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2010年2月13日 (土)

垢じみし袷の襟よ

     

     垢じみし袷の襟よ

     かなしくも

     ふるさとの胡桃焼くるにほひす

<ルビ>垢=あか。袷=あはせ。胡桃=くるみ。

<語意>垢じみし=垢が付いてよごれた。袷=裏のついている着物。

作歌1910年(明43)10月13日。初出『一握の砂』。

昔の着物(特に裏付きである袷)の洗濯は今とは比較にならないくらい手間がかかりました。まず着物をすべてほどきます。それから元の反物の状態に縫い直し、それを盥(たらい)で洗濯します。洗濯しすすいで濡れたままの反物状の布を板に張ります(以上が「洗い張り」)。洗い張りで、汚れが落ちてしわもなくなった布をもう一度ほどいて、今度は一針一針また縫って、もとの着物に仕立て直します。

こんな風に手間がかかりますから、そうそう洗濯などしていられません。主婦や母(洗濯してくれる人)に生活の余裕がない時には「垢じみ」たのを着ることにもなります。

人はふっと自分の襟元の匂いを嗅ぐことがあります。袷の垢じみた襟が胡桃を焼いた時の匂いを連想させます。こういう記憶わたくしにもあるように思います。この歌をはじめて読んだ50数年前からそう思っているような気がします。

さて「垢じみし袷の襟よ」にもどります。「袷」の語感は歌が秋のある時の(それも作歌時に近い10月の)感慨だろうと知らせています。しかもこの袷は2年半前に単身上京してすぐ、妻の節子が「針の一目一目に心をこめ」て縫い上げ、函館から送ってくれた袷だろうと思われます(日記明41・5・7)。1年4ヵ月前には母と妻子も上京・同居、そして今に至るまでの2年半は啄木個人の心身も家族の生活も激動しました。

「垢じみし襟」にはそうした生活の記憶がしみ込んでいます。もちろんふるさとに帰りたくても、この2年半はそんな時間も金も一切なし。

「かなしくも」は、「も」を強意・詠嘆の意を表す係助詞と解して、「かなしくもまあ」くらいの意味でしょう。「(にほひ)す」に係ります。

「ふるさとの胡桃焼くるにほひす」 「ふるさとの」は「胡桃」に係るのではなく、「胡桃焼くるにほひ」全体に係ります。「東海の小島の磯の」の「の」ではありませんが、内容のぎっしり詰め込まれた「の」です。

「の」には簡潔にしても(ふるさとの)「宝徳寺の、庫裏(住職一家の住むところ)の、囲炉裏で」という言葉が詰められています。

<解釈>この2年半の私と家族の生活の激動がしみ込んだような、垢じみた袷の襟の匂いをふと嗅ぐと、かなしくもまあ、恋しいふるさとの、宝徳寺の、庫裏(住職一家の住むところ)の、囲炉裏で胡桃が焼けた時の匂いがする。

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