送ってくれた袷だろうと思われます(日記明41・5・7)。1年4ヵ月前には母と妻子も上京・同居、そして今に至るまでの2年半は啄木個人の心身も家族の生活も激動しました。

「垢じみし襟」にはそうした生活の記憶がしみ込んでいます。もちろんふるさとに帰りたくても、この2年半はそんな時間も金も一切なし。

「かなしくも」は、「も」を強意・詠嘆の意を表す係助詞と解して、「かなしくもまあ」くらいの意味でしょう。「(にほひ)す」に係ります。

「ふるさとの胡桃焼くるにほひす」 「ふるさとの」は「胡桃」に係るのではなく、「胡桃焼くるにほひ」全体に係ります。「東海の小島の磯の」の「の」ではありませんが、内容のぎっしり詰め込まれた「の」です。

「の」には簡潔にしても(ふるさとの)「宝徳寺の、庫裏(住職一家の住むところ)の、囲炉裏で」という言葉が詰められています。

<解釈>この2年半の私と家族の生活の激動がしみ込んだような、垢じみた袷の襟の匂いをふと嗅ぐと、かなしくもまあ、恋しいふるさとの、宝徳寺の、庫裏(住職一家の住むところ)の、囲炉裏で胡桃が焼けた時の匂いがする。

2010年2月 9日 (火)

遠方に電話の鈴の鳴るごとく

     

     遠方に電話の鈴の鳴るごとく

     今日も耳鳴る

     かなしき日かな

<ルビ>遠方=ゑんぱう。鈴=りん。

<語意>電話の鈴=下記評釈の解説参照。

作歌1910年(明43)10月13日。初出「スバル」「精神修養」の同年12月号。

「こつこつと空地に石をきざむ音 その2」で書いたように、10月13日は心身の緊張・酷使の極限状況にある啄木ですから、(素人判断ですが)耳鳴りが起きても不思議はないでしょう。音は「遠方に電話の鈴の鳴るごとく」ですから、おそらく「リーン」とか「キーン」と鳴っているのでしょう。

当時東京朝日新聞社で使っていたのはソリッドバック磁石式電話機と推定されますが、啄木が掲出歌で「電話」という時の機種はこれと考えてまちがいないでしょう。

この機種は、上方にロボットの目玉みたいなのが2つあって、これが「鈴」。2つの「鈴」のあいだにある玉付きの鉄片が左右に激しく往復して鈴のたたきます。

Google→画像→「ソリッドバック式電話機」で検索してみてください。いい画像がたくさん見られます。

わたくしはソリッドバック磁石式電話機の音を聞かせてもらったことがありますが、昔の黒電話機の音に似ています。

ところでわたくし自身56歳のとき、群馬大学に勤めて間もなく、教授会で耳鳴りが始まりました。耳鳴りの初体験でした。間もなく慢性化して今にいたっています。啄木の言うように「電話の鈴」にそっくりですが、「リリリリリリ」ではなく「リーーーーー」と高く単調に、起きている間中鳴っています。今も鳴っています。この音を意識するたびに「遠方に電話の鈴の鳴るごとく」とは啄木うまく表現したものだなあと、かなしく感心するばかりです。

<解釈>遠くで電話の鈴が鳴るように、今日も耳が鳴っている。(ほとんど言語に絶する忙しさのせいだろう。仕事が一段落するまで直りはすまい。今日も)かなしい日だ!

2010年2月 6日 (土)

何がなしに

     

     何がなしに

     頭のなかに崖ありて

     日毎に土のくづるるごとし

作歌1910年(明43)10月13日。初出「スバル」と「精神修養」の同年12月号。

この歌の2行目、3行目がまったく分かりません。イメージできないのです。

先行の解釈を列記して責めを塞ぐことにします。

山本健吉:「こつこつと」以下三首は前歌と同じ時の作。何か神経の疲労から、ノイローゼ気味になっている状態を詠み取っている。それぞれ頭の中の幻聴、幻想を、具体的な比喩を用いて言い、一つの精神の危機感が鋭く表現されている。

今井泰子:「崖」の険しさに心の険しさをたとえ、その土がくずれて平坦になって行くさまを思い描いて、生活の中で「日毎」に自分らしさがくずれていく思いをいう。「くづるる」の自動の表現が、自分の生命の意ならずしてくずれていくのを感じている彼の心を伝える。

