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2010年2月23日 (火)

一隊の兵を見送りて  その2

     

     一隊の兵を見送りて  その2

「一隊の兵」は朔太郎の理解のとおり、「巨きな集団の機械」の行進と見てよいでしょう。その部品をなすのが個々の兵士たち。時は日露戦争終結後5年目(4年後には第一次世界大戦が始まります)。かれらのどの一人も行進に集中する以外何も考えることは許されません。行進中は愁い(嘆きや心配事)とは無縁です。「彼等」は「うれひ無げ」であるしかないのです。

なぜ「かなし」いのか。この歌を作るひと月半前啄木は幸徳秋水の主著『平民主義』を読んで強烈な衝撃を受けています。そこには日露戦争をめぐる「非戦論」もありました。16編収録されています。たとえば「戦争来」「吾人は飽くまで戦争を非認す」「兵士の謬想」など。「戦争来」から引きましょう。

行矣(ゆけ)従軍の兵士、吾人(ごじん)今や諸君の行(こう)を止むるに由なし。諸君今や人を殺さんが為めに行く、否(しから)ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希(ねが)ふ所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、……(中略)……嗚呼(ああ)吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為めに、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北(さくほく)の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向つて奮進せん、諸君若し死せば諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與(とも)に為さん。

まさに日本国憲法第九条につながる思想です。が、こうして日露戦争に赴く兵士たちのために身体をはって闘った人は、今大逆事件でとらえられ獄中にいます。しかし、兵士たちは「一個の自動機械」と化していて秋水等の闘いとは無縁です。

それがたまらなく切ない(かなしかり)と言うのです。わたくしはそう解します。

<解釈>行進して行く兵士の一隊を見送って私はかなしかった。かれらの表情には何の愁いもなさそうに見えたから。(人が兵士にされて人を殺したり、自分が殺されたりすることの無いようにと、命をかけて闘った人はいま獄に繋がれている。それなのに兵士たちは一個の自動機械に化していた。)

58-59ページ見開きのモチーフは「かなしい心四態」と言えるでしょう。

この歌をめぐって書いてきて槇村浩と宮沢賢治にも触れたくなりました。次回に「その3」を追加します。

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