上田三四二:病的な内容であるが、このようにうたう啄木の心は醒めている。そして自分をよく対象化している。自分が崩れてゆくという意識はこの頃の啄木には濃厚にあったようで、「我を愛する歌」の章の特色の一つは、そこに自殺念慮がしばしば取り上げられていることである。この一首は比喩のイメージが鮮明で暗澹とした内容にもかかわらず、歌そのものは濁っていない。(「国文学」1978年6月臨時増刊号)

上田博:頭のなかに「崖」が感じられて、その「崖」が崩落をはじめる。大小さまざまな石が、崩れる土塊と共に落下を続け、体の中へ加速しながら沈んでゆく。この歌の作られた年の九月九日夜に記された「歌稿ノート」には、「何となく頭の中に水盛れる器のある如しぢつとしてゐる」の歌があり、この年四月には、「夏の日に蝋の融くるが如くにも我が道念の融けゆきしかな」の歌が作られている。<観念>の塊のような人間の「頭のなか」に何らか化学反応が起こっていて、いよいよ「頭のなか」の変化が音をたてはじめたのである。頭が「頭のなか」で発生している事態を幻視する。こうした実感を「かなしも」と表現した。「も」に強い感情を含意している。

木股知史:生命の内的な崩壊感覚をとらえた歌。「何がなしに」という言い方で、崩壊を意志でくいとめることができないことを示している。自己の内部を放置して、その崩壊を遠くから眺めているような脱力した感覚が、かえって疎外の深さを感じさせる。

わたくし自身の評釈は、理会でき次第書きます。あえて申しますと上記5氏の評釈中では山本健吉氏のものに近い気がしています。

なにしろ「頭のなかに崖があ」るような、という比喩がまったくイメージできないのです。勘ですが啄木が当時読んだものの中に、鍵があるのではないかと思っています。

掲出歌が解けないので、56-57ページのモチーフについても今のところ何とも言えません。

2010年2月 3日 (水)

こつこつと空地に石をきざむ音  その2

     

     こつこつと空地に石をきざむ音  その2

1910年(明43)10月22日付けで啄木は函館時代の親友吉野章三に手紙を書いています。この手紙には10月13日の啄木を理解するカギが隠されているようです。引きましょう。

引用部分の前に、啄木が函館時代の友人並木武雄(既出)・丸谷喜市(当時東京高等商業学校=後の一橋大学の学生)と3人で、16日の夜浅草で遊んだ話が出て来ます。「仮面会」と称してイカモノを食べたり、女芝居をみたり、射的をしたり、はては塔下苑(私娼窟)を歩いたりします。そして22日これを吉野に報告したわけです。以下はその続きです。

前記仮面会の一夜は、いかにも馬鹿気たることには候へども、これ実にこの二ヶ月余の間の小生にとりて唯一度の休息時間なりしことを御憐れみ被下度候、ことに先月中頃よりの匇忙は殆んど言語に絶し、三日に一ぺんの夜勤もあり、夜は毎晩暁近くまで仕事して、それでも後から後からと用が出来、殆んど不休の一ヶ月を過して今猶机上には二葉亭全集第二巻の校正と歌壇の投稿二百余通山積致居候、もう二三日にて歌集の校正と、また全集第三巻の原稿整理など始まるべく、いつか一日ゆつくり寝てみたしなど申して家人に笑はれ居候、

まず「この二ヶ月余」ですが、魚住折蘆の文に触発されて「時代閉塞の現状」を構想・執筆したのが8月下旬から9月上旬、その新聞掲載不可能を知らされて大量の歌を作るのが9月9日、前日8日に朝日歌壇をもうける旨の予告を出して、歌壇を始めたのが15日。以後は「殆んど不休の一ヶ月」です。10月4日長男出生、その4日から始まる『一握の砂』創造の超人的仕事ぶりの一端はテキスト315ページ参照。これらは朝日新聞に週6日校正係として勤め、3日に1度の夜勤もやりながらの生活なのです。これを踏まえて啄木の手紙をもう一度読んでください。

啄木の心身の緊張・酷使は極限に達していたと思われます。そして身体そのものが衰弱し始めていました。衰弱した体内で出番を待っているのがかれの場合は結核菌。12月発症します。

こういう極限状態に啄木がいた、と考えると「その1」で引用したような歌々が出てくるのも理解できる気がします。

